12月22日(19)一ノ瀬の呼吸
暗闇の廊下で、一ノ瀬さんが低く言った。
「言っておかないといけないことがある。この研究室のことだ」
違和感が胸に刺さる。
私は彼のすぐ後ろにいるはずなのに、彼は“前”の誰かへ向けて話しかけている。
「……? え? 私はこっちにいるのよ。ちょっと待って! 今、誰に向かって話してるの?」
私の声を合図にしたかのように、
一ノ瀬さんがはじけるように振り向いた。
その瞬間――。
バシッ、と乾いた衝撃音。
手元の懐中電灯が床を転がり、円を描く光が壁と床を断片的に照らし、すぐに闇が飲み込んだ。
「だ、誰だ!?」
「しまった! 逃げろ!」
一ノ瀬さんの怒声が闇に弾けた。
私は突き飛ばされ、背中からよろめく。
胸に衝撃。肺から空気が奪われる。
「グッ……」
続けて、鈍い打撃音。
一ノ瀬さんの拳が、闇の中の“何か”に命中した音。
「来るな!!」
彼の怒鳴り声。
私の喉がひゅっと縮む。
四つん這いで手を伸ばし、冷たい金属――懐中電灯に触れたが、光は落ちている。
暗闇の奥から足音。
近い。胸の奥が跳ねる。
「……あ、あ、明日美……こっちだ、は、早く来い……」
掠れた声に身を投げる。
手探りの先に扉のノブ。
捻るより早く、一ノ瀬さんが背を強く押した。
二人で転がるように中へ入り、私は全身の力で扉を閉めた。
カチリ。
ただの金属音が、やけに大きく響いた。
外にはすぐそこに“何か”がいる気配。
壁一枚。その薄さが怖い。
一ノ瀬さんの呼吸が、隣で荒く震えていた。
生きている――今は、まだ。
「一ノ瀬さん!?」
「大丈夫だ……何ともない。俺は無事だ」
彼の声を聞いて、胸の底から力が抜ける。その言葉を、私はほとんど反射で信じてしまった。
「良かった、怪我をしてないんですね。私……一ノ瀬さんまで何かあったら、どうしようかと」
しかし、足元に“ぬるり”とした感触。
耳元で、ぴちゃ……と滴る音。
鉄の匂い――血だ。
「ちょっと、息が切れただけだ。運動不足なんでね」
苦しいはずなのに、冗談の形を残そうとしている声。
それが逆に胸に刺さる。
「……ごめんなさい。私のせいで……私がこの研究室に来なかったら、誰も傷つかずに――」
「君とは関係ない。そんなふうに思わないでくれ。君にそんなこと言われたら、俺たちがここまでした甲斐がないじゃないか。椎名さんも、柿崎さんも、誰もそんなこと思ってない」
真っ直ぐに届く言葉。
けれど、滴り落ちる音は止まらない。
とく、とく、と規則的に。
私は震える喉を抑えられなかった。
「……一ノ瀬さん、まさか、怪我を?」
沈黙。
呼吸だけが浅く擦れ、闇へほどけていく。
「どうして……どうして言ってくれなかったの。早く、手当てを――」
「何だか、かっこ悪くてね」
弱い笑い。
私はポケットをまさぐり、ハンカチと絆創膏の箱に触れた。
役には立たない――それでも、何かしていたい。
「大した傷……じゃない」
「わたし、外に出ます。戻って人を呼んできます」
「待ってくれ!」
「無理だ。外には、俺を刺した奴がいる。分からないのか?」
「でも、外に出なければ、一ノ瀬さんが!」
「俺は臆病者なんだ。こんなところで一人にされるなんて、耐えられない」
手首を強く掴まれる。
その熱と力だけで、彼がまだ生きようとしているのが分かる。
――選べ。
脳の奥で声がした。
外へ走るか。
ここに残るか。
私は残る方を選んだ。
「……分かりました。行きません。ここにいます」
「助かったよ。こんなところで一人にされちゃ、かなわない」
「嘘です」
私は静かに笑う。
「私が一人で外に出たら危ないから、わざと言ったんでしょう。……本当は、私を助けるために」
返事はない。
その沈黙が、すべてだった。
私は彼の手を包み、ハンカチで圧迫した。
掌に、生温かい粘りが広がる。
「早く手当てをすれば、間に合うかもしれない」
「もう少しだけ、待つんだ」
「一縷の望みがあるかもしれない。俺たちに味方がいて、外の状況が変化するかもしれない」
私は黙り、扉へ背を預けた。
外の気配は去らず、近づかず、揺れている。
数える。四つ吸い、六つ吐く。
心臓が少しずつ落ち着く。
「……自分の研究のこと、少しだけ話してもいいかな?」
「聞かせてください」
一ノ瀬さんは少し間を置き、語り出した。
「俺は、ヒトの『反応』を扱ってる。刺激に対する応答の、時間と強度の偏差――紙にすれば、ただのグラフだ。でも、地下で見たものは、グラフにならない。倫理委員会の帳尻や、教授たちの沈黙じゃ覆い隠せない現実だ」
私はうなずく。
闇でも、その動きは彼に伝わっている気がした。
「だからこそ、君に嘘をつきたくなかった。……でも、俺は逃げた。傍観を選んだ。最低だ」
「今、ここにいてくれる。それだけで、私は、助かってる」
遠くで金属の擦れる音。
息を飲むが、すぐに静かになる。
「……あと少しだ」
一ノ瀬さんはわざと明るい声を出した。
「外が動く。そのとき、行こう」
「はい」
私は彼の手を握り直す。
守られている感覚と、守りたい感覚が重なり、胸の奥で熱になった。
もし、彼に何かが起きたら?
それでも私は、手を離さなかった。
闇がどれだけ濃くても、二人でいる限り、ここはまだ底じゃない。
地下の実験室。
息の音と、遠くで水が落ちるような微かな響きだけが満ちていた。
「……さっき、少しだけ音が聞こえた」
一ノ瀬さんが壁にもたれ、乾いた唇を湿らせる。
「あの携帯の着信みたいな音……特定の波長だ。あれが知覚されると、連動して意識のスイッチが入る。マインドコントロールの応用……」
「そんな……」
「その研究を引き継いで、進めていたのは……俺だ」
胸の奥で何かが沈む。
闇の深さとは別の質の冷たさ。
「幼い頃から特定の環境で訓練させれば、意識の底に“従う回路”が育つ。宗教の強い信仰と同じだよ」
「特定の音や刺激が引き金になって、催眠状態に入る……さっき襲ってきたのも、多分それだ」
「じゃあ……彼も操られて……?」
「きっと、そうだ」
苦い声。
暗闇に滲む告白。
「……こうなるの、当たり前だ。自分の研究がどう使われているか、知らなかったなんて。そんな奴に、人の深層意識を語る資格はない」
「一ノ瀬さん、やめて。あなたは――」
否定の言葉を言い切る前に、
握った手のひらが冷えていくのを、指先で感じた。
「い、いいんだ。……このまま、傍にいて」
私は彼の肩に身を寄せた。
彼は昔話を語るように言った。
「この研究室に入るって決まった時、嬉しかった。空きが出たって急に言われて、夢みたいで……。俺、科学が好きだったから。子どもの頃、施設にいてさ。楽しい思い出なんてほとんど無かったけど……顕微鏡が一台だけ寄付されててね」
彼の言葉が細い光になって、暗闇をかすかに照らす。
「皆が外で遊ぶ間、押し入れに潜ってずっと覗いてた。そこは、俺だけの宇宙だった。ミクロの景色が無限に広がってた。……そこで、知ることの喜びを知った。いつか学者になろうって、ずっと夢見てた」
語るたび、体温が少しずつ抜けていく。
「夢が叶ったはずなのに……それで誰かを不幸にしてたなんて。……でも、君だけは、助けられて……よかった」
「やめて」
私は首を振る。
「私が頼らなければ、あなたは平穏に研究を続けられたのに」
最後の力で、彼は首を横に振った。
「ちが……うよ……
明日美……
もっと、早く……助けて、あげた……かった」
言葉が途切れた。
地下には血の匂いだけが残った。
手の中の重みが、静かに沈んでいく。
私は指を絡めたまま、しばらく動けなかった。
耳が静けさに慣れてしまうのが怖くなり、
私はそっと手を離した。
扉の向こうへ出なければならない。
震える足で立ち上がり、廊下へ歩き出した。




