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人形の傷跡  作者: Child-Dream
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12月18日(3)閉ざされた上階と逃げ出した院生


 どれくらい、廊下に立ち尽くしていたのか分からない。


 事務室のドア越しに、コピー機の低い音と、人の話し声がときどき漏れてくる。そのたびに、現実だけが着実に進んでいるような気がして、私だけが置き去りにされているような感覚に襲われた。


 ――ここには、上条という学生はいない。


 さっき田名部に告げられた言葉が、まだ耳の奥に残っている。


 でも。


「……上に行けば、分かるかもしれない」


 自分にそう言い聞かせて、私は顔を上げた。


 教授や学生なら、姉のことを知っているはずだ。名簿に載っていない、という事務の結論が誤りだと証明するには、直接会って確かめるしかない。


 私は階段の方へと足を向けた。


   ◇


 二階に上がると、廊下の壁に、部屋番号と部屋名が書かれた案内板が掛かっていた。


 一番上の行には「神子塚教授室」。その下に、「副教授室」「共同研究室」「会議室」など、文字が並んでいる。そこから矢印が伸びて、右側の通路を指していた。


 視線を少し下に移すと、三階の欄に小さく「大学院生・学生研究室」とある。


「三階が、学生の部屋……」


 もし、あの中に姉がいるのだとしたら。

 直接会ってしまえば、さっきの「いない」という言葉なんて、すぐに間違いだと分かる。


 私は、一段ずつ階段を上がっていった。


 階段を上りきった先には、厚い金属製の扉が立ちはだかっていた。扉の横には、小さなテンキー付きの機械が取り付けられている。四桁の数字を入力するタイプのロックだ。


 取っ手に手をかけようとして、私は思わず息を呑んだ。

 扉はびくともしない。数字を入れないと開かない仕組みらしい。


「……暗証番号さえ分かれば……」


 思わず、指先がテンキーの上をさまよう。

 適当に押したところで意味がないと分かっていても、何かしないと落ち着かなかった。


「えっと……一、二、三、四……」


 カチ、カチ、と軽い電子音が鳴る。

 最後のキーを押した瞬間、ブーッという低いブザー音に遮られた。赤いランプが一瞬点滅する。


「やっぱり、だめか……」


 その時だった。


「あの、すみませんが」


 後ろから声をかけられて、心臓が跳ねた。


 振り向くと、さきほど事務室の奥にいた年配の女性とは別の、スーツ姿の若い女性が立っていた。肩までの髪をきちんとまとめ、首元には細いネックレスが光っている。


「三階は、学生さんたちの実験室になっているんです。部外者の方は、ここから先はご遠慮いただいているんですよ」


「あ……す、すみません」


 咄嗟に手を引っ込める。自分でも、泥棒か何かをしていたような気持ちになった。


 女性は、ふっと微笑んで首を横に振った。


「いえ、そんなに慌てなくても。お客さまですよね? 一階の事務で何かお話があったと聞きましたけれど」


「はい。あの……」


 私は、自分が誰で、なぜここに来たのか、簡単に説明した。


 姉が神子塚研究室に在籍していること。しばらく連絡が途絶えていること。事務室で「上条という学生はいない」と言われたこと。


 女性は静かに頷きながら聞いていた。


「そうでしたか……。私、神子塚教授の秘書をしている、水越麻衣子と申します」


 彼女は軽く会釈した。


「さきほど、事務から連絡をもらって、こちらへ上がってきたんです。ちょうど教授室に戻るところだったので」


「秘書の方……だったんですね」


 どこか、救われたような気持ちになった。

 教授のそばで働く人なら、研究室の学生のこともよく知っているはずだ。


「よろしければ、教授室で少しお話を伺ってもいいですか? ここだと、立ち話になってしまいますから」


「……はい」


 私は頷いた。


 ロックされた三階の扉を背に、私たちは二階の廊下を少し戻り、「神子塚教授室」と書かれたドアの前に立った。


   ◇


「どうぞ、お入りください」


 水越がドアを開け、私を中へ招き入れる。


 教授室の中は、想像していたよりも整然としていた。壁一面の本棚には、背表紙に英語やドイツ語のタイトルが並ぶ専門書がぎっしり詰まっている。反対側の壁には、研究費の採択証のような表彰状が額に入れられていた。


 部屋の中央には、黒い革張りのソファとローテーブル。その向かいには、重厚な木製のデスクがあり、その上には厚い書類の束と、古い型のパソコンが置かれている。


「今、先生は出張中なんです。ですから、代わりに私がお話を伺いますね」


 水越は、ローテーブルの向こう側のソファを指さした。


「どうぞ、座ってください」


「し、失礼します……」


 ソファに腰を下ろすと、体の力が少し抜けた。

 ここに座った学生たちが、教授から厳しい指導を受けたり、研究の相談をしたりしているのだろうか――そんな想像が頭をよぎる。


「田名部から、ある程度のことは聞いています。お姉さんが神子塚研究室に在籍しているはずなのに、名簿に名前がない、と」


「はい」


「もし差し支えなければ、もう少し詳しく、最初からお話しいただけますか? どういう経緯で、今日ここに来られたのか」


 水越の声は、事務的というよりは柔らかい響きがあった。

 その口調に背中を押されるようにして、私は東京に来ることを決めた日から、ここに辿り着くまでのことを、一つひとつ話し始めた。


 九月の終わりから、姉からの電話が途絶えたこと。

 こちらからかけても留守番電話ばかりで、ポケットベルも鳴らなくなったこと。

 両親は取り合ってくれず、高校の期末テストが終わるまで待つしかなかったこと。

 今日、東京駅に着いて、姉の留守電にメッセージを残したこと。

 帝都工業大学のキャンパスで、神子塚研究室の場所を教えてもらったこと。

 事務室で、上条という学生はこの研究室にはいないと言われたこと。


 話している間、別の自分がどこか遠くでそれを聞いているような感覚があった。

 すべてが、自分の身に起きたことなのに、誰かの話をそのままなぞっているみたいだ。


「……そう、でしたか」


 話し終えると、水越は湯飲みを両手で包み込むようにしながら、小さく息を吐いた。

 教授室の脇には、小さな流し台と電気ポットがあり、いつの間にか彼女が淹れてくれた温かいお茶の湯気が、湯飲みから立ち上っている。


「よろしければ、お茶でも飲んでください。落ち着きますから」


「あ……ありがとうございます」


 湯飲みを持つ指の震えを、自分で意識する。

 口元に運ぶと、ほのかな苦みと温かさが舌に広がった。


「まず、はっきりしていることからお話ししますね」


 水越は、指先でテーブルの上を一度だけトントンと叩いた。


「先ほど、事務でも確認されたと思いますが、神子塚研究室に所属している学生は、今、七人です。博士課程が三人、修士課程が四人。その名簿は、私も把握していますし、毎年の入学・卒業のタイミングで見直しています」


「……はい」


「ここ五年の間に『上条』という名字の学生さんが在籍した記録は、少なくとも私の記憶にはありません。もちろん、私の見落としという可能性も、ゼロとは言いません。ただ――」


 そこで一度、言葉を切る。


「あなたが仰った、『去年修士を出て、今年から博士課程に進学した』という経歴の学生は、一人だけいます」


「……」


 胸が、きゅっと締めつけられた。


「博士課程一年生、いわゆるD1の学生は、今年度は一人だけなんです。その学生の名字は、上条さんではありません。一ノ瀬くん、と言います」


 田名部の口からも聞いた名前が、もう一度、確認するように告げられた。


「私も、彼が入学したときから知っています。だから、あなたのお姉さんがもし本当に『神子塚研究室の博士課程一年生』だとしたら、私が見落としているとは考えにくいんです」


「……じゃあ、私が……」


 言葉が続かなかった。


 間違っているのは、私の方なのだろうか。

 姉は、神子塚研究室ではない別の研究室だと言っていたのに、私が勝手に思い込んでいるだけなのか。


 いや、それはあり得ない。

 葉書には、たしかに「帝都工業大学の研究室、なんとか受かったよ」としか書かれていなかった。でも、電話では何度も、「神子塚教授のところに決まった」と聞かされている。


 頭の中で、いくつもの記憶が重なり合い、混ざり合い、輪郭を失っていく。


「……分からなく、なってきました」


 自分で口にしてみて、ようやく気づいた。

 私の中の「確かなはずの記憶」は、こうして人に説明しようとしたとたんに、形を失っていく。


 喉の奥が熱くなった。視界の端で、蛍光灯の光が滲む。


「ごめんなさい。混乱させるつもりはなかったんです。ただ、事実としてお話しすると、どうしてもそういう結論になってしまって……」


 水越の声は、本当に申し訳なさそうだった。


「あなたが嘘をついているようには見えません。それは、さっきからお話を聞いていて、はっきり分かります。ただ、こちら側の記録や記憶と、あなたの記憶が――少し、ずれているのかもしれません」


「ずれて……」


 その言葉を反芻する。


 私の記憶が、間違っているということだろうか。

 それとも、この研究室側の記録が、何かを隠すために書き換えられているのだろうか。


 どちらにしろ、「姉がここにいるはずだ」という前提だけが、空中に浮かんだまま、どこにも着地できない。


「とにかく、今日はずいぶん遠くから来られたんでしょう?」


 水越は、ふっと表情をやわらげた。


「お姉さんのアパートには、もう行かれましたか?」


「いえ、まだです。ここに先に来てしまって……」


「なら、今日は一度、そちらを確かめた方がいいと思います。メールボックスや玄関の様子、大家さんや近所の方の話も聞けるかもしれません」


 言われてみれば、その通りだ。


 研究室でつまずいた今、手がかりはもう一つしかない。姉が住んでいるはずのアパート。その鍵が、コートのポケットの中にある。


 私は布越しに、金属の冷たさを確かめた。


「……そう、ですね。アパートに行ってみます」


「もし、何か分かったら、またここに来てください。私のことを指名してくれて構いませんから」


「ありがとうございます。……ご迷惑じゃ、ないですか?」


「迷惑なんて、とんでもない」


 水越は、少しだけ照れくさそうに笑った。


「研究室って、閉じた世界になりがちなんです。学生さんや先生以外の人と話す機会なんて、なかなかありませんから。だから、こうして外の方が来てくれるのは、むしろ新鮮で」


 その言葉には、どこか本音がにじんでいるように感じられた。


「じゃあ、そろそろ行きましょうか。私も一度、一階の事務に顔を出しておきたいので」


 私たちはソファから立ち上がり、教授室をあとにした。


   ◇


 外に出ると、空はすでに薄暗くなりかけていた。

 冬の夕方は、思っているよりずっと早くやって来る。研究棟の影が、敷地内のアスファルトを長く覆っていた。


「今日は本当に、お時間を取らせてしまって……」


 建物の入口の前で頭を下げると、水越は軽く手を振った。


「気にしないでください。また、何かあったらいつでも」


「はい。どうも、ありがとうございました」


 私は一礼し、門の方へと歩き出した。


 そのときだった。


 正門の前を抜けようとした瞬間、向こうから一人の学生が入ってくるのが見えた。

 厚手のコートの襟を立て、大きめのリュックを背負った、背の高い男子学生。髪は少し伸び放題で、眠そうな目をしている。


 近づくにつれて、彼がこちらに気づいた。


 次の瞬間、その顔色がみるみるうちに変わった。


「……っ」


 目を見開き、口をわななかせる。その表情は、単純な驚きではなく、恐怖に近かった。


「え……?」


 何が起こっているのか分からないまま、私は足を止めた。


 男子学生は、息を飲むような音を立てた。


「お、おまえは……なんで……!?」


 それ以上、言葉にならないらしい。

 こわばった喉から、かすれた声が漏れる。


 私は、どう返事をしていいか分からず、ただ立ち尽くした。


「あの、すみません。ちょっと、お伺いしたいことが――」


 勇気を出して声をかけようとした瞬間、男子学生は悲鳴に近い声をあげた。


「ひゃあああっ! 来んな、来るな、来るなあああ!!」


 その叫びは、静かな敷地内に異様なほど大きく響いた。


「な、なに……?」


 問いかけは、空気の中でほどけていく。

 彼は踵を返して駆け出した。門を抜け、大通りではなく、脇の細い路地へと消えていく。リュックが左右に揺れ、足音が遠ざかっていく。


 残された私は、しばらくその方向を見つめたまま、動けなかった。


 冷たい風が一陣、頬を撫でていく。


「……本当に、何なの、あの人」


 かすれた声が、自分でも驚くほど小さく聞こえた。


 ふと視線を落とすと、地面に一枚の紙が落ちているのが見えた。さっきの学生が駆け出したときに、ポケットか鞄から滑り落ちたのだろう。


 私はしゃがみ込み、その紙を拾い上げた。


 上半分には、印刷された設問やグラフが並んでいる。下半分には、ボールペンでびっしりと手書きの解答が書き込まれていた。ところどころに、赤いペンで付けられた丸印や点数。


 そして、一番下の余白には、小さな文字で名前と所属が記されている。


「博士課程二年 柿崎福太郎」


 声に出して読み上げた途端、その文字がやけに重たく感じられた。


 ――博士二年。お姉ちゃんより、一つ上の学年だ。


 さっきの異常な反応が、胸の奥でざわめきを作る。


 私を見て、あそこまで取り乱す理由。

 そして、逃げ出したあとに落ちていた答案用紙。


 紙をそっと二つ折りにし、コートのポケットにしまった。


 もう一度だけ研究棟を振り返る。


 ――姉は、どこにいるの?


 答えは、やはりどこにも書かれていない。


 私は門を出て、冷たい夕風の中を歩き始めた。

 ポケットの中で、二つの紙切れが触れ合う感触がする。一つは、行方の知れない姉からの葉書。もう一つは、私を見て逃げ出した学生の答案用紙。


 その二枚の紙が、自分の知らないところで、かすかに繋がっているような気がしてならなかった。


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