12月23日(28)佳織の手紙
それから、佳織さんは、しばらく私の顔をじっと見ていた。
病室を満たす沈黙を、突然の振動音が破った。
ベッド脇のテーブルの上で、携帯電話が小刻みに震えている。佳織さんは険しい表情のまま、それを手に取って画面を確認した。
「『監視者』から、5th Reportを渡せという連絡があった。」
「『監視者』……?」
「神子塚研究室を支配する阿久田要蔵の意向を受けて、学生のフリをした誰かが研究室に潜り込んでいるのよ。」
「それは船橋さんや麻衣子さんのこと……?」
「違うわ。彼らはマインドコントロール下で命令を受けているだけ。」
淡々と説明しながらも、その声にはかすかな緊張が滲んでいた。
「『監視者』はもっと阿久田に近い、おそらく実子……!」
「その人が連絡を……?」
「この場所も把握されているようね。今からここに来るわ。そして5th Reportの受け渡しを行う。」
そう告げると、佳織さんはまっすぐ私を見た。
「私はここに残る。あなたとはここでお別れね。」
「佳織さん、危険です。わたしもここに残ります……!」
思わず身を乗り出すと、彼女は小さく首を振った。
「……」
「ダメよ。あなたがいたら取引の妨げになるの。」
「あなたが研究室に来て求めていた『姉の真実』はもう伝えたはず。だから、ここにいる理由はもう何も無い。」
「早く行きなさい。もう旅は終わっているのよ。」
佳織さんは、私に反論の余地を与えないような事務的な口調で言い放った。
だが、このままでは「監視者」によって佳織さんは殺害されて、レポートは奪われる結果になるだろう――それは、私にも分かっていた。
そのことが分からない佳織さんではない。
おそらく灰原助教授が亡き今、佳織さんはもう、生き延びる気持ちさえなくなっているのだと思えた。
*
佳織さん……。
胸の内でその名前を呼びながら、私は自分の気持ちを整理しようとしていた。
そうですよね、佳織さんの言う通りです。
もう、私の旅は終わっている。だから、帰らないと――頭ではそう理解しているのに、足が一歩も動かなかった。
私の旅の目的は、失踪した最愛の姉を探すことだった。
でも、すべてが明らかにされて、それは泡沫のように消えた。
元々、探している存在はなかった。だから、ここにいる理由なんてないのに……。
どうして私はまだ出ていけないのだろう?
帰る場所がないから? そうじゃない。私には、まだやることがある。
姉がいないという事実を突きつけられた時、一度は絶望の底に落ちた。
でも、私を姉のように見守ってくれた人がいてくれたことがわかった。
今は暖かな気持ちに包まれている。この旅に出てよかったと思う。
だから、今度は私が――。
「だから、今度は私が佳織さんを守らなければ……!」
私はそう心の中で固く誓い、病室の扉へと向き直った。
*
病室の外に出ると、薄い廊下の灯りが、冬の夕方のような色をしていた。
私は踵を返し、もう一度扉を開ける。
「早く……!!」
苛立ちを隠そうともせず、佳織さんが言う。
「佳織さん……」
私は真っすぐ彼女を見つめ、言葉を絞り出した。
「5th Reportは私が持ってここで待ちます。佳織さんこそ、その間に逃げてください。」
今度は自分が毅然と言い放った。反論されないように、私の決意が伝わるように。
「……」
「どうして……? 何を言っているの……?」
「もとから5th Reportは私のものです。だから、渡すつもりはありません。」
「どうして……?」
問われて、私は自分の本当の気持ちに気付いていく。
「佳織さん、私はやっぱり自分だけ助かっても幸せではないんです。」
「気づいたの。真実を知るために研究室に来たのではなく、」
「お姉ちゃんを見つけて二人で一緒に帰るために来たのだから。」
「……」
「もう、時間がないのよ。」
「……佳織さん、早く行ってください。二人とも殺されるなんて嫌です。」
「……」
「そう……」
短くそう呟くと、佳織さんは5th Report の入ったCD-Rを、そっと私に返してくれた。
「……」
唇がわずかに動いた。何かをつぶやいたように見えたが、聞き取ることはできなかった。
彼女は私に背を向け、病室の扉の取っ手に手をかける。
もう二度と会うことはないだろう――そう思った瞬間、急に込み上げてきた気持ちを抑えることができず、私は叫んでいた。
「お姉ちゃん……!」
佳織さんは驚いて振り向いた。
「……!?」
「ごめんなさい……」
「……」
それでも彼女は何も言わなかった。
静かに扉を開け、早足で立ち去っていく。その背中が視界から消えるまで、私は立ち尽くしていた。
*
私は佳織さんの後ろ姿を目に焼き付けるように、じっと見つめていた。
佳織さんは振り返らず、ドアを閉めた。
あとは私が「監視者」を待つだけだ。
私はこれから起きる、自分の運命を覚悟する。
でも、これで良かったと思う。
なぜなら、私はそのために旅をしてきたのだから。
怖くなかった。本当ならもっと早く落としていた命、みんなに救ってもらったのだから。
窓から何気なく外を眺める。
広大な帝都大のキャンパス内には森があり、その奥には池が見える。
暗緑色の水を湛えるその池を見ると、なぜだか不吉な気持ちになる。
「あれは……!?」
池のほとりに建てられた小屋に、一瞬、佳織さんの姿が見えたような気がした。
けれど、遠目のせいか、すぐに見えなくなってしまう。
私はなるべく気持ちを切り替えて、監視者との対峙に備えた。
*
「どうしてだろう? 誰も来ない……!?」
病室の時計の針が、やけに遅く動いているように感じられる。
もう30分も待っている。
レポートを奪いに来るはずの「監視者」は、ここには来なかった。
「おかしい……!?」
「……何か状況が変わったのかもしれない。どうしたらいいの?」
私は迷った末、決意する。
――病院を出て、池に向かおう。
*
私は監視者との待ち合わせに見切りをつけ、病院を出て、池に向かう道を進んだ。
冬の冷たい空気が、肌を刺すように痛い。
先ほど窓から佳織さんの姿を見たように思えた。
だが、その場所にたどり着いても、人の気配はない。
「誰もいない……!?」
足元の土に靴跡が残っている。
これは佳織さんのものだ。彼女が少し前にここを歩いたことは間違いない。
「……!?」
「これは……佳織さんの携帯……!?」
小屋のそばの地面に、携帯電話が落ちていた。意図的に置いたようには見えない。
画面を見てみると、メッセージの送信を終えたところのようだった。
内容は短文で、受け渡し場所を池の小屋にすると書かれている。
「まさか……!? 待ち合わせを別の場所に変えていた!? どうして……?」
病室ではなく、あえて人目の少ない池へ――佳織さんは、私から監視者を遠ざけるつもりだったのだ。
その時――。
乾いた銃声が、遠くの森の奥から響いた。
「……!」
私は銃声がした方向に、道なき道を全力で走った。
体は木々にぶつかり、足は土にまみれる。転がり落ちるようにして、その場所へとたどり着く。
人の気配がする……!
私は躊躇なく木々の間に分け入った。
「佳織さん……!!」
視界が、ぱっと開ける。
「……!!?」
そこには、血に濡れ、地面に倒れ込んだ佳織さんの姿があった。
「佳織さん……どうして?」
膝から力が抜け、私はその場に崩れ落ちる。
「仕方ない子ね。どうして来てしまうの?」
弱々しく笑いながら、佳織さんが囁いた。
「……」
「私を探してくれてありがとう。もう十分なのよ。うれしかった。」
「私も同じだったのよ。」
「えっ……!?」
「私も孤独だった。でも、そうじゃないと分かった。だから、これで良かったの。」
「血がつながっていなくてもお姉ちゃんだよ。」
「わたし、家族がいたんだ。この時がずっと続けばよかったのに……」
言葉を交わしながらも、彼女の体温がゆっくりと腕の中から失われていくのがわかる。
「私を姉と呼んでくれた。本当はわたしにとっても、あなたは心の支えだったのよ。」
「私のせいで……私は何もできなかった。」
「違うのよ、明日美、わたしは明日美にたくさんのものを与えてもらっていたのよ。」
「その時だけじゃなくて、今も……ずっと妹よ。これからも……」
最後の言葉は、風にさらわれるようにかすれていった。
*
佳織さんは、私の腕に抱かれながら息を引き取った。
彼女のコートのポケットに、小さな封筒が覗いているのが見えた。可愛らしいクマのシールが貼ってある。
私はそっとそれを取り出し、封を切る。
中には、走り書きのような文字で綴られた手紙が入っていた。
――――――――――――――
明日美へ
明日美、あなたと見つめ合って話すことは
私にとって辛く罪深いことなので、手紙を書きました。
明日美……
あなたは、確かに他の人の遺伝子をコピーした
クローンとして生まれました。
だけど、出生がどうであれ、
その後、自分の人生を生き、
自分の人格を形成したあなたは、
紛れもない一個の人間です。
出生のことで、悩む必要はありません。
あなたの体も、生きるための権利も
普通の人間となんら変わりはないのです。
あなたには、あなたの人生があって、
それは……もちろん、幸せに暮らすべきものだわ。
色々とごめんね……明日美。
あなたは私が思っていたよりも、ずっと強く、
そして、思っていたとおり、やさしい子でした。
あなたなら、きっと、
運命を乗り越えることができるでしょう。
明日美……私の大事な……いもうと。
幸せに……幸せに生きて……
林谷佳織
――――――――――――――
手紙の最後の文章は、走り書きになっている。
文字も滲んでいて、うまく読めないくらいだ。
「佳織さん……」
私は、紙を震える指で押さえながら、最後の一行を心の中で繰り返した。
『明日美……私の大事な……いもうと。
幸せに……幸せに生きて……』




