命の値段
「……何だこれは?」
老朽化が進んだアパートの一室、片付けられていないゴミや煙草の悪臭が漂う中、楡山周冶は目の前にいる、缶コーヒーの缶を持った眼鏡の男にそう尋ねた。
「何だ、とは心外だな。これこそが私の研究の集大成だよ」
眼鏡の男、鷺沼賢伍はコーヒーをふと口飲み、自信満々にそう答えた。
周冶は鼻で軽く笑い、肩をすくめた。
「この豆粒みたいなのがか」
2人が向き合って座っている間にある、ボロボロの食卓テーブルの上には、アタッシュケースが蓋を開けた状態で置かれ、その中の中心部にちょうど鷺沼の持っている缶コーヒー程の大きさの容器がある。透明で中身の見えるその容器のなかには、長さ2cm程のカプセルが入っていた。
「大きさが問題では無い。要は中身だ。まさに人類の進化の可能性を広げる最高傑作だよ」
「わからねえっての。これで何ができるんだよ」
「言ったはずだ。人類の進化の可能性だと」
周治は呆れ顔で鷺沼の顔を見た。一向に変わらない、自身に満ちた顔だった。
「俺、帰ってもいいか?」
「まあ待て。何の用事も無く呼んだわけじゃない。頼みがある」
「…………これを飲めって言うんじゃないだろうな」
「その通りだ」
「飲むわきゃねえだろ、こんな得体の知れないもの。お前が飲めよ」
「私が飲んでしまっては対象を観察できんだろう」
周治は久しぶりに人を殴りたい衝動に駆られていた。
「俺を実験台にするってのか? いい加減にしろよ」
「体に害は無い。むしろ進化だ。何をそんなに嫌がることがある」
「だから進化って何なんだよ。それを飲んだらどうなるってんだ」
「飲んでみんとわからんよ」
「てめっ……」
「まあ落ち着け。それにどういう効能があるか説明してやる」
「科学的根拠を並べられたって、そんなん俺にわかるかよ」
「ならば飲みたまえ。それだけでいい。」
「断る。俺にメリットがあるとは思えない。別の奴を探してくれ。じゃあな」
周治は立ち上がり、自分の荷物をまとめ始めた。
「メリットか、いいだろう。1億だ。それを飲めば1億だそう」
その鷺沼の言葉に、周治は動きを止めた。
「……1億ってのは1億円のことか?」
「そうだ」
「こんなボロアパートに住んでる奴が何寝言いってやがる」
「それを飲んだ人間のレポートを発表するだけで、即金で5億もらえる事になっている」
周治はさらっと言った鷺沼の言葉にすぐ反応できなかった。5億なんて金額が想像出来なかった。
気持ちが落ち着き、理解が追いついた所で、明らかに理不尽な事に気付いた。
「……それでどう言う計算で俺が1億になるんだ?」
「無論、2:8だ。製作者は私だ。当然の配分だろう」
周治は改めてこの男の腹黒さを思い知った。鷺沼とは3年近い付き合いだ。こいつの性格の悪さにはほとほと愛想が尽きていたが、それに慣れ親しんでいた自分が不意に可笑しくなった。だが今回のは流石に行き過ぎだ。
諦めさせる意味を込め、冗談交じりに言い捨てた。
「3億なら考えてやるよ。それ以下ならパスだ」
「いいだろう」
虚を突かれた返答に、周治は呆けていた。
「3億で手を打つ。それでいいんだな」
「お前、今2:8だって……」
「お前がいくらなら話にのるかを試すための嘘だ。3億なら許容範囲内だよ。さあ、遠慮なく飲んでくれ」
「……お前、本当は10億もらえるんじゃないだろうな?」
「そんな事は無い。ただ、発表後の臨時収入を含めれば可能性は0ではないが」
「それなら結局、お前の方が得じゃねえか」
「無論、それは君にも入る。むしろ私より君の方が利益は大きいはずだ。何しろ言い方は悪いが、貴重なサンプルだからな」
周治は迷っていた。いくら3億以上の金が貰えるとしても、実験台になるような真似はしたくはなかった。しかし実際、3億貰えたら何ができるか想像してもいた。
「……本当に害は無いんだな?」
「保障しよう」
「…………わかった」
周治はアタッシュケースから容器を取り出し、蓋を開け、カプセルを取り出した。
「何か飲み物をくれ」
「これで飲め」
鷺沼は持っていた缶コーヒーを突き出した。
「殴るぞ、お前」
「冗談だ。コーヒーでは反応するかもしれんからな」
そう言って立ち上がり、台所でコップに水を入れてきた。
「水道水かよ、人類の進化の可能性ってのは、そんなぞんざいに扱っていいのか?」
「周りは所詮、普通のカプセルだ。問題は無い」
周治は覚悟を決めた。これを飲んで我慢すれば一躍、大金持ちだ。こいつの家ほどでは無いが、ボロいマンションからもおさらばできる。
「……飲むぜ」
「ああ」
カプセルを口に含み、水で一気に押し流した。水道水のカルキの匂いが妙に鼻についた。
5分程は何も変化は現れなかった。周治が何とも無いぜ、と言おうとしたその時、自分の体が痙攣し始めているのに気付いた。そう思ったかと思えば次には喉の奥から何かがこみ上げてくるのを感じた。押さえ込めず吐き出したのは、今までに見た事がない量の血だった。
「……っ、何だ、よ…………これ……」
そこまで言った所で意識が飛んだ。周治は死亡した。
「3億プラスアルファか。君はもっとプライドが高い人間だと思っていたのだが、所詮は金には勝てんか」
鷺沼は楡山周治の死体を見ながら、そうつぶやくと、ズボンのポケットから1冊の手帳を取り出した。手帳をめくり、書くスペースがあいている所を探した。めくっている中、手帳には1ページの左半分に人物の名前、名前の右には1億、2億、10億、拒否などが書かれていた。それが何ページにも続いている。
脆いものだな、人間とは。鷺沼は手帳に記された名前を見ながら思った。
「ただ金が貰える、それだけでどんな成分か分からない薬を飲み、実験台になる事を了承する。自分の命を金で売る愚かな連中だ。残念だよ、周治。君が飲んだのはまさしく毒薬だ。何の毒かは……科学的根拠は嫌いだったな。人の命の価値とは、これほどまでに儚く脆い。君も自分の命を3億で売ったのだ。私の言葉につられてな。世間では君は自殺した事になるだろう。だが、君より安い値段で売ったものもいるのだ。安心したまえ。中には人類の進化の時点で飲む、愚か者もいたのだ。そう言う意味で、君は普通の人間と言えるかも知れんな」
手帳の中ほどから白紙のページとなっていた。その新たなページの初めにこう記された。
楡山周治 3億円