第 二章 親友 - 前篇
『雪菜~、いつだったら予定空いてる?出来るだけすぐ。緊急事態なの。悪いけど、すぐ返信ちょうだい。』
日本の年度が終わろうとしている3月中旬、アメリカで生物工学の修士号を取得中の茉莉亜は、親友の天宮雪菜にスカイプで直接話したいというメールを日本に飛ばした。雪菜にとって常に冷静沈着、人を振り回すことはあっても人に振り回される事のない茉莉亜からこんな事を頼まれるのは珍しかった。雪菜に自覚はないが、こんな時茉莉亜が頼れるのは雪菜だけである。2人は、生まれてから茉莉亜がアメリカの大学院に進学するまでずっと近所同士の幼馴染だ。
茉莉亜は、男の子至上主義で弟を溺愛する両親に捨てられたのも同然で父方の祖父母に引き取られた。尤も祖父は、代々科学者の家系を受け継ぐ糸川家でその道に進まなかった茉莉亜の父親をあまりよく思っていなかった。戦争時代の記憶を残す祖父の考えは古かったが、孫達の中でも突出して地頭のいい才能あふれる茉莉亜を引き取れたことを心から喜んだ。祖父は、茉莉亜と雪菜の幼稚園が終わってから動物園、植物園、水族館に時間を惜しまず連れて行った。雪菜を連れて行ったのは2人がテコでも離れなかったからだ。いつの間にか、孫がもう1人増えたようだった。茉莉亜も自分にはいないやさしい両親や仲のいい兄のいる雪菜の家が大好きで、よく遊びに行った。
茉莉亜と雪菜が小学校に上がってからは、祖父はよく2人に顕微鏡で色々なものを見せてくれた。学校を午前中で終えた1年生の2人は、楽しみで仕方がないといった様子で茉莉亜の家に仲よく帰った。
「いいか、これは茉莉亜のひいじいちゃん、おじいちゃんのお父さんが観察していたカビだよ~。ここから覗いてごらん。あんまり近すぎちゃだめだぞ。あと、レンズに触っちゃダメだからな!」
2人は、まるで双子のように全く同じ話し方で「すごーい!」「きれい!」を連発した。
茉莉亜という日本でなじみの薄い名前は、女の子が生まれてがっかりした両親の代わりに祖父母がつけてくれた。歳を取っても社会との関わりを捨てなかった祖父は、茉莉亜と雪菜が行く予定の小学校に自分達の時代では考えられなかった外国人が何人か居ることを知っていた。英語が敵国語だった第二次世界大戦中に青春時代を過ごした祖父母であったが、キリスト教のマリア様くらいは知っていて誰でもすぐに覚えられるこの名前を付けた。陶器の様な漆黒の瞳を持つ孫娘が、ジャスミンの如くアジアの魅力を世界中に振り撒きますようにと願いを込めて。
「今度、茉莉亜の学校に居るガイジンのお友達も連れておいで。」
「おじーちゃん、ガイジンは使っちゃいけない言葉だって学校で先生が言ってたよ!国語辞典にも、よそ者だって仲間じゃないって書いてあったもん。おじーちゃん、学校で国語辞典の使い方まだ習ってないの?」
茉莉亜は小学校で配られたばかりのピカピカの国語辞典をランドセルから取り出して自慢して見せた。
「すまん、すまん。茉莉亜のお友達が嫌がることおじいちゃんが言っちゃいけないな。ハーフの子も居るだろうから、おじいちゃん気をつけるよ。」
「ハーフもダメ!!半分じゃなくて“ミックス”なのっ!!!もうっ、絶対連れてこない!」
「すまん、すまん。そんなこと言わないで…。」
かつて聡明な研究員として大企業で活躍していた祖父も、雪菜の前で大事な孫娘を怒らせてしまっては形無しである。祖父母の願った通り茉莉亜は友達想いで外国人にも偏見のない、寧ろ日本に来てくれたことを感謝するやさしい女の子に成長していった。糸川家の血を濃く受け継いだ茉莉亜は幼いながらに大変賢かった、まではよかったが同時に成績優秀で高校卒業後すぐに銀行員となった反対側の祖母から強烈な現実主義と頑固さも受け継いでいた。学校から渡された担任の日記に6歳にして『かわいげがない』と書かれたのを見て、さすがの祖父母も絶句した。書く方も教師としてどうかと思ったが、本当のことだったから何とも言い難かった。
勉強が本格的に始まってから、雪菜と茉莉亜の差はどんどん開いていった。中学生の雪菜は、茉莉亜が数学や理科の授業で起きているのを見たことがなかった。茉莉亜いわく“時間の無駄”なのだそうだ。現実問題、茉莉亜は数学の教科書を読まなくても考えれば試験問題を時間内に全て解けたし、理科で教わる内容は全て祖父に教わってしまっていた。茉莉亜は、この2科目で常にトップだった。将来科学者になると心に決めていた茉莉亜にとって国語と社会は無駄な勉強であったし、中学から始まった文法ばかりで実用性のない英語は1番嫌いな科目だった。“かわいげがない”茉莉亜は、国語は母国語の学習を通し論理的思考能力を組み立てるためにあり、社会は歴史上の失敗を省みるため出来事の原因と結果を分析する授業をすべきと考えていた。生ぬるい物語文の読解やつまらない年号の暗記は地獄だった。努力が出来ない自分を責めないではなかったが、やはり向いていないし無意味だという考えを捨て切れなかった。茉莉亜の成績表には数学と理科を除いて最低評価が並んだ。
一方、茉莉亜の祖父から“英才教育”の流れ弾を食らい、建築家の父親と工業化学専攻の兄を持つ雪菜もまた将来理系に進みたいと漠然と考えていた。どんなに頑張っても茉莉亜の成績を数学と理科では上回れなかったものの、全ての科目をコツコツと勉強した雪菜は総合的にそれなりにいい方の成績を収めていた。
茉莉亜は、科学者の家系でないごく普通の温かい家庭で両親が兄と同等に雪菜をかわいがる環境が羨ましかった。幼稚園の時から、両親が授業参観や運動会に来てくれるのを見て虚しさを感じることだってあった。それでも、物事を理屈のみで考えずに頑張れる雪菜を尊敬していたし、茉莉亜のちょっとずれているところを一般的な視点で修正してくれる雪菜に助けられていた。好き嫌いを言わずに全てにおいてひたむきな努力をし、一般常識も備えた雪菜は茉莉亜の目標だった。
一方雪菜は、論理的思考能力という科学者としての類い稀なる才能を生まれながらにして持つ茉莉亜を常に羨ましく思っていた。“英才教育”が進むと、持って生まれた才能の差を見せつけられるようで悲しくなることもあった。理科や数学で分からないところは、「何で分からないのか分からない。」と言われるのさえ気にしなければ茉莉亜が教師よりもずっと分かりやすく教えてくれた。いつも授業中寝ているだけなのに。茉莉亜本人が気にしている、論理的すぎてずれている感性に憧れすら抱いた。茉莉亜は追いかけるべき目標だった。
2人は、お互いがお互いを羨ましく思っていることを幼いころからずっと打ち明け合ってきた。
「雪菜にはお父さんとお母さんやさしいお兄ちゃんが居ていいなー。この間も、運動会来てたでしょ。分けてもらったパスタ、すごい美味しかった。」
「茉莉亜はおじいちゃんが言うことすぐ分かってすごいなー。私は、分からないところまた聞かなきゃ分からないもん。」
2人は成長しても互いの家を行き来し、家族ぐるみの付き合いが続いた。互いが持つ足りない物を欲しがりながら、与えあい助け合ういびつでキラキラした友情は途切れることなく2人に生きる意味を与え続けてくれた。いつしか、互いを“親友”と呼ぶようになった。どんなに望んでも手に入らないものを相手が持っていると分かっていた。いつも一緒に居ることで、それを少しだけ分けてもらえる気がした。安心感と目標を失わずにいられた。女のコ同士のネチネチした人間関係を遠巻きに見て居た2人は、このまま巻き込まれずに一緒に居られればそれだけで幸せだった。
ところが、そうはいかなかった。別々の高校に通う事になってしまったのだ。理科と数学以外で絶望的な成績を収め続けた茉莉亜と、コンスタントにどの科目も平均より上を取っていた雪菜では成績が違いすぎたのだ。雪菜は茉莉亜と同じ高校に行きたかったが、両親はそのためにレベルを下げることを許さなかった。当然である。結果が見えていたとはいえ、まだ中学生だった2人は涙が枯れるまで大声で泣き続けた。茉莉亜は、嫌いな科目も高校でしっかり勉強すると誓った。雪菜は、レベルの高い学校で少しでも茉莉亜に追いつくと誓った。涙がもう1滴も出なくなってやっと、お互いの健闘を心から祈った。