12月18日(4)姉のアパートの前に立つ
姉のアパートの前に立つ。表札には、まぎれもなく「上条」とある。研究室で予想外のことばかり起こったせいで、自宅もどこか変なことになっているのでは……そんな不安があった。しかし住所は姉が言っていた通り。ここは間違いなく姉の部屋だ。
インターフォンを押す。静寂が続く。最初から分かっていた。誰も出ない。私は合鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。滑らかに回り、カチリと小さな音がした。姉が預けてくれたこの鍵は、確かにこの部屋のもの。姉がここに暮らしていたことだけは疑いようがない。それでも何度連絡しても電話に出なかった理由は分からない。なぜ――。
ノブを回し、ドアを押し開ける。
本郷六丁目。姉のアパート。
六畳の簡素なワンルーム。キッチンとユニットバスが付いた、ごく普通の部屋。照明を点けると白い光が広がるが、空気の冷え方だけが人の不在を伝えていた。気配はない。
「………。ここにも……いないの……?」
研究室に続き、この場所にも姉の姿はない。胸の奥で焦りがゆっくりと膨らむ。
「……いったい、何が起こったというの? どこに行ってしまったのよ」
落ち着こう。まずは手がかりを探す。
冷蔵庫を開ける。冷気だけがふっと吐き出され、中は空っぽだった。
「冷蔵庫に何もない……。お姉ちゃんが片付けてから出ていったのかな……それとも……」
考えを途中で止め、扉を閉める。
食器棚を開くと、皿やコップがきれいに並んでいた。使われた気配が薄い。長く暮らしていた形跡が、どこか希薄だ。
電話機の横へ移動する。留守番電話のランプが点滅している。再生ボタンを押す。
流れてきたのは私の声ばかりだった。八件、と機械的な声が告げる。最初の数件は実家からかけたときのもの。
「あ、明日美だけど。お姉ちゃん、いないの?」
「えっと、別に特に用事ないけど……」
「ここんとこ、お姉ちゃん、連絡くれてないから、こちらから電話してみました」
「暇だったら、連絡してください。じゃあね」
次に、今日のもの。
「もしもし、明日美でーす。今、東京駅に到着しました」
「えっと……今から、お姉ちゃんの研究室に遊びに行きます」
「それで、その後、お姉ちゃんの家に行きます。今日、泊まるから、よろしくねー」
「もし、出かけてたら、勝手に入っちゃうよー。知らないからねー」
「もう! しょうがないなー。居るなら出てよー?」
そこで、不意に異質な声が混じった。
「お姉ちゃんは、もう死んでいるんだね」
私は反射的に振り返った。部屋は静まり返っている。壁時計の秒針だけが、整ったテンポで時を刻んでいる。
「今、なんて言った……?」
もう一度再生する。けれど順番に流れるのは、やはり私自身の声だけだ。
「もう! しょうがないなー。居るなら出てよー?」
「……」
さっき確かに聞こえたはずの声は、もう再生されない。
疲れているせいだ。空耳だ。そう言い聞かせる。急に怖くなり、消去ボタンを押した。電子音とともにテープが巻き戻る。その音だけが、静まり返った部屋に細く響いた。
ランプが消えた。受話器を置き、部屋をぐるりと見渡す。人が暮らしていた形跡はあるのに、体温のようなものが完全に失われている。気配の薄さが、逆に不安を濃くした。
考えすぎかもしれない。けれど、何かがおかしいのは確か。私は一度深呼吸し、次にどう動くべきか冷静に考えることにした。
机に向かい、今日一日の流れをゆっくり巻き戻す。十二月十八日。実家を出て、帝都工業大学の神子塚研究室へ行き、そこから姉のアパートへ。神子塚研究室は現実に存在していた。姉も、そこに通っていると言っていた。少なくとも、嘘をついたようには思えない。
なのに、研究室にもアパートにも、姉はいない。
可能性を一つずつ置き並べていく。
まず誰かに連れ去られた可能性。でも、研究室の誰かが関わっているとは考えにくい。だが独立した建物、守衛、限られた人数、そして全員が「上条はいない」と言い切る違和感。明日はもう一度行って確かめる必要がある。名簿にあった博士一年の一ノ瀬にも、直接話を聞くべきだ。
研究室以外の誰か。若い女性の行方不明――ニュースで見たことのある断片が脳裏をよぎる。最悪の想像を完全には否定できない。しかし、今は根拠がない。ただの恐怖で突っ走るべきではない。
次に、姉自身が姿を消したという可能性。彼氏と逃避行……そんな軽い人じゃない。私や父に隠す理由も思いつかない。距離が離れていても、私たちは互いに理解しようとしてきた。それでも、言えない事情があったとしたら……。外部の悪意を想像するよりは、まだ気持ちが幾分か楽だ。けれど、それでも腑に落ちない。
気づけば、指先に力が入りすぎていた。拳を開き、深く息を吐く。
「なんか……考えてて疲れちゃった。うん。あまり、深刻に考えない方がいいわ」
今日は休む。明日また動けばいい。研究室へ行き、名簿の学生に会い、手がかりを一本ずつ拾っていく。電気を落とすと、六畳の空気がさらに冷たくなる。遠くで電車の音が揺れ、窓の外では見えない風が角を曲がる気配がした。私は布団にもぐり込み、胸の奥のざわめきを抱えながら目を閉じた。
明日こそ、何かが見つかるはずだ。




