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人形の傷跡  作者: Child-Dream
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12月18日(2)「そのことを考えると、お前は死ぬ」


 キャンパスの門を背にして歩き出すと、学生たちのざわめきが、次第に遠ざかっていった。


 通りには、古いコンクリート塀と二階建てのアパートが並んでいる。冬枯れの植え込みの間を、冷たい風がすり抜けていく。通学路というより、どこにでもある住宅街だ。さっき女子学生に教えられたとおり、二つ目の信号を右に曲がる。


 靴の裏で、落ち葉を踏む音が小さく鳴った。


 ――そのことを考えると、お前は死ぬ。


 さっき耳の奥に落ちてきた言葉が、まだ薄く残響している。

 あれは幻聴だ、と自分に言い聞かせる。そうでもしないと、足が前に出なくなりそうだった。


「……大丈夫」


 小さくつぶやいて、マフラーの端を握り直す。


 やがて、住宅街の視界がふっと途切れた。


 その向こうに、灰色の塊があった。


   ◇


 高いコンクリート塀にぐるりと囲まれた、巨大な建物だった。

 塀の上には黒いフェンスが継ぎ足されていて、内部をのぞき込むことはほとんどできない。表通りに面した部分には、幅広い正門と金属製の引き戸。中から出てきたワゴン車の後ろには、制服姿の警備員が付き添っている。


 塀の上を、ゆっくりとパンするように動いている何かが目に入った。監視カメラだ。黒い半球のようなカバーが、冬の薄い光を鈍く反射している。


 ――研究室、というより、研究所。


 私は立ち止まり、門柱脇のプレートを見上げた。


「帝都工業大学 神子塚研究室」


 深く彫られた文字に、白いペンキが流し込まれている。その下に、小さく「先端情報システム研究棟」の文字。さっき葉書で見た大学の正門とは、まるで別世界のようだった。


「お姉ちゃん、こんなところで勉強していたんだ……」


 実感が、ゆっくりと胸に広がる。

 同時に、門の内側から吹き出してくる冷たい空気が、足元を撫でていったような気がした。


 正門脇の小さな扉から中に入ると、屋内への玄関までは短い通路が続いていた。両脇の塀の内側には、細い植え込みと、防犯灯のような低いポール。通路の途中にある小さなゲートの横で、さきほどの警備員がこちらを見た。


「どちらへ?」


 低い声だが、威圧的というよりは事務的な調子だった。


「あの、神子塚研究室に……。姉がこちらでお世話になっておりまして、今日は会いに来たんです」


 胸ポケットから学生証を出そうとして、私は手を止めた。高校の学生証を見せても意味はない気がしたからだ。


 警備員は、私の顔と鞄とを順に見てから、少しだけ表情をゆるめた。


「学生さんのご家族ね。だったら、まず一階の事務で用件を話してください。ここ、初めて?」

「はい」

「じゃあ、入ってすぐ右が事務室だから。そこで名前を言えば通してくれるはずです」


 通行カードのついた金属のバーが、カチリと音を立てて開く。

 私は礼を言って通り抜けた。


   ◇


 自動ドアをくぐると、ひんやりとした空気が頬に触れた。

 エントランスホールには、大きな観葉植物と長椅子がいくつか置かれている。正面にはエレベーターと階段。右手のガラス窓の向こう側に、「受付・事務室」と書かれたプレートが見えた。


 窓口の中には、二人の職員がいた。

 奥のデスクには年配の女性。手元の書類をめくる指先に、長年の慣れを感じさせる落ち着きがある。カウンターに近い方には、シャツにネクタイ姿の男性が座っていた。胸元の名札には「田名部」とある。


 私は深呼吸をひとつしてから、ガラス越しに声をかけた。


「あ、あの……すみません」


 田名部がくるりと椅子を回し、窓口に近づいてくる。


「はい、どうしました?」

「あの、私、上条明日美と申します。姉がこちらの神子塚研究室でお世話になっておりまして……今日は、姉に会いに伺ったんです」


 言いながら、自分でも少し堅苦しすぎる言い回しだと思ったが、声が上ずるのを抑えるので精一杯だった。


 田名部は、不思議そうに眉をひそめた。


「お姉さんのお名前は?」

「上条です」


 自分と同じ名字を口にすると、胸の奥で何かが小さく鳴った気がした。


「上条さん、ねえ……」


 田名部は復唱しながら、手元の分厚い名簿を引き寄せた。ページをめくる指先は迷いがなく、慣れた動きをしている。


 ページを数枚めくったところで、指が止まった。


「うーん……いないですね」


「いない、って……?」


 意味がすぐには理解できなかった。


「ここ、神子塚研究室の学生名簿なんですよ。今いる学生さんは全部で七人。ほら、博士課程と修士課程、合わせてね」


 名簿を少し傾けて見せてくれる。たしかに、そこには見慣れない名字が七つ並んでいるだけだった。


「その中に、上条さんという学生は……一人もいません」


 さらりと言われた事実は、頭のどこにも収まる場所を見つけられなかった。


「いえ……そんなはず、ないです。姉は、神子塚研究室の大学院にいるって……。手紙にも、そう書いてあって……」


 言いながら、鞄の中の葉書の感触を探る。紙の角が指先に触れても、現実感は戻ってこない。


「研究室をお間違えになってるとか」

「間違えてません。帝都工業大学の、神子塚研究室です」


 声が少し強くなっているのに、自分で気づく。


 田名部は、困ったように笑った。


「いやあ、でもねえ。私はここで学生さんの出入りをずっと見てますから。新しく入ってくる人がいれば、必ず分かります。名簿だって、年度ごとにきっちり更新してますしね。私の知らない学生がいるってことは、まあ、あり得ないんですよ」


 「あり得ない」という言葉が、乾いた音を立てて胸の奥に落ちた。


「もしかすると、その……だいぶ前にいた学生さんとかじゃないですか? もう卒業されたとか」


「いえ。去年、修士を出て、今年から博士課程に進んでるはずです」


 自分で言いながら、その経歴の一つひとつを確かめるように頭の中でなぞる。

 大学に合格したときの姉の声。春に送られてきた、研究室に配属されたという葉書。夏休みに帰ってきたとき、実験の愚痴をこぼしながらも楽しそうに笑っていた顔。


 どの記憶も、嘘ではない。少なくとも、私にとっては。


「博士課程の一年生は、一人だけですね」


 田名部は、名簿のある行をペン先で軽く叩いた。


「ここ。……一ノ瀬くん。彼以外には、博士一年生はいませんよ」


 一ノ瀬。

 聞き覚えのない名前が、紙の上で静かに光っている。


「それに、うちは出席や在籍の管理にはうるさいんです。幽霊学生なんていませんからね。今在籍してる人が名簿にいないなんてことは、考えにくいですよ」


 言い切られると、反論の言葉が喉に貼りついて出てこなかった。


 姉が神子塚研究室にいると言った。

 神子塚研究室は、実際に存在する。


 だから、ここには姉がいる――私の中では、その三つは当たり前のようにひと続きだった。


 今、その一番肝心な部分だけが、現実から抜け落ちている。


「……そう、ですか」


 絞り出した声は、自分のものとは思えないほど小さかった。


 田名部は、少しだけ気まずそうに肩をすくめた。


「もし他に、何か手がかりがあるなら……たとえば別の先生の名前とか、研究のテーマとかね。そういうのが分かれば、ほかの研究室かもしれないって当たりをつけられるんですけど」

「姉は、神子塚研究室だって……そう言ってました」


 声に張りを持たせようとしたが、うまくいかなかった。


 事務室の奥で、コピー機が低い音を立てている。年配の女性が、こちらを一度だけちらりと見てから、また書類に視線を戻した。


 世界全体が、蛍光灯の白い光に薄く塗りつぶされたみたいに見えた。


「とにかくですね、今現在、この研究室に『上条』という名前の学生さんはいません。それははっきり言えます」


 最後の一言が、決定的な印のように聞こえた。


 言い返す言葉は、もう残っていなかった。

 私は深く頭を下げる。


「……ありがとうございました」


 足を引きずるようにして事務室を離れ、廊下に出る。

 外の世界と隔てるガラスの向こうでは、灰色の空の下を車が行き交っていた。床に落ちた蛍光灯の光が、白く冷たく反射している。


 さっきまで胸の中で形を保っていた「前提」が、音もなく崩れていく。

 私は壁にもたれかかり、指先に力を込めた。


 ――姉は、どこにいるの?


 ここにいるはずだと信じて来た場所で、「いない」とあっさり言われてしまった。

 それなら、あの人は、どこへ消えたのだろう。


 答えは、まだどこにも見当たらなかった。


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