12月23日(29)弓野と明日美の決心
闇に沈んだ木立の向こうで、枝がかすかに揺れた。
私は涙でにじんだ視界のまま、そちらを睨みつける。
「誰……!?」
喉が焼けるように痛いのに、声だけははっきり出た。
「そこに誰かいるのね? 研究室の人なのは分かってる。あなたが佳織さんを撃った人ね。」
(私も撃たれる……!!)
(佳織さん……ごめんなさい。
救ってもらった命なのに
もう……どうしようもない)
覚悟を決めかけた、その時――。
「明日美さん、危ない!!」
聞き覚えのある声が闇を裂いた。
「この声は……?」
私が振り向くと、木々の影から走り寄ってくる人影があった。
「……あ、明日美さん、無事で良かった。」
「弓野くん……!」
「明日美さん、説明は後だ。今はすぐにここを逃げ出そう。」
彼は迷いなく私の腕を引き、その場から遠ざかるように走り出した。
*
しばらく走って、人気のないキャンパスの一角にたどり着いた。
背後の木立は小さく揺れているだけで、人の気配はもうない。
「ここまで来れば大丈夫だ。明日美さん、もう研究室には近寄らないで。」
「……私は助かっても佳織さんが……」
「残念だけどもう手遅れだった。明日美さんは少しも悪くないよ。」
「……一ノ瀬さんも地下で亡くなった。椎名さんも柿崎さんも……」
「……前も言った通り、この研究室は普通じゃないんだ。」
弓野くんは、どこか遠くを見るような目をした。
「それがとうとうこんな形になってしまった。佳織さんはなぜ狙われてしまったんだろう?」
「……」
「佳織さんは灰原助教授とともに、研究室を取り仕切る阿久田元大臣と対立をしていた。」
「そのことで狙われたと……?」
「佳織さんは学生の中に、阿久田元大臣の身内で研究室を監視している人物がいると言っていた。」
「監視している人……? それは誰だと?」
私は頭の中で、一人一人の顔を思い浮かべていく。
椎名さん…?柿崎さん…?
もちろん違うわ。椎名さんや柿崎さんはむしろ監視されていた側だった。
船橋さん……。
彼は地下で一ノ瀬さんを刺した。研究室側の人間で間違いないわ。
一ノ瀬さんが教えてくれた。マインドコントロールによって誰かに命令されているって。
おそらく麻衣子さんも同様の存在だった。
監視者が阿久田元大臣の身内だとしたら、そんなふうに扱われるはずはない。
真一さん……?
でも、彼は研究室と敵対することを恐れ、その存在に怯えていた。あれが嘘だとは思えない。
「……」
残った名前は、一つだけだった。
*
「弓野くん…あなたが監視者ね。」
「えっ……? 明日美さん、何を言っているの?」
私の視線の意味に気づいたのか、弓野くんの声がわずかに震えた。
「さっき、あなたが来てから私はずっと安全に逃げることができた。」
「その気になれば、相手はいつでも撃つことができたはず。撃たなかったのは誰かが止めていたから。」
「明日美さん、何を言って……? そんなことで僕を……?」
「研究室の学生は皆亡くなった。阿久田たちは自分たちの秘密を守るためなら、学生にも容赦しない。」
「佳織さんが撃たれたあの池で、あなただけが無事なのはおかしいの。教えて……弓野くん。」
「……」
短い沈黙のあと、彼は静かに口を開いた。
「そうだよ。弓野は母方の名字。」
「僕は……阿久田要蔵の息子だ。だからこの研究室に入っている。監視者は僕だ。」
「……」
「君の安全を確保したい。そのレポートを渡してくれないか?」
「やっぱり、5th Reportを取りに私のもとに来たのね。でも、これは渡せないわ。」
「君の言う通りだ。レポートを渡さなければ……僕の一存でいつでも銃が撃たれる。」
「そこまでしてレポートを奪おうと? 別に構わないわ。」
「このレポートは一ノ瀬さんや佳織さんが、命懸けでつないでくれたもの。渡すことはできないわ。」
「無理だよ。レポートだけを失うのか、命を奪われて更にレポートを失うか。」
「その二択だ。彼らが容赦しないのは知っているだろう?」
「……」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
それでも――私は、ゆっくりと5th Report の入ったCD-Rを差し出す。
皆に助けてもらった命で、まだやるべきことがあると思ったから。
弓野くんは何も言わず、それを受け取った。
*
彼と別れたあと、私はふらふらと研究室の建物の方へ向かっていた。
気づけば、焼却炉のある裏手に来ていて、あの子猫のことを思い出す。
「この辺に弓野くんが飼っていた子猫がいたはず……!」
「わっ!?」
突然、背後から声を掛けられて、思わず飛び上がった。
「……真一さん……? 良かった……」
「ハハハ、僕を見てホッとするなんて、よほど怖い思いをしたんだね。」
「……」
「弓野くんのことを知ったんだね。そうさ、彼は阿久田要蔵の息子だ。研究室にも特別枠で入っている。」
真一さんは、いつもの落ち着いた口調で続ける。
「弓野くんは一昨日から研究室に来ずに、ずっと何かを調べていたようだ。」
「さっき戻った彼から、僕は子猫を預かった。すぐにでも研究室のそばから離れろってね。」
「弓野くんは何をしようと? 何が起ころうとしているのですか?」
「見当がつかないね。ただ、先ほど一週間ぶりに戻られた、神子塚教授の動向と関係していそうだね。」
「神子塚教授が戻っている!?」
「神子塚先生からも外に出るように言われた。今、研究室のメンバーも事務員も誰もいない。」
「神子塚先生は何かを考えている。君は特に巻き込まれない方がいい。それが今いない学生も含めた皆の思いだ。」
「……」
「君はレポートがあるがゆえに狙われた。でも、今は弓野くんがそれを持っている以上、誰ももう君を気にしないはずだ。」
「考えようによっては君を助けたと言えるのかもしれない。」
「……」
「君はこのまま帰るのが一番いい。良かったら子猫をもらってくれないか?」
「はい、それは構いません。」
小さな温もりを腕に抱きながら、私は目を閉じる。
――でも、本当に、このまま帰っていいのだろうか。
*
「真一さん、私、やっぱり帰りません。今から研究室に入ります。」
「明日美さん!? どうして!? 今度こそ無事に戻れなくなるよ!!」
「私はずっと助けられてきた。だから、今度は研究室の学生さんを助けたい。」
「これ以上、研究室の人を失いたくない。」
「私にとって神子塚研究室で出会った人たちは、かけがえのない人たちだった。」
「真一さん、私行きますね。やっぱり今だけ子猫ちゃんを預かっていてください。」
「明日美さん……」
「大丈夫、必ず戻りますから。」
「分かった。研究室に入る裏口を教えるよ。幸運を……!」
*
真一さんに教えられた裏口から、中に入る。
廊下は静まり返り、空気はひどく冷たかった。
「弓野くん……!!」
「明日美さん……!? どうして、ここに……!」
「……やっぱり放っておけなくて……。最初、困っていた私の話を聞いてくれたのは弓野くんだったから。」
「そんな……!? 僕は君からレポートを奪った。危ない目にも遭わせたのに、どうして?」
「結局、私は撃たれてもいない。無事に生きているわ。」
「多分、あなたなりの立場で私を助けてくれたんじゃないかと思った。」
「……」
「それに真一さんから聞いた。弓野くんは何かをしようとしているって。危険を背負っていると感じたの。」
「そのために子猫を逃がすような人が、悪い人とも思えないしね。」
「……明日美さん。」
「僕は紛れもなく、阿久田要蔵の息子だ。良く捉えてもらっても変わらないんだ。」
「だけど……僕は父親とは違う。」
弓野くんは、何かを決意したように私を見た。
「僕は今からこの研究室を建物ごと爆破するつもりだ。」
「えっ……!?」
「これは元々は神子塚教授の計画だった。それに僕が加担して内密に進めてきた。」
「神子塚教授が……どうして?」
「詳しい話をする時間はない。でも、僕の背中を押してくれたのは明日美さんなんだよ。」
その言葉が胸に刺さった瞬間――。
*
建物の外から、重い鉄扉が開くような音が響いた。
「建物の入口が……!! そんな、閉じていたはずなのに!!」
「弓野くん……!!」
武装した男たちがなだれ込むように廊下に現れ、私たちを取り囲む。
その中から、一連の黒幕と思しき人物がついに姿を見せた。
「よくやった。レポートを入手してその娘の口を封じればそれで終わりだ。」
「概ね、計画通りというわけだな。レポートさえなければ、神子塚がどう計画しても単なる事故だ。」
「そ、そんな……弓野くん!?」
「……」
「さあ、どうした? 早くこちらに来い。」
阿久田の部下たちの銃口が、一斉に私へと向けられる。
「弓野くん……戻って。今ならばまだ大丈夫だから。」
「明日美さん、僕は決して……」
「分かってるよ。私は弓野くんのことを信じているよ。だからこそ行ってほしいの。」
「研究室の人たちを守りたい。今までずっと守られてきた。もうたくさんなの。」
「弓野くん、お願い。今度はあなただけでも守らせて。」
「ごめんね……明日美さん。」
弓野くんは私のもとを離れ、阿久田の方へと歩いて行った。
銃口が、より鋭く私を狙う。
「利口な判断だ。お前にはやがてこの研究室を継いでもらうのだ。」
阿久田の手が、合図を送るようにゆっくりと上がる。
私は目をつぶった――その瞬間。
鋭い音とともに気配が動いた。
弓野くんが阿久田の首に手を回し、ぐっと締め上げる。
「待て……!!」
「ぐ、お、おまえ……!!」
息子に首を絞められた阿久田は苦悶の声を漏らし、周囲の部下たちは突然の状況に対応できずに固まっている。
「明日美さん……!! 行くんだ!!」
「撃つな……!! こいつがどうなってもいいのか!?」
「ぐぐ、ゆ、許さんぞ……!!」
「明日美さん、早く……!! 神子塚教授にこれを渡すんだ……!!」
弓野くんが片手で何かを放った。
私が受け止めると、それは5th Report のCD-Rだった。
彼の決死の行為を無にしてはいけない。
私は踵を返し、研究室の奥へと走り出した。
*
「ここは一ノ瀬さんのいた机……でも、もちろん今は誰もいないわ。」
「一ノ瀬さん……地下でやさしく私を護ってくれた人……」
がらんどうになった机と椅子を横目に、足を進める。
「佳織さんのいたスペース……でも、もちろん今は誰もいないわ。」
「佳織さん……もう一度でいいから……話したかった……」
胸の奥がじんと熱くなり、視界がぼやける。
「ここは椎名さんの……」
「椎名さん、寡黙な人だったけど、私のために命懸けで伝えてくれた……」
「ここは柿崎さんが……」
「柿崎さん、最初は怖かったけど、私を一生懸命助けようとしてくれた。」
一人一人の席を通るたび、そこにいた人たちの声や表情がよみがえり、足が止まりそうになる。
それでも――私は、最後の扉を目指して歩き続けた。
5th Report を胸に抱きしめながら。
そして、私は神子塚教授室の前に立った。
ずっと姿を見せていなかった神子塚教授は、今ここにいるはずだ──そう思っていた。
そっとドアノブに手をかける。
(鍵がかかっていない……)
胸の高鳴りを押さえながら、私は慎重にドアを押し開け、中の様子をうかがった。
書棚とデスク、積み上がった書類。見覚えのある光景。だが、研究室を訪れた当初にいた、秘書の水越麻衣子の姿はない。
もちろん、神子塚教授もいなかった。
「誰も……いない? どういうことなの……?」
私は部屋の中に足を踏み入れ、以前と同じように教授室の内部を捜し回った。
しかし、どこにも人影はなかった。
「どうしよう……。神子塚教授はいったい、どこに……?」
思わず立ち尽くしたそのとき――。
『……』
「誰……? 誰かいるの?」
ふいに、誰かの気配を感じて私は振り向いた。
もちろん、そこには誰もいない。自分でも、疲れからくる錯覚だと分かっている。
それでも――。
『さあ、こっちよ。』
耳の奥で、誰かが囁いた気がした。
幻聴と切り捨てるには、あまりにも懐かしい声だった。
「この声は……? 聞き覚えがある……」
胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「まさか……お姉ちゃん……?」
私は、声に導かれるようにして教授室の片隅へと歩み寄った。
ブラインドの隙間から、冬の日差しが細く差し込んでいる。その光が、床近くの一点を照らし出していた。
「……これは、IDカード……?」
そこには、一枚のカードが落ちていた。
以前入手した神子塚教授のIDカードとよく似ているが、デザインも色もわずかに違う。
私は震える指先でそれを拾い上げ、記されている名義を読んだ。
「……上条明日美……!?」
視界が一瞬、滲んだ。
カードを握りしめた私は、教授室を飛び出す。
目指す先は、ただひとつだった。
再び、地下室への入口の前に立つ。
上条明日美のIDカードを読み取り機にかざすと、重々しいロックの音とともに、地下へ続く扉がゆっくりと開いた。
「以前は、一ノ瀬さんが一緒だった……。今はひとり。でも、怖くない。」
(きっと……みんなが、守ってくれますよね……)
私は小さく息を吸い込み、暗い階段を降りていく。
やがて、あの部屋の前にたどり着いた。
ガラス越しに、女性の遺体が静かに横たわっている部屋――。
私は扉の前に立ち、そっと手を伸ばす。
決意とともに、そのノブを握りしめた。




