第 二章 親友 - 後篇
茉莉亜の高校はレベルが低く荒れていた。大学進学率はゼロに等しく、科学者になりたいなどと言うのは茉莉亜くらいだった。さらに、茶髪か金髪にカラコンの生徒が大半を占める高校で、茉莉亜自身が誇りに思うつやつやした漆黒のストレートヘアと、同じ色をした陶器の様な瞳はかなり浮いていた。170cmまで伸びた身長は、不気味という評判の広がりを加速させた。「髪染めなよ~、かわいいのにもったいなぁ~い。」「化粧しなよ~、みんなしてるのに変だって。」と騒ぐ互いに蹴落とし合うだけのうるさい“女のコ”達を適当にあしらいながら、嫌いなことを避け続けてきた自分を責めた。こんなところに3年もいなければ高校卒業資格が取れないと思うと落ち込んでは長い時間立ち直れなかった。
茉莉亜の祖父は、中学高校時代に戦争で授業が受けられなかった世代である。こうなることを知っていれば、雪菜のように勉強したくない気持ちに打ち勝てていれば、今頃…。グレなかったのは、雪菜との約束と科学者になる目標があったからだ。
高校2年生になった茉莉亜は雪菜と同じ予備校に通い始めたが、どの教科も同じレベルに振り分けられるはずはなくすれ違いが続いていた。茉莉亜は科学者になるためには大学に行かなければならず、1番嫌いな英語がどの大学に入るのにも必要だと知って以来、これだけはどんなに無駄だと思っても我慢して勉強するようになっていた。和訳はたまにほめてもらうことだってあった。「君はずっと勉強をサボっていたから、母語の干渉が全く見られない素直な訳を書く。」と。中学の時とは違い、理系科目も教科書を読んで問題を解く程度の勉強が必要になってきた茉莉亜は、人よりだいぶ遅いが“努力して身につける”ことを学び始めた。15年以上生きてきて初めてやってみた努力は中途半端に実を結び、英語の偏差値は40を超えるようになった。
高校3年生冬。センター試験を控えた茉莉亜は、予備校の全レベル共通準備クラスで中学卒業後初めて雪菜と同じ授業を受けた。懐かしい再会は、凍えるような寒さと試験本番への緊張から2人を暫し解放した。そして、茉莉亜の身長がとんでもなく伸びたこと以上にビックリするような、嬉しい事実も判明した。
「志望校同じ?!」
「学科も一緒?!」
「ウソでしょ~!!」と同時に言った後、2人で大笑いして警備員にうるさいと怒られた。お互い、志望校や偏差値なんていうデリケートな話は電話やメールではしたくなかったから今までしなかった。受験者がどんなに多くても理系科目でコンスタントに1桁の順位をとる英語の偏差値40の茉莉亜と、どの科目も平均よりやや上の雪菜は似たような判定を取るようになっていた。同じ生物工学を志望したのは偶然であったが、大学を選んだ動機は一緒だった。2人とも、高校生活で中学以上の“女のコ”同士のいざこざを見てきたがために家から通える理系の単科大学を志望したのだ。話が弾んだ。
「雪菜もそう思う?やっぱり、大学は勉強するために行く訳だからめんどくさいことない方がいいよね!」
「当たり前じゃん!茉莉亜、高校でグレちゃうと思って本気で心配したよ。でも、また同じ目標が出来てよかった!」
「それにしても、雪菜は足切り点あるところ併願出来ていいなー。」
「何言ってるの?大学入っちゃえば絶対茉莉亜の方が有利だよ。」
「ハハッ」とまた同時に笑いだしたが、今度は怒られないように声を抑えた。変わらない。自分にはないものを持っている何よりも大切な親友。
再会当日こそ純粋に楽しい時間を過ごしたものの、その後片方だけ受かるという最悪の事態が頭をよぎった2人は気が休まらなかった。教科ごとのレベルが違いすぎる2人には一緒に勉強も難しかった。
試験当日、一緒に会場まで行った。張り詰めた空気と沈黙だけがあった。一緒に試験を受けて理数系科目を茉莉亜が、英語を雪菜が採点した。
「茉莉亜…英語…ヤバいよ…。」
「数学と化学が満点だから、何とかなってほしい。雪菜は、例年通りのレベルならギリギリ受かるっていうところかな。英語もそれなりに取れてるでしょ?」
「うん……。」
沈黙と気まずさが2人とその周囲を包みこんだ。普段より勢いよく鳴っていた心臓が止まるかと思うくらい緊張した。もう、結果は変わらない。発表当日までの時間が永遠のように感じられた。生まれて初めて一緒に居るのが苦しかった。苦しかったが1人で結果を見る勇気はどちらにもなかった。発表当日、2人揃って恐る恐る大学のホームページにアクセスした。手が震えた。2人とも、相手が受かって自分が落ちる図を想像した。合格者の受験番号がスクリーンに映し出される。願書を同時に出した2人の受験番号は1番違いだ。
2人揃って合格。
茉莉亜は自分と雪菜が同じ年の同じ土地に生を受けたこと、また大学で一緒に居られることを存在すら信じていない神様に心の底から感謝した。
3年ぶりに一緒に泣いた。今度は、嬉しくて。雪菜の両親と兄が盛大に祝ってくれた。もちろん、1番喜んでいた茉莉亜の祖父とずっと支え続けてくれた祖母も一緒に。「おじいちゃん高給取りだったから、お金のことは心配するな。アルバイトなんてしなくていいからしっかり勉強するんだぞ。」と最高の笑顔で誇らしげに言った茉莉亜の祖父は、何十年も前に祖母が編んだボロボロのセーターを着ていた。
茉莉亜からの珍しい依頼を夜中に受けた雪菜は、翌朝会社へ向かう電車から返信をした。雪菜が大学を卒業後、食品会社の品質管理部で書類作成の仕事を始めてから2年が経とうとしていた。時間を惜しまず勉強し、ミスの少ない雪菜にはぴったりの職種だ。
『どうしたの?珍しいじゃん。そんなに急ぐなら今夜時間作るよ。』
『メールじゃなくて話すよ。今夜、お願い。』
日本の午後8時は、カリフォルニアの午後1時。茉莉亜は午後の実験予定を手帳から削除した。
「雪菜、どうしよう。どこから話していいやらもう分からなくって!」
「どうしたの?茉莉亜らしくないよ。とりあえず、何があったか時系列で言ってみなよ。」
「うーん、なんかね、私の事好きな人が居るの。」
「え?!もしかしてアメリカ人?なーんだ。よっぽどヤバいトラブルがあったのかと思って心配したけどのろけか。ま、普通に嬉しいけどね。」
「うん、トラブルはあってさ。現状を言うと、クリスマスのちょっと前に初めて会ってお母さんとか兄弟の居るクリスマスパーティに誘われたの。」
「えー、いきなり?!」
「いや、こっちでは友達呼ぶのもパーティはしごするのも普通。日本の正月みたいなもんよ。」
「そっか。」
「知り会ってから全然経ってないし、私の事も全然知らないはずなのに猛アタックで…。」
「え、クリスマスってことは、まだ3カ月位だよね?茉莉亜はどう思ってるの?」
「かわいいー!!大きくて白くてやわらかくてあったかくて!!」
「……。なんだ、まぁ展開は早すぎるし好きな理由もどうかと思うけど上手くやってるってことね。で、トラブルって何?研究に集中できないとか?」
「ううん、違うの。実は、彼の親友に難ありの彼女が居て。日本と違ってカップルはセットって考えだから接点なくせないの。」
「ああ…めんどくさそう。」
雪菜はこれまで茉莉亜と共に目撃し、近寄らないようお互い気をつけていた“女のコ”同士の引きずりおろし合いを想像しながらうなだれた。
「そいつ脳内お花畑でさ、最悪なことに日本人なの。」
茉莉亜は完全に香奈絵を忌み嫌ってはいなかったが、どうしよもない気分の悪さを感じていた。寧ろ完全に嫌いになれていたら、これから関わるかどうかの選択肢が自分にあれば、話はもっと単純だった。自身の気持ちを整理するため、雪菜にこれまでのいきさつを話した。