12月18日(5) 深夜の来訪者
ピンポーン。
突然のチャイムに体が反応するのが遅れた。聞き慣れない電子音だと理解するまでに、数秒かかった。誰かが来た。最初の一瞬は思った——お姉ちゃんが帰ってきたんだ、と。
けれどすぐに、あり得ないと気づく。自分の部屋に入るのに、インターフォンを押すはずがない。
部屋は静まり返っていた。冷蔵庫の低い唸りだけが続いている。私は玄関に近づき、鼓動を整えた。扉の向こうに人の気配がある。のぞき窓はない。待つべきか。開けるべきか。短い逡巡ののち、思い切ってドアノブをひねった。
そこには、大柄な男が立っていた。
突然開いた扉に驚いたのは、むしろ彼の方だった。顔は上気し、額には汗が滲んでいる。誰かに追われている人間の表情だった。
「あ、あなたは……」
昼間、研究所の前で声をかけたとき、私を見た瞬間に逃げ出した男——神子塚研究室・博士課程二年、柿崎。彼は唇を強張らせ、かすれた声で言った。
「し、椎名さんを頼るんだ。彼ならば、か、必ず、君の力になってくれる。研究所の三階に……彼はいる……」
意味をつかむ前に、彼はポケットから小さな紙片を取り出し、私の手に押しつけた。視線が一瞬だけ合う。その瞳には狂気ではなく、切実さと、どこかの優しさが混じっていた。
「し、椎名さんを頼れば……と?」
問い返すと、柿崎は小さくうなずいた。その途端、何かから逃げるように踵を返し、階段を駆け下りて行った。踏み板を叩く足音が、追い立てられるように響く。やがて正面通りへ走り抜ける音が遠ざかった。
私はしばらく玄関に立ち尽くし、手の中の紙切れに目を落とした。走り書きの数字と短い言葉。そこには、こう記されていた。
キーナンバー 0268
椎名。三階。
四桁の暗証番号。昼間、三階の扉の脇にあった小さな装置が思い浮かぶ。あのロックを開けられる番号だ。椎名という名前も、三階という位置も、研究室内部の人間を指している。
なぜ私にこれを?
なぜ彼は逃げるように去ったのか。疑問だけが増え、答えは一つも生まれない。
扉を閉め、チェーンをかける。部屋に戻ると、さっきまでの静けさが急に濃く感じられた。合鍵の感触。冷えた空気。消したばかりの留守電の気配。全部が私一人だけのものになっている。
怖がっているだけではいけない。そう言い聞かせても、胸のざわめきは治まらない。紙片を丁寧に折りたたみ、財布の小銭入れにしまった。
明日、もう一度、神子塚研究室へ行く。
三階の扉を開ける。椎名という人に会う。
どんな結果でも構わない。真実に近づくためなら、踏み込むしかない。
灯りを落とす。暗闇の向こうで、遠く電車の音が揺れた。
目を閉じる。強い意志だけを抱え、私は布団に身を沈めた。明日、必ず一歩、進む。
上京した一日目が、こんな終わり方になるなんて思ってもみなかった。訳のわからない疲労に押しつぶされるようにベッドへ潜り込む。体は重いのに、目だけが冴えている。まさか、こんなことになるなんて。いったい、お姉ちゃんに何があったのだろう。考えれば考えるほど、不安が形を持ち始める。
いつのまにか、意識がほどけていった。
『あー、明日美、明日美じゃないの?!』
『なんで、こんなところにいるのよ?!』
「何でって? お姉ちゃんが連絡くれないから、心配して、わざわざ来たんじゃないの」
『アハハ、そっか、そうだよね。ずっと、家に電話するのを忘れていたわ。ごめん、明日美。でも、来てくれてうれしいわ』
『じゃあ、今日はお姉ちゃんが東京見物に連れていってあげよう』
「そんなの、当たり前よ。もう、心配したんだから……お姉ちゃん……。お姉ちゃん……」
自分で作った姉の言葉が、綿のように柔らかく頭の中に積もっていく。その上に身を預けるように、私は深く沈みこんだ。
夢を見ている。そう気づくほどには、意識が残っていた。
こちらに背を向けて、誰かが立っている。暗い。光はなく、空気そのものが湿った布のように肌に貼りつく。足元の感覚が曖昧で、床がないようだ。けれど、その背中だけははっきりとそこにある。
誰だろう。思い出せない。会ったことのある人。ううん、会ったことがあるとかじゃなくて、私にとって、とても大切な人。——お姉ちゃん? お姉ちゃんなんでしょう?
だったら、こっちを向いて。もう、不安にさせるのはやめて。
髪の長い女性が立っている。髪は肩より下で、光のない闇の中でも輪郭が黒く揺れる。場所はますます暗い。冷たさが背骨を伝い、胸へ落ちる。
太っているのだろうか。体を少しかがめ、重そうな体を支えるように苦しげに立っている。肩が小刻みに上下し、息の音が胸の内側に触れるように近い。顔が見えない。見えないことがこんなにも怖いなんて、知らなかった。
「何をそんなに苦しがっているの? 私にできることがあったら、何でもするわ。顔を見せて。ねえ……どうして、いつも後ろを向いているの。あなたは、私にとって大切な人……そうなんでしょう? ねえ……顔を見せて……」
女の肩が震えた。重い体が軋み、闇の中で輪郭がわずかにずれる。ゆっくりと、こちらへ振り返ろうとする。髪がはらりと肩から落ち、その向こうから“何か”が顔を出す。
見たい。見たくない。二つの感情が胸の奥でぶつかる。
女が振り向いた——。
その瞬間、喉の奥で何かが裂けた。
「キャアアアアアア!」
断末魔のような悲鳴。それが自分自身の声だったのか、夢の中の女の声だったのか、汗びっしょりで目を覚ました私には分からなかった。
心臓が痛いほど脈打ち、呼吸が荒い。部屋は真っ暗で、窓の外の街灯がカーテンの端を淡く照らしている。耳を澄ませば、冷蔵庫の振動と遠くの車の音。背中に貼りついた冷たい汗が、ゆっくりと冷えていく。
私は枕を抱えたまま、しばらく動けなかった。
あの背中。あの重さ。
夢は夢だと分かっているのに、胸の内側で“あの存在”だけが、まだこちらを向かずに立っていた。




