12月19日(7)姉を知らない学生たち
三階の扉は、昨夜柿崎が残していった紙片の四桁を打ち込むと、驚くほどあっけなく開いた。蛍光灯の白い光が静かな廊下にのび、まっすぐ先に並ぶ部屋の名札が視界の奥へ吸い込まれていく。その一つに「D1 一ノ瀬」とあった。私は緊張で指先が冷たくなるのを感じながら、軽くノックした。
「どうも、はじめまして、上条明日美です」
「あ、どうも。俺は一ノ瀬といいます。神子塚研の博士課程の一年です」
彼はノートパソコンに視線を落としたまま、そっけない返事だけを返した。人見知りなのか、ただ面倒なのか判別がつかない。しかし、彼はD1。姉と同じ学年であるはずの人物だ。逃すわけにはいかない。
「すみません、ちょっと、お伺いしたいのですが……」
「あ、はい」
私は姉を探している理由、研究室へ来た経緯を簡潔に話した。一ノ瀬は外見の印象より丁寧に、ひとつひとつ頷きながら聞いてくれる。
「変な話ですね」
「一ノ瀬さん、姉は博士課程の一年に在籍していたと言っていました。一ノ瀬さんと同じ学年なんです。何かご存知のことはありませんか?」
「……。本当に神子塚研のD1って言っていたのかい?」
「もちろんです!!」
思わず声が強く出てしまい、自分でも驚いた。一ノ瀬は少しだけ目を見開き、気まずそうに続けた。
「あ、いや……別に嘘を付いていると思ったわけでは、ないんだけどね。ただ、本当にいない人のことをそういうふうに言われても、勘違いだとしか思えないから……」
悔しさが喉の奥で熱く残る。だが、情報は一つでも多く欲しい。
「最初から、一ノ瀬さんの学年は、一人だったのですか?」
「ああ、そうですよ。少なくとも、俺が来てからは、この研究室には、同期は一人もいなかったですね」
「一ノ瀬さんが、ここに入られたのは、いつなんですか?」
私が追いすがるように問うと、一ノ瀬はわずかに面倒くさそうな気配を見せながらも答えてくれた。
「俺がこの研究室に入ったのは、二年前の冬だよ。修士一年に“途中から”入ったんだ」
「なんで、学期の始まりからではなくて、途中から入ることになったんですか?」
「別に。単に学生の枠に空きが出たから、そこに推薦されて、入学することになったからだよ」
“枠に空き”。つまり、その前に誰かがいた可能性。
「その頃、同じ学年には誰もいなかったんですね? もっと言うと、同じ学年に私の姉がいたのでは? ということです」
「お姉さんが同じ学年に……? さっき言った通り、いないよ。……ただ、俺が入る前だったら、もしかしたら、誰か学生がいたかもしれないな」
「一ノ瀬さんが入学される前に、同期の学年に誰かいたということですか?」
「その可能性はある、ということだよ。もちろん、俺は知らない。だけど、仮に俺が入る前にいなくなった学生がいたとしても、それが、君のお姉さんだというのは変だろう?」
確かにその通りだった。姉はつい最近まで普通に連絡をよこしていたのだ。二年前“以前”にいた誰かと姉を結びつけることは不自然だ。
一ノ瀬は椅子の背にもたれ直し、ようやく私を真正面から見た。
「まあ、昔のことだったら、上の学年の椎名さんか柿崎さんなら、知っていると思うけど」
柿崎——昨日、暗証番号の紙片を託してきた学生。その名を聞いただけで、胸が固くなる。そして同じ名前を昨夜のメモでも見た「椎名」。
「ありがとうございます。一ノ瀬さん」
礼を言って部屋を出ようとすると、背後で彼の小さなため息が聞こえた。
廊下に出る。糸口は、確かに増えた。
椎名。柿崎。そして、二年前の“空き”。
点と点はまだ細い線でしかつながらないが、前へ進む力だけは確かに強くなっていた。
廊下の突き当たりに「M2・林谷佳織」と書かれた名札がある。
ノックすると、ページをめくる音が止まり、優しい声が返った。机の前に座っていた女性が顔を上げる。蛍光灯の白にくっきり浮かぶ瞳が印象的だった。
「すみません、ちょっと、お伺いしたいのですが……」
「珍しいですね、この研究室に来客があるなんて」
林谷佳織。名札にはM2とある。姉とほぼ同じ年代だ——胸にわずかな期待が灯る。
「実は……私の姉がここの研究室にいると聞いていて、訪ねてきたんですけど……」
私は姉の行方、連絡が途絶えた経緯、研究室に在籍していると姉本人が言っていたことを手短に話した。佳織は遮らず、丁寧に最後まで聞いてくれた。
だが返ってきた言葉は、静かで、どこか冷たかった。
「……そう。変な話ですね……。もう、誰かに聞いたと思うけど、女の人で学生なのは、この研究室だと私だけなの」
「……」
「だから、あなたのお姉さんが、ここの学生だとは思えないのだけれど……。工学の大学院に進む女の子って、まだあまりいないから。他の研究室でも、もしそういう人がいたら大体わかるはずだけど、上条さん、という人は、やっぱりいないわ」
期待が音もなくしぼむ。喉の奥に言葉が絡まった。
「お姉さんのことは、私も大学の他の友達とかに聞いて調べておくわ」
「はい、ありがとうございます」
礼を言いながら、心のどこかで「見つからないだろう」という予感がした。
姉は「神子塚研究室の学生だ」とはっきり言った。自分の所属を間違えるはずがない。その確信が、むしろ私を追い詰める。
数時間別の部屋を回ったのち、私は再び佳織の部屋を訪れた。彼女は同じ姿勢でモニタを見ていたが、私に気づくと椅子を引いた。
「お姉さんのこと、大学の女友達にも色々と聞いてみたのだけど……やっぱり、分からなかったわ」
「昨日、姉のアパートに帰ったんですけど、やっぱり、姉がいないんです。だけど、下宿は言っていた住所に確かにあって……」
姉の言葉は正しかった。だからこそ、研究室にいないという事実が異様に浮き上がっていた。
佳織は私の表情に気づいたのか、慎重に言葉を選んだ。
「確かに、ここの研究室にお姉さんと何らかの関わりがあるのだと思うわ。……他の人にも色々と聞いてみることが、大事だと思う」
直接的ではない。だが、その控えめな言い方に、何かを伏せている気配と、こちらを思いやる気持ちが同時に滲んでいた。
「ありがとうございます。引き続き、探してみます」
「うん。気をつけて」
部屋を出るとき、佳織の視線は冷たくはなかった。
否定ばかりなのに、確信だけは深くなる——姉は、この研究室とつながっている。
私は廊下に並ぶ名札を一つずつ見ていった。
『D3・椎名』
その名を確認し、軽くノックする。部屋の中でキーボードの音が止まった。振り返った男の表情は、明らかに中断を嫌う人のそれだった。デスクには数式と英文が並ぶ画面が光り、空調の低い唸りが続いている。
「あの、少しだけお時間いいですか?……」
私の声に、椎名は面倒くさそうに肩をすくめた。
「なんですか?」
「あの……私の姉が博士課程の一年にいるはずなんですが、こちらに来てみたら、名簿にも全く載っていなくて……。必ず、この研究室にいるはずなんですけど、何かご存じのことは無いでしょうか……?」
一瞬。ほんの一瞬だけ、彼の瞳が揺れた。困惑とも警戒ともつかない光。それは見間違いではない。私は息を飲む。
「……さあね、そんな人は知らないよ」
それだけ言うと椎名は椅子を回し、再び画面に向き直った。キーを叩く音が無機質に部屋を満たす。私の存在は、もうその背中からこぼれ落ちていた。
喉に残った言葉は行き場を失い、唇の内側でほどけた。
だが、さっきの一瞬の揺れ——あれは確かにあった。
椎名は何かを知っている。姉のことも、研究室の“何か”も。
私は小さく礼を言い、ドアを閉めた。廊下の空気がひどく冷たく感じられる。ポケットの内で、昨夜渡された四桁の数字が体温と混ざり合う。
「頼れ——椎名さんを」
柿崎の声が耳の奥で響く。
しかし当の本人は「知らない」と背を向けた。
床の目地が迷路のように広がって見える。だが、迷っている時間はない。
嘘は必ず綻びを残す。
次に引くべき糸だけは、私の中で鮮明になっていく。




