12月19日(6)地下鉄の事故
目を覚ますと、昨夜の悪夢の名残がまだ体の奥にこびりついていた。それでも私は迷わず神子塚研究室へ向かった。姉の失踪の謎は、あの研究室が握っている。昨日、柿崎という学生が渡してくれたキーナンバーがある。今日は三階へ行ける。椎名という学生にも会えるはずだ。そう思うことで、重たい心を無理に前へ押し出す。
通りへ出ると、空気がざわついていた。人々が同じ方向へ小走りで向かい、口々に何かを言っている。地下鉄の駅の方を指差している。
「どうしたんだろう……。何か、起きたのかな?」
耳を澄ますより早く、断片的な声が飛び込んでくる。
「地下鉄で人身事故があったって……」
「うそ……それで、その人は無事なの?」
「無事なわけ……」
胸の奥で鈍い音がした。人身事故。私は嫌な予感に突き動かされるように、本郷の駅へ足を速めた。
駅前は学生と見物人で混雑していた。警官が出動し、改札は封鎖され、「復旧のめどは立っておりません」というアナウンスが繰り返されている。ざわめきの中から、さらに具体的な言葉が聞こえた。
「通過列車に飛び込んだらしい」
「体が吹き飛んだって……」
「身元は不明だってよ」
“身元不明”――その言葉が胸に刺さるように残った。心臓がどくりと跳ね、荒い鼓動を抑えられない。もし、もしも……。
確認しなければ。
そうしなければ、前へ進めない。
「す、すみません……」
私は警官に声をかけた。警官は表情を変え、ただの野次馬ではないことを察したようだ。
「その……飛び込み自殺をしたという人……もしかしたら、私の身内……かもしれないんです……」
口にした瞬間、鼓動が強く跳ね上がった。
「こちらへ」
私は案内され、封鎖された改札の内側へ通された。好奇の視線が刺さる。構内の小部屋に通され、しばらく待つ。外を歩く学生たちが青ざめた顔で言い合っている。
「もう信じられない……」
「一番前には乗れない……」
「夢に出そうだ……」
吐き気まじりの声ばかりで、私はただ目を閉じてやり過ごすしかなかった。
やがて警官が戻ってきた。
「気持ちをしっかり持ってください。……お見せしますよ?」
「……はい」
足元がかすかに揺れた気がした。違う。絶対に違う。そう何度も唱えても、胸騒ぎは消えない。姉は自殺なんてする人じゃない。そんなことは分かりきっている。なのに、どうして――。
警官が小さくうなずき、布の端に手をかけた。
そして――。
う……ううう……。
視界が揺れた。布がめくられ、その向こうにあったのは、もはや「人の形」と呼べるものかどうかさえ迷うほどの姿。粉々になった四肢を捜査員たちが丁寧に並べ直し、ようやく輪郭を保っている。鉄と血の匂いが入り混じったような気配が、金属の味となって喉に貼りついた。胃が反射的に痙攣する。
それでも私は必死に目を逸らさなかった。はっきりと言えることが一つある――これは姉ではない。損傷は激しいが、体つきや残っている腕の感じから、男性だと分かる。
「違う……みたいです。私の姉のものではありません……」
「身内の方って、女性ですか。でしたら違いますね。これは男性の遺体です」
警官の声は落ち着いていた。その冷静さに、私はかろうじて呼吸を整える。
しかし、目の前の“それ”は、どこかで見たような気がした。昨日の、あの瞬間――。
「……で、でも、これは……誰かに……似ている……」
「念のため、どなたかお知り合いじゃないか、確認してもらえますか」
唇を噛みしめ、想像の引き出しを手探りで開ける。なぜか私を見て怯え、逃げ出した男。昨夜にはアパートの前に現れ、「椎名を頼れ」とメモを渡してきた、あの学生。
博士課程二年――柿崎。
確証はない。ただ一度会っただけだ。遺体の損傷も激しい。間違っている可能性の方が高い。
それでも胸の奥の何かが強く告げる。「言え」と。
「人違いかもしれませんが……昨日、研究室の前で会った学生に、似ている気がします」
「分かりました。所属と、あなたの連絡先をこちらに」
私は、神子塚研究室・博士課程二年・柿崎福太郎(推定)と記し、連絡先には姉のアパートの住所と電話番号を記入した。書きながら手がわずかに震えた。
「ご協力ありがとうございます。こちらで確認します」
軽く頭を下げ、私は部屋を辞した。歩きながらも、足がまだ震えている。
亡くなった人が、昨日会った人に似ているなんて――そんな現実を飲み込めるはずがない。ここ数日、胸をざわつかせる出来事ばかりが続いている。まるで、私を不安のほうへ引きずる“見えない手”が存在するみたいだ。
駅を出ると、冷たい外気が肺に流れ込み、混乱した頭を少しだけ洗い流した。銀杏並木のほうへ歩き出し、唇の内側を軽く噛む。
怖がっているだけでは、何も変わらない。
今日、もう一度、神子塚研究室へ戻る。
三階の扉を開ける。椎名に会う。
そして――お姉ちゃんへ繋がる糸を、一本でも多く掴む。
私は歩みを止めなかった。




