12月23日(27)自分を作ってきた幸せな思い出
キャンパスの外れ、冬枯れの並木の下で、冷たい風が吹き抜けていた。人影の少ないその場所に、三つの影が向き合っていた。
「船橋?! なぜ、あなたが?!」
佳織が、目を見開いて叫ぶ。
「………。」
コートの襟を立てた男――船橋は、無言で二人を見据えていた。
「ふん……船橋……やはり、貴様か。」
低く笑ったのは灰原だった。コートのポケットに突っ込んでいた右手が、ゆっくりと持ち上がる。
「死ね。」
乾いた音が、冬の空気を裂いた。
銃声が響く。
「ぐぎゃあああああ!!!」
船橋の体が大きくのけぞり、そのまま地面に崩れ落ちる。
「ふん、他愛もない。」
灰原は鼻で笑った。
「佳織、貴様が地下室で
始末をつけそこなったから、
こんな面倒なことになったのだ。」
「……。」
「後は、同じく、お前が
始末できなかった麻衣子か……。」
吐き捨てるように続ける。
「奴らが、阿久田の配下として、
研究室に潜り込んでいたと
いうわけか。」
その言葉に、佳織は唇を噛みしめ、答えを飲み込んだ。
「………。」
悔恨とも恐怖ともつかない沈黙が、二人の間に落ちる。
「ハッ?!!」
次の瞬間、佳織の視線が灰原の背後に吸い寄せられた。
「灰原先生!!後ろから!!」
彼女の悲鳴に振り向きざま、再び銃声とは違う、鈍い音が響く。
「な、なんだと?!
ぐ、グアアアア!!」
「きゃああああああ!!!」
思わず悲鳴を上げた佳織の目に映ったのは――倒れ込む灰原と、その後ろに立つ、もう一人の船橋の姿だった。
「な……なぜだ……。
なぜ、複数いる……?」
灰原のうめきが、白い吐息とともに空に滲む。
「………。」
表情を崩さぬまま、黒い影が一歩踏み出した。噴水の前、薄曇りの空を背にして、その姿は不気味に増殖しているかのように見える。
「おおお!!
バ、バカな……この私が!!」
灰原は、よろめきながらも必死に声を張り上げる。
「ク、クソ……5th Reportは……この手に……もう少しで……全部……」
「灰原先生?!!」
佳織が駆け寄ろうとする。
「もう……ダメだわ!!!」
伸ばした手の先で、灰原の体から力が抜けていく。噴水の水音だけが、やけに大きく聞こえた。
やがて、静寂が訪れる。
「はぁ……はぁ……。」
肩で息をしながら、佳織は噴水の縁にもたれかかった。
「船橋……彼らは
元から一人ではなかったのね。」
かすれた声で、独り言のように呟く。
「船橋と麻衣子、
彼らは最初から何人もいた。」
「彼らは、元から同一遺伝子から、
たくさんの個体が
作られていたんだわ。」
自分の立っている世界の足場が、音を立てて崩れていくのを感じながら、佳織は空を仰いだ。
「もう……ダメだわ……
ここにも追っ手が来る。
負けたわ。」
噴水広場を吹き抜ける風が、冷たく頬を撫でる。
「灰原先生は……殺されてしまった……。」
呟きは、誰に届くこともなく霧散する。
「『5th Report』……
私は、これをどうすればいい?」
手の中に握りしめた封筒の重みが、急に現実味を帯びてくる。
「最後に……私は何をすればいい……。」
問いは、答えのないまま、冬空へと吸い込まれていった。
*
再び……目が覚めて、私は病室の天井を見つめていた。
私は変わらない現実が呪わしくもあり、そして、もうどうにもならないことも分かっていた。
さっきまでの混乱と絶望の波は、少しだけ引いていて、代わりに鈍い痛みのような静けさが広がっていた。
少しだけ、落ち着いて
物事を考えることが
できるようになっていた。
「私は、上条明日美のクローン……。」
口に出してみると、その言葉は思ったよりも冷静に響いた。
「神子塚教授の娘であり、
総合人間構築学の天才的な
研究者だった人物、上条明日美。」
「過去に研究室を告発しようとして、
逆に殺された。だが、地下に、
5th Report を遺した。」
「5th Report……。
研究室の告発と自らの研究を
まとめた論文。」
病室の白い天井を見つめたまま、私は一つ一つを確かめるように言葉にしていく。
「その研究の偉大さゆえ、
神子塚研究室の誰もが5th Reportを
破棄することはできなかった。」
「そして、5th Report は
上条明日美の意志によってしか、
起動しないようにしてあった。」
「だから……同じ遺伝子を持つ私しか
起動ができなかったのね……。」
口にした瞬間、あの地下室での光景がよみがえる。あの時、私が触れた端末は、確かに私を「上条明日美」と認識していた。
「佳織さんがすべてを
仕組んでいたなんて……」
胸の奥が、再び微かに痛んだ。
私の記憶……。
そうだ……思い出すたびに……
同じ記憶だった……。
お姉ちゃん……。
助教授室においてあった
テキストデータと私の記憶が……
まったく同じだった……。
何も……変わらない……。
………。
この記憶に……私は……
いつも励まされてきたのに……。
それが、全部……現実ではなくて、
作られたデータ……。
枕元に置かれたクマのぬいぐるみを、ぼんやりと見つめる。
全てが作られた……
虚構の……データ……?
脳神経接続チップの実験のために
作られ、研究室を混乱させるために
作られた、データ。
だけど――。
……それなのに、
「なんで、こんな優しい想い出
ばかりなんだろう……?」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
いつも、心の支えだった。
だから、辛いことがあっても、
頑張ってこれた。
例え、それが作り物の
記憶だとしても、私は幸せだった。
私は、どんな時でも、
お姉ちゃんがいないなんて、
思ったことはなかった……。
それは、決して、
チップのせいではないわ。
そうだわ……。
私は、手を伸ばし、ベッド脇のクマをそっと抱き寄せた。
このぬいぐるみは……?
この不器用な縫い跡は
お姉ちゃんが
一生懸命作ってくれた証なのよ。
指先でなでると、ところどころ糸がつれている感触が伝わる。
おかしいわ……。
このぬいぐるみは……?
どうして……こんなものが
実在しているの……。
目を閉じると、ゆっくりと、今まで開けられなかった記憶の引出しが、音もなく開き始めるのを感じた。
*
『明日美…?
遅くなってごめんね。
寂しくなかった…?』
優しい声が、暗い部屋の中に落ちてくる。
『寂しくないよ、少しも。
だってお姉ちゃんがいるもの。』
『おかしなお姉ちゃん、
どうしてそんなことを聞くの?』
私――幼い私が、ニコニコしている。
そんな自分の顔を、どこか遠くから見ているような、不思議な感覚。
私はニコニコしている。
こんな顔をする子供だったんだ。
不思議ね…
自分がどこかにいて見ているみたい。
とてもよく覚えている。
私は温かい気持ちに包まれていた。
だから自分は幸せな人間だと思って
それを疑わなかった。
あの履歴書を見てから
自分が何者なのか分からなくなった。
不安に押しつぶされそうになった。
それでも…私は…
自分を見失うことがなかった。
それはいつも自分のそばに
自分を心から気遣ってくれる人が
いてくれたから…
これがすべて作られた記憶…?
そんなわけがない。
あの夜、枕元に置かれた小さな包み。
震える手でリボンを解いたときの、ときめきと、胸いっぱいに広がった幸せな匂い――それを「データ」と呼ぶには、あまりにも生々しすぎる。
*
ふと、現実の病室の光がまぶた越しに戻ってくる。
色々なことを思いながら……
私は、あと少しだけ、
まどろんでいた……。
その時、今まで開けられなかった
記憶の引出しが
開けられつつあるのを感じていた。
*
扉が唐突に開いた。
金属音とともに、静かな病室に冷たい空気が流れ込む。
「灰原先生は殺された。
私達は負けたわ。」
入ってきたのは佳織だった。コートの裾に、外気の冷たさを纏っている。
「まだ、この一室の存在は、
阿久田達に知られていない。」
「せいぜい、逃げることね。」
彼女は、ベッドに横たわる私を一瞥し、淡々と言う。
「あと、これは返しておくわ。」
手にしていたものを、ベッド脇の台に置く。見慣れた封筒――5th Report だった。
「内容には興味があるけど、
灰原先生が亡くなった以上、
告発の材料にもならないわ。」
「フフフ……いい気味でしょう。」
口元だけで笑うその笑みは、どこか自嘲めいている。
「あなたの人生を
勝手に作り上げた私達は、
無残にも敗北してしまったのよ。」
私は、佳織の目を
じっと見つめていた。
彼女も目を反らさずに、
私を見つめていた。
「佳織さん、」
私はゆっくりと身を起こし、声を絞り出した。
「教えてほしいことがあるの。」
「私には、
お姉ちゃんがいなかった……。」
「だったら、私が持っている
このぬいぐるみは……
どうして存在しているの……?」
震える指で、クマのぬいぐるみを抱き上げる。
「これは、お姉ちゃんが
私にプレゼントしてくれた物よ。」
「お姉ちゃんが……私のために縫って
くれたこの世界に二つとない、
ぬいぐるみよ。」
縫い目の一つ一つが、私にとっては確かな「証拠」だった。
「……。」
「私には、お姉ちゃんがいなかった。
全部作られた記憶だった。」
「なのに……なぜ……」
「なぜ、このぬいぐるみを
私が持っているの?」
問いかけに、佳織はしばし黙り込む。
「………。」
やがて、かすかな笑い声が漏れた。
「ふふ……こんな物を、
いつまでも大切に
持っているなんて……。」
「笑っちゃうわね……。」
「そう、それは……」
一度言葉を切り、静かに続ける。
「……それは、私が作ったものよ。
どう、納得した?」
「もっともらしい記憶を作る
必要があった。
ただ……それだけ。」
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
それでも――私は、はっきりと言った。
「やっぱり、そうだったのね。
それを聞いて安心したわ。」
佳織の目が、わずかに揺れる。
「私は覚えているもの。」
「あなたがこのぬいぐるみを
私にくれた日のことを……。」
「………??」
「そんな……、元の記憶は
ほとんど無くなっている
はずなのに……」
「私にこれをくれた姉は……
泣いていたわ……。」
あの夜の光景が、鮮やかに蘇る。
『ごめんね……きっと、
寂しかったでしょう……。』
『もうすぐ、あなたは
手術を受けることになるわ。』
『だけど、怖がることはないわ。
あなたは幸せになれるの。』
『もう少し……待っていてね。』
「だから、私は、どんな時でも
自分にお姉ちゃんがいることを
疑わなかった。」
「私がずっとお姉ちゃんがいると
思って、探し求めていたのも、」
「作られた記憶のためではなくて、」
「佳織さん……
あなたがいてくれた記憶が
残っていたからなのだわ。」
「………。」
「それだけではないわ……。」
「もう……今は思い出せないけど、
きっと、昔の私より、
ずっと幸せになったと思う。」
「お姉ちゃんとの想い出を
振り返るときが、
私にとって、至福のときだった……。」
「今も……色々と思い出していた……。」
「それが……あなたがコンピュータで
作った記憶だとしても……
私にとっては、心の支えだわ。」
私は、ぎゅっとぬいぐるみを抱きしめる。
「ううん……あなたが、
私の心の支えになるように、」
「記憶を作ってくれていた
んじゃないかと思って……。」
「私は、あなたに御礼を言いたいわ。」
「………。」




