12月18日(1)留守電だけの姉
姉からの連絡が途絶えたのは、九月の終わり頃だった。
三つ年上の姉は、小さいころから、私の世界の半分以上を占めていた。父は海外出張が多く、母は家のこととパートとで手いっぱいだったから、姉は家族であり、友だちであり、暗い部屋に最初に灯りをともしてくれる人だった。
東京の大学院に進学した姉からの最後の電話は、本当に他愛もないものだった。
研究が忙しいとか、新しく見つけた喫茶店のパスタがおいしかったとか、そんな話。受話器を置いたあと、私は「またね」と言った自分の声をすぐに忘れていた。
あれが最後の会話になるなんて、思いもしなかった。
その日を境に、姉からの電話はぴたりと来なくなった。
こちらからかけても、呼び出し音がむなしく続くだけ。机の上に置いたポケットベルも、沈黙したまま動かない。最初の一週間は、ただ「忙しいんだろう」と思っていた。二週間たって、不安が胸の底に沈殿し始めた。三週間目には、さすがにおかしいと感じた。
それでも、父も母も「大学院なんてそんなものよ」と取り合ってくれない。田舎町から東京までは遠く、簡単に様子を見に行ける距離ではない。電話の向こうに見えない都会を、私はただ想像するしかなかった。
十二月十八日。
私はひとり決めた。
――行くしかない。
姉の安否と、連絡が途絶えた理由を確かめるために、東京へ。
◇
特急列車の窓の外で、見慣れた街の色が少しずつ遠ざかっていく。田んぼの間を走る線路は工場地帯へと変わり、やがて灰色のビルが視界を埋めた。
膝の上には、姉から届いた一通の葉書がのっている。
表には、石造りの門柱を背景にした写真。冬晴れの空の下、コート姿の学生たちが笑っている。裏面には、ボールペンのインクが少しだけにじんだ文字で、短いメッセージが書かれていた。
『帝都工業大学の研究室、なんとか受かったよ。
ここからが本番だから、あんたも受験頑張りなさい』
端っこには、小さなサインのような走り書き。子どものころから見慣れた筆跡だ。
私はそのインクの線を指先でなぞった。
どうして、あの人は何も言わなくなってしまったのだろう。
車内放送が流れ、列車が減速を始める。東京駅に着くのだ。
私は制服の袖口を握りしめ、胸の奥で固まっていた不安を、ひとつひとつ言葉にしてみる。
――事故にあったのかもしれない。
――重大な病気で、入院しているのかもしれない。
――単に研究が忙しくて、連絡をする余裕がないだけなのかもしれない。
最後の可能性だけを、強く信じたかった。
◇
東京駅のホームに降り立つと、冷たい冬の風が頬を刺した。地方駅とは比べものにならない人の波が、放課後の校門みたいに途切れることなく押し寄せてくる。
改札へ向かう途中、壁際の公衆電話が目に入った。
差込口の縁は、何度もカードを出し入れされたせいで、少し銀色に擦り切れている。
私はポケットから財布を取り出し、その中に挟んでおいたテレホンカードをつまみ出した。まだ残り度数は十分ある。
受話器を取り、姉のアパートの番号を押す。
ピッ、ピッ、とボタンの音がして、続いて呼び出し音が耳に流れ込む。電子音のくり返しが、鼓動と少しずつずれていく。
何度目かのコールのあと、ガチャ、と音がしてから、テープのざらついたノイズが重なった。
『ただいま留守にしております。発信音のあとに、お名前とご用件を――』
ピーッ。
「……もしもし、上条明日美です」
自分の声が受話器を通って、どこか遠くへ吸い込まれていく。
「今、東京駅に着いたよ。これから、大学の研究室に行きます。それから、アパートにも行くから……」
ここまでは、用件としては充分なはずだ。
それでも、口は勝手に言葉を継いでいた。
「……あのね、いい加減にしてよ。心配してるんだから。いるなら、電話くらい出てよ。……じゃあ、またあとで」
最後の「またあとで」が、少し震えていた。
受話器を置くと、世界が一回り広がったような気がした。さっきまで狭い箱の中に閉じ込められていたみたいに。
私は胸の前で小さくこぶしを作る。
「……研究室に行こう」
帝都工業大学の、神子塚研究室。
姉の足跡は、まずそこへ続いているはずだ。
◇
地下鉄を乗り継ぎ、案内図を見ながら、私は帝都工業大学の最寄駅に辿り着いた。
地上に出ると、冬の薄い光の下に、灰色の校舎群が広がっていた。正門の脇には、葉書の写真で見たのと同じ石造りの門柱。そこに「帝都工業大学」と彫られている。
門をくぐると、キャンパスの通路には、厚手のジャンパーやコート姿の学生たちが行き交っていた。耳当てをした男子学生、手袋を外して自動販売機の前で小銭を探している学生、プリントを抱えた女子学生。
都会の大学だ。
少し圧倒されながらも、私は最初に目が合った女子学生に近づいた。髪をひとつに結び、手帳を抱えて歩いている。
「あの、すみません」
声をかけると、彼女は足を止めて振り向いた。
「はい?」
「神子塚研究室って、どこにあるかご存知ですか?」
その名を口にした瞬間、胸の奥が少し温かくなる。何度も心の中で繰り返してきた名前だ。
女子学生は、意外そうに瞬きをした。
「神子塚研究室? ああ……あそこね」
「やっぱり、あるんですね」
安堵がにじむ声に、彼女は少し微笑んだ。
「あることはあるんだけど……場所がちょっと分かりにくいの。ここにはなくて、キャンパスの外なのよ」
「外、ですか?」
「うん。うちの大学の附属みたいな扱いなんだけど、研究棟は完全に独立してて。学生も、先生の推薦がないと入れないって聞いたことがあるわ」
彼女は肩からかけた鞄の中をごそごそ探り、小さく折られたキャンパスマップを取り出した。通路脇のベンチに広げ、要所を指で示していく。
「この門を出て、二つ目の信号を右。住宅街を抜けると、大きな塀に囲まれた建物が見えるはず。それが神子塚研究室よ」
「ありがとうございます。助かりました」
私は学生手帳のメモ欄に簡単な略図を書き込みながら、ふと尋ねた。
「あの……神子塚研究室って、どんな所なんですか?」
「どんな所……ねえ」
彼女は少しだけ表情を曇らせ、それから言葉を選ぶように続けた。
「優秀な人たちが集まってるってイメージかな。うちでも有名よ。場所が独立してるし、研究の内容も難しくて、私なんかじゃとてもついていけないって」
「そうなんですね……」
胸の奥に、誇らしさがゆっくりと広がった。
――お姉ちゃん、そんなところで頑張っていたんだ。
同時に、少しだけ遠くに行ってしまった人を見送るような寂しさもあった。
「もしかして、入学希望?」
「いえ……。私の姉が、その神子塚研究室に通ってるんです」
「えっ、それはすごいじゃない。お姉さん、きっと大天才なんだわ」
彼女が感心したように口元を押さえるのを見て、私は思わず首を振った。
「そ、そんな……普通ですよ。ちょっと頑張り屋なだけで」
「頑張り屋さんが、一番すごいのよ」
そう言って笑う顔が、どこか姉を思い出させた。
胸が少し痛んだときだ。
――鼓膜の裏側に、冷たい何かが落ちてきた。
《そのことを考えると、お前は死ぬ。》
はっきりとした声だった。
男とも女ともつかない、低くも高くもない、ただ平坦なのに底冷えのする声。
「えっ……?」
私は思わず周囲を見回した。
通路を行き交う学生たちは、誰もこちらに注意を払っていない。目の前の女子学生も、きょとんとした顔で私を見ているだけだ。
「どうかした?」
「い、いえ……何でも……」
喉がひどく乾いていた。私は笑顔を作るのに少し時間がかかった。
「さっきは、ありがとうございました」
「ううん。気をつけてね。ああいう研究所は、出入りも厳しいみたいだから」
彼女は手を振って、雑踏の中へと消えていった。
残された私は、しばらくその場から動けなかった。
心臓の鼓動が、さっきまでよりも少しだけ速い。
――今のは、何?
幻聴。そう片付けてしまうには、あまりにも生々しい声だった。
私は胸のあたりを押さえ、深く息を吸い込む。
ここで立ちすくんでいても、何も変わらない。
道は分かった。門を出て、二つ目の信号を右。住宅街の先に、姉のいるはずの研究室がある。
足を踏み出そうとしたとき、さっきの声がもう一度、頭の奥でささやいた気がした。
《そのことを考えると、お前は死ぬ。》
冬の空気は凍るように冷たいのに、背筋を伝う汗だけが、やけに熱かった。




