12月22日(18)輪講室の幻影
一ノ瀬さんが扉の前に立ち、取っ手を押した。
「……どうやら、この扉は締まっているようだな」
金属の軋む短い音が、地下の静寂に吸い込まれていく。
私は懐中電灯を向ける。
錆びついたパネルと、見慣れない装置が扉に埋め込まれていた。
一ノ瀬さんは指先で触れ、眉を寄せる。
「カード式じゃないな。スロットが見当たらない。……完全に別のシステムだ」
金属の縁には文字が刻まれていたが、錆に沈んで判読できない。
「多分、何らかの認証装置だ。……だが、動作しているのかどうか」
その言葉に重なるように、装置の中心が淡く灯った。
低い駆動音が、空気の底からゆっくりと震え上がってくる。
一ノ瀬さんがわずかに身を引いた。
「……動いたな。どうやら稼働中らしい。だが??当たり前だが、俺では入れないようだ」
彼は私を振り返る。
「一応、君も試してみてくれないか」
喉がひきつった。
―怖い。
この扉を開けば、すべてが繋がってしまう気がした。
姉の失踪、奇妙な研究室、倒れた学生。
そして留守電に残された《5th Report》――。
胸の奥に冷たい何かが流れ込む。
「どうしたんだい?」
一ノ瀬さんの声に、かろうじて返す。
「ごめんなさい……なんか、急に怖くなって。でも、やってみるわ」
私は一歩前へ踏み出した。
震える指先を押さえ、装置の前に立つ。
懐中電灯の光が金属の表面を照らすが、反応はない。
「……動かない?」
一ノ瀬さんが装置を観察しながら言う。
「いや、認証中だ。……これはおそらく、音声認識だ。対象の声を解析している」
その瞬間、装置が細かく震え、合成音のような声を発した。
「上条明日美を、十秒以内に解放しなさい」
「さもなければ??《5th Report》を消去します」
「……消去?!」
一ノ瀬さんの表情が鋭く変わる。
「離れるんだ、明日美!」
反射的に私は後ずさった。
扉の奥で、警告音のような高音がかすかに響いている。
一ノ瀬さんは無言のまま装置を見つめ、苦い声でつぶやいた。
「……ダメだ。今の状態じゃ、どうにもならない。いったいどうすれば、この扉を開けられる……?」
彼の声だけが、静けさに沈んでいく。
埃と古い機械の熱の匂いが、廊下の奥にひそんでいた。
地下の空気は湿り、懐中電灯の輪だけが私たちを細い糸でつないでいた。
足音がコツ、コツと返ってくる。
ふと一ノ瀬さんが立ち止まり、私を見た。
「ずっと一人だった君を見ていた。君の孤独と苦境を分かっていた。……それなのに俺は、君に一切手を差し伸べなかった」
胸の奥がきゅっと縮む。
「一ノ瀬さん……」
「すまない、俺は逃げていたんだ。傍観してやり過ごすつもりだった卑怯者だ」
「そんなことはありません。私の方こそ、あなたを巻き込んでしまった」
「いや、巻き込まれたのは君の方だ。端末室での一件で、君が必死で嘘をついてないのが分かった。……でも俺は、君の味方をすることで研究室側と敵対するのが怖かった。最低だよ」
私は首を振る。
「でも、今来てくれました」
言葉にすると、喉の奥が熱くなった。
「怖かった。あなたが一緒じゃなかったら、こんな場所、私一人では来られなかった。夕暮れまで待ち合わせ場所でじっと待って、諦めかけて……それでも来てくれた。私はとてもうれしかった。あなたは卑怯者なんかじゃないです」
一ノ瀬さんは懐中電灯を少し下げ、表情を影の中に隠した。
「……元々はこの研究室のことだ。君は巻き込まれただけだ。俺たちは決着をつけなければならない。逃げてはいけないと思った。椎名さんや柿崎さん、先輩たちは怯えていたけど、逃げなかった。……今までのこと、言い訳はできない。でもこれからは違う。だから、何が起こっても君を守る。約束する」
「ありがとう」
声に出した瞬間、肩の力が抜けた。
孤独が積もる音を毎日聞いていた。
「帰りたい」と思っても、帰る場所はもうなかった。
その氷のような感覚が、いま少しずつ溶けていく。
「つらい思いをしたね。もう大丈夫だ。大丈夫だよ」
「はい……」
“守る” の一言が心の奥に落ち、静かな安心が満ちていく。
けれど同時に、不安も滲んだ。
もし彼に何かが起きたら?
「行こう、あと少しだ」
わざと明るい声が、地下に反響し、二人分の決意になった。
私はうなずき、懐中電灯の光の輪へと一歩踏み出す。
冷たい空気が足首にまとわりつく。
しかし、背中には確かな気配があった。
振り返らない。
前だけを見る。
ここから先で、必ず〈答え〉を見つけるために―。




