12月23日(26)病室でただ自分を探す
それからの私は、自分が自分でないみたいに、ただボーッとしていた。
何も考えられず、何も考えたくなくて、このまま心だけ抜け殻のようになってしまいそうだった。
5th Report を読んだ時から、本当は気付いていた。
だけど、ずっと、現実から目を背けていた……。
4年前に研究室を告発しようとして、逆に殺害された上条明日美と
同じ遺伝子で……。
灰原助教授の実験室で生まれ、
そして、実験動物同然に
育てられてきた……?
心のどこかでうっすらと感じていた違和感が、今は鋭利な刃物になって、何度も何度も胸の内側を切り裂いてくる。
耐え切れなくなった瞬間、私は声を上げていた。
「あああああ……あああああ
あああああああああ!!!!」
喉が焼けるほどの叫びのあと、視界がにじむ。
「うそよ、そんなことは無いわ!!!」
自分で自分を否定するように、必死で言葉を重ねる。
「私は……私は、三人家族で……
みんなで、幸せに暮らしていた……」
「私は、上条明日美……
大学院生の姉がいるのよ。」
そう言いながら、頭の中で懸命に「いつもの光景」をたぐり寄せる。
食卓、リビング、テレビの音――けれど、それらは輪郭の甘い、どこか作りものめいた映像だった。
「そうだわ、そのお姉ちゃんは……
いつも、欠かさず連絡を
入れてくれたお姉ちゃんは、」
「全然、連絡をくれなくなったの!!!」
ぽつりと零した言葉が、自分でも驚くほど生々しい痛みを伴って胸に返ってくる。
「そうだ、なんで、
連絡をくれないんだろう。
研究室の皆も嘘を付いているのね。」
「早く……早く……
連絡をちょうだい、
お姉ちゃん!!」
「私を……私を、明日美と呼んで!!!」
必死の願いは、虚空に吸い込まれていく。返事はない。ここには、呼びかける相手すらいない。
………。
「はあ……はあ……」
荒い呼吸だけがやけに大きく聞こえた。
喉も胸も、擦り切れたみたいに痛い。
………。
「私の……頭には……
奇妙な傷跡があった……。」
ベッドの上で、そっと後頭部に触れる。指先に触れる、細長い手術痕。
「交通事故に遭った時に……
頭を打ってしまったから……。」
「その時の手術の跡だと
思っていた……。」
そう思い込んできた。そう信じていれば、今までの自分を保っていられたから。
私は……静かに目をつむり、
現実を受け入れられるように
努力をした。
それは……とても辛い時間だった。
過去と現在が、他人の記録と自分の記憶が、ぐちゃぐちゃに絡まり合っていく。
その中から「自分」という形を探し当てるのは、拷問にも似ていた。
――それでも、考えなければならない。
目を背けている限り、私は本当の意味で何一つ掴めないままだ。
思い出そう……思い出すんだ……。
意識の底に沈めていた記憶に、そっと手を伸ばす。
小さい頃……よく、けんかしたよね。
テレビのチャンネルの取り合い
とかしてて……、
私はアニメが見たいって言って、
お姉ちゃんは、
なんだか難しそうな科学の番組を
見たいって言って……、
私……しまいには、
いつも泣き出しちゃって、
でも、お姉ちゃん、どんな時も
結局、私に譲ってくれてたわ……。
いつも、家には二人だったから……、
お父さんが忙しかったから、
いつも、家には私達姉妹だけ
だったから……
いつも……二人だった……
横でお姉ちゃんが笑っている。
一種類しかない記憶……。
そうだわ……いつも、このことばかり
やさしいお姉ちゃんのこと……ばかり。
違う場面も思い出そうとするのに、たどり着くのは決まって同じような光景ばかり。
それでも、さらに記憶をさかのぼる。
二人で盆踊りに行ったよね。
夏には必ず……。
おそろいのゆかたを着て……、
でも、そのうち、いつからか、
お祭りに行かなくなったわ。
そう、お姉ちゃんを男の子が
迎えに来てた。
お姉ちゃんはあの男の子が
好きなんだわって思って、
私、ドアのところで、
一人で見てたわ。
玄関の影から見つめていた、幼い自分の視線まで、ありありと思い出せる。
そうだ……お姉ちゃんの名前すら……
私は知らなかった……知っていたのは
とても漠然としていた存在だけ……。
もっと……思い出したかったのに……
できなかった……。だって、
思い出そうとするといつも、
『お前は死ぬ。』
怖い声が響いた。
鼓膜の裏を氷の針のように刺す、あの声。
以前、キャンパスで聞いたものと同じ――いや、もっと前から、何度も繰り返し響いていた声。
怖い思いしたくなかったから、
私は、あまり深く考えないように
なった……。
姉の記憶を辿ろうとするたび、その声が割り込んできて、私は考えることをやめてきた。
それがチップによる「防御反応」だったのだと、今ならわかる。
それでも――記憶の糸は、なおも続いていた。
もうすぐ、クリスマスだよ、
お姉ちゃん。
いつも、お祝いしていたわよね。
一度……ふふふ……
思い出しても笑っちゃうけど、
お父さんがいないイヴの夜、
お姉ちゃん……サンタの代わりに
なろうとして、
私が眠ってから、
枕元にプレゼントを
置いてくれたんだよね。
でも、その後で、
私の体を踏んづけて……、
ふふふ……おかしいわ。
お姉ちゃん、その後で、
『だって、明日美がまだサンタを
信じていると思っていたんだもん……
なんて言って。』
いくら、私でも
そんなことくらい、
分かっていますよーだ。
その時にもらった、
クマのぬいぐるみ……。
今でも、ずっと、
大切にしているわ。
お姉ちゃん……
お姉ちゃん……お姉ちゃん……
そこまで、記憶をさかのぼって、
私はある重大なことに気が付いた。
「・・・クマのぬいぐるみ……?」
「その時にもらった……?」
私はゆっくりとベッド脇の台に目をやる。
いつもそばに置いていた、小さなクマのぬいぐるみ。東京に出てくるときも、真っ先に荷物に入れた、大切なもの。
「そうだわ……このぬいぐるみは、
お姉ちゃんからもらった物だ。」
「決して、作られた記憶
なんかじゃないわ……」
あの柔らかい感触、少しほつれた耳、洗剤の匂い。
それは、データの中に書き込まれた「設定」なんかじゃない。確かに、私の手で抱きしめ、共に時間を過ごしてきた証だ。
――私は、誰かが作った記憶の器であると同時に、確かに「私自身」として積み重ねてきた時間も持っている。
その事実だけが、今の私を、ぎりぎりのところで支えていた。
けれど、だからこそ、このままここに寝かされているわけにはいかなかった。
このまま大人しくしていれば、「実験台」として処分されるだけだ。
ベルトのようなもので、
体はベッドに固定されている。
「このままでは、外に出られないわ……。」
私は、髪を留めていたピンに指を伸ばした。
ピンを抜き取ると、できるだけ音を立てないように、錠前の穴へと差し込む。
感覚だけを頼りに、ゆっくり、慎重に、内部をかき回す。
錠の穴をピンでかき回している
うちに、カシャンという音がした。
首尾よく、錠が開いたようだ。
「これで、外に出られるわ。」
「まだ、少し、頭がふらつくけど……。」
ベルトを外し、ベッドからそろそろと降りる。床に足をついた瞬間、視界がぐらりと揺れたが、なんとか踏みとどまった。
病室の扉を少しだけ開けて廊下をうかがう。幸い、誰もいない。
私は息を殺して廊下に出ると、非常階段を下り、病院の出口へ向かった。
大学病院前、冬期休暇中の
キャンパスは閑散としていて、
人気がまったく無い。
空気は冷たく、吐く息が白い。
見慣れたはずの構内が、今はまるで別世界のように感じられる。
「あれ……? あの人は?!」
視界の端を、見覚えのある背中が横切った。
「船橋さん……?
向こうに歩いていくわ……。」
少し離れた歩道を、一人の男性が早足で歩いていく。
背格好も、コートの色も、あの独特の雰囲気も――船橋さんに見えた。
「いったい、どうして
こんなところにいるんだろう?」
ここは帝都工大の構内だ。
彼が来る理由など、考えてみても思い当たらない。
「気になるわ……
でも、危険かもしれない……。」
昨日、地下で見た、血だまりの中に倒れていた船橋さんの姿が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
「あ、あれ……?
まだ、私、ぼけっと
しているみたい……。」
頭の奥がまだずきずきとして、足元もふらつく。
それでも目を凝らすと、さらにおかしなことに気づいた。
「二人……いる?」
「幻を見ているの……?」
私の視線の先には、
船橋が二人いるように見えた。
何かの相談をしているようだ。
同じ顔、同じ声色、同じ仕草。
それが並んで歩きながら、灰原とか佳織といった言葉が
とぎれとぎれに聞こえてくる……。
思考が追いつかない。
現実と幻覚の境目が、さっきからずっと曖昧なままだ。
「病室に戻ろう……。」
今あの人たちに関わるのは危険だ――
そう直感した。
「………。」
私は、踵を返して病院へと引き返した。
「これから……どうすれば
いいんだろう……。」
ベッドに戻り、再びシーツの上に身を投げ出す。
私は、どうにもやるせない
絶望感の中、
病室のベッドに倒れこんだ。
天井の白い光が滲んでいく。
考えようとすると、心が摩耗していくようだった。
何時の間にか……
うとうとと眠り込んでいた。




