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人形の傷跡  作者: Child-Dream
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12月19日(8)銀のロケット


 四階の廊下を歩いていたときだった。

 視界の隅で、光が一瞬跳ねた。窓からの反射が、床に落ちた何かに当たったらしい。足を止めてかがむと、ゴミ箱と壁のわずかな隙間に、小さな銀色の物が転がっていた。


 拾い上げると、それは古いペンダント型のロケットだった。

 曇りはあるが、丁寧に扱われてきた跡がある。手のひらにのせると、そこだけがわずかに温かいような気さえした。


「……誰のだろう」


 胸の奥に、不安と期待が同時に沈む。

 開ければ何かを見てしまうかもしれない、という予感があった。それでも私は留め具に触れかけ──けれど思い直して手を離した。持ち主がいるはずだ。まず返すのが筋だろう。


 ちょうどそのとき、二階の奥から技術官の兼松さんが歩いてきた。私はロケットを掲げて声をかけた。


「すみません、これ……落とし物だと思うんですけど……」


 兼松さんは一瞥して、すぐに頷いた。


「それは、椎名さんのだよ」


「椎名さん?」


「ああ、D3の椎名。君から返してやるといい。さっきまで四階をうろついていたからね。今日はずっと実験中だけどさ」


 忙しげに去っていく背中を見送り、私はロケットを握り直す。

 ——椎名。

 昨日、柿崎さんが「頼れ」と言った人物。その名前と、このロケットがここで結びつくのは、偶然とは思えなかった。


 三階へ向かい、椎名の部屋をノックする。

 椎名は、私の手元にあるロケットを見るや否や目を細めた。


「これ、四階で見つけました。椎名さんのものでは……?」


 差し出すと、椎名は押しつけるように受け取り、ほっと息をついた。


「……ありがとう」


 その声音は、いつもの素っ気なさとは違っていた。

 礼を言おうと背を向けかけたとき、不意に呼び止める視線を感じる。


「四階の図書室に……後で、行ってみた方がいい」


 それだけを告げ、再び黙り込む。

 その短い言葉に、ただならぬ切実さだけが残った。


 ドアを閉めると、廊下の空気がひどく冷たく感じられた。

 ロケットの重みが手のひらから消えても、あの小さな銀の感触だけが、指先にまだ残っている。


 *


 四階の図書室は静かだった。

 蛍光灯の白い光と、背の高い書架の影。迷路のような棚の間を進むと、コピー機の横にある返却台の上で、何かが鈍く光っていた。


「……え?」


 そこにあったのは、さっき返したばかりの銀のロケットだった。

 同じ形。同じ傷。同じく曇った銀色。


「さっき、渡したばかりなのに……どうしてここに?」


 胸の奥がざわめく。

 私が三階から四階へ移動するまでの、わずかな時間。椎名がここに来て、ロケットを置いた——そう考えるしかない。だが、なぜわざわざ返却台の上に?


 私はロケットを手に取り、今度こそ留め具を外した。

 中には、小さく折られた紙片が一枚だけ入っていた。


 ——貴方が人形ならば入ることができる。


「……人形?」


 意味をつかむには、少し時間が必要だった。


 “貴方”という主語は、私。

 “入ることができる”場所──この研究室で私が“入れなかった場所”は、一つしかない。


 昨日、ログインに失敗したコンピュータ室の端末だ。


 では、“人形”。

 単語としては DOLL。それ以外に解釈しようがない。


 ただし、この単語だけではログインはできない。

 必要なのは、ユーザー名だ。


 私は紙片をつまんだまま、静かに考えた。

 暗号は“私に向けて書かれた”もののように見える。ならば、ユーザー名も自分自身しか考えられない。


 苗字か、名前か──。

 どちらがより自然か。

 悩むほど、胸がざわつく。


 私は迷いを抱えたままコンピュータ室へ向かった。

 蛍光灯の白が無機質に反射し、昨日と同じログイン画面が待っている。


 ——ユーザー名を入力してください。


 私はキーボードに指を置いた。


 まず、苗字。

 KAMIJOU —— Enter

 ……不正。


 次に、名前。

 ASUMI —— Enter


 画面が切り替わり、パスワード入力が現れる。


 ——パスワードを入力してください。


 手が少し震えた。

 紙片の“人形”は DOLL。

 それ以外に答えはない。


 私は四文字を入力し、Enterを押した。


 画面がふっと明るくなり、

 青いウィンドウが静かに開いた。


《ログイン成功》


 胸の奥で何かが大きく跳ねた。

 間違いなく──これは“私へ向けた入口”だ。


 受信フォルダには、一通の未読メールがあった。

 送り主は、SHIINA。

 送信時間は、ちょうどロケットを返した直後の時刻になっている。


 誰もいないことを確認し、私はメールを開いた。


 ——君のお姉さんのことを、研究室の人間に聞いてはならない。

 ——ここは特殊な研究室だ。噂話では済まない。

 ——君と君の姉は、その「特殊」に巻き込まれた。

 ——これ以上、深入りすれば、君は殺される。

 ——今から四階の非常階段を使え。

 ——後ろを振り向かずに駆け下り、そのまま研究室から離れろ。

 ——二度と、ここを訪れてはいけない。


 文字を追ううちに、全身の血が冷えていく。

 脅しというより、必死の制止だと直感した。文面の隙間から、椎名の張りつめた気配が滲み出しているように思えた。


 私は震える手で、メールをCD−Rに保存した。

 これは、きっと重要な証拠になる。


 モニターの青白い光を背に、そっと席を立つ。

 声を上げてはいけない。

 誰にも気づかれてはならない。


 四階へ。

 非常階段へ。

 後ろを振り向かない。


 私は、ドアノブに触れる指の震えを抑えながら、その扉を押し下げた。


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