12月22日(17)地下室の三つの部屋
明け方の三時。
研究棟の窓はどれも真っ暗で、校内だけがひそやかに呼吸していた。
立入禁止の鉄扉の前で、一ノ瀬さんが低く囁く。
「さあ、カードを入れるんだ」
私は胸ポケットから教授のIDカードを取り出し、黒いスリットに差し込んだ。
——ピッ。
乾いた電子音のあと、内側で錠前が外れる手応えが伝わる。
押し出すと、扉は長い眠りから起こされたように鈍く開き、冷たい闇が口を開けた。
階段。光の届かない穴。
下へ、さらに下へ。
「俺が先に行く。懐中電灯がある」
手のひらサイズの灯りが細い橋のように闇を切り開く。
私はその輪から踏み外さないよう、一段ずつ足を運んだ。
段を降りるごとに、空気は層を変えるように冷たくなる。
夜の冷え方ではない。地中そのものの温度だ。
「ドアは……閉めておいた方がいいな」
「そうね。戻るときはカードで開けられるし」
一ノ瀬さんが上の扉をそっと戻す。
錠が噛み合う澄んだ音が、背中越しに聞こえた。
退路は理屈のうえではまだ残っている。
けれど音が消えた瞬間、世界から自分たちだけ切り離されたような感覚がした。
階段を下りきると、短い踊り場の先に、もう一枚の扉が現れた。
壁と同じ色に塗られているが、指先を滑らせると金属の冷たさが返ってくる。
「ここからが……本当の地下か」
一ノ瀬さんがノブを回す。
きぃ、と古い蝶番が鳴いた。
埃と冷気が混ざった空気が、こちら側へゆっくり流れ込んでくる。
その瞬間——。
「……待って。いま、上で……音がしなかった?」
思った以上に自分の声が響き、心臓が跳ねた。
一ノ瀬さんは眉をひそめ、懐中電灯を階段の上へ向ける。
何も動かない。何もいない。
聞こえたような気がしただけ、と言い聞かせるには、背筋のざわめきが生々しすぎた。
「気のせい……だろう。少なくとも、今は誰も降りてきていない」
「……うん。たぶん」
息を整え、私は冷たくなったカードの角を握り直す。
——進むしかない。
そう心の中で区切りをつけて、扉の内側へ足を踏み入れた。
***
地下の廊下は、湿り気を含んだ長いトンネルだった。
懐中電灯の輪の中で、コンクリートの壁が鈍く光る。
左右に等間隔で扉が並び、その向こうはすべて闇に沈んでいる。
「まずは、手前からだな」
一ノ瀬さんが囁く。
右側の一番近い扉のノブを回すと、意外なほどあっさり開いた。
◆
最初の部屋は、蔵書室のようだった。
壁一面に古い棚がしつらえてある。
本がぎっしり詰まっていたであろう場所には、今は灰をかぶったような色の背表紙が、まばらに残っているだけだった。
懐中電灯の光が滑っていくたび、文字は色を失った標本のように沈黙する。
「……片付けられた後だな。ここに何があったのかは、きれいさっぱり持ち去られてる」
一ノ瀬さんが指先で棚をなぞる。
粉になった埃がはらはらと落ち、乾いた紙の匂いが立ち上った。
ここには、もう何も残っていない——
誰かが意図的に、そういう状態にした部屋。
私は喉の奥の失望を飲み込み、部屋を出た。
◆
次の扉の前で、足が止まる。
紙垂の残骸のようなもの、塩の白い跡、結び目のゆるんだ注連縄……。
宗教的なものに詳しくなくても、それが「封印」の類であることは分かった。
「……お祓いの痕だな」
一ノ瀬さんの声が、少しだけ低くなる。
ノブを回すと、こちらの部屋は重い空気で満たされていた。
懐中電灯の輪が床を舐め、そして——止まる。
そこに「いた」。
干からびた女性の遺体。
ミイラのように肌が縮み、骨ばった手足は胸の前で固まっている。
ただひとつ、腹部だけが不自然に張り出していた。
喉に声が貼り付いたまま、出てこない。
——夢で見た女の人。
あの悪夢の中で、お腹を抱えてうずくまっていた影が、脳裏で重なった。
「……妊娠している」
一ノ瀬さんの声は、自分に言い聞かせるように乾いていた。
ここへ誰が、なぜ運び込み、なぜ閉じたのか。
教授と助教授しか入れない地下。
知りながら手出しできず、せめて封じるしかなかった——
そんな想像だけが、静かに胸を締めつける。
私は無意識のうちに、両手を組んでいた。
「……行きましょう」
自分の声とは思えないほどかすれた声で言い、部屋をそっと閉める。
注連縄が、頼りない線のまま、再び暗闇に溶け込んだ。
◆
廊下の突き当たりは、ひときわ大きな扉だった。
ノブを回すと、今度は鼻腔の奥が痛む匂いがいきなり押し寄せてきた。
「……ホルマリンだ」
一ノ瀬さんが短く言う。
懐中電灯の輪の中で、ガラス瓶がいくつも並んでいるのが見えた。
透明な液体の中で、小さな躯が浮かんでいる。
光が揺れるたび、影も揺れる。
それは一度もこの世に出なかった「子どもたち」の、凍りついた動きだった。
「ここで……何をしていたの……?」
ようやく絞り出した自分の声が、自分の耳に冷たく響く。
一ノ瀬さんは答えなかった。
ただ、奥の壁に設けられた黒い線——カードスロットに目を留めて立ち止まる。
「まだ先がある。……行くか?」
訊かれているはずなのに、選択肢はなかった。
私は震える指でカードを差し込む。
短い電子音。
重い錠が外れる感触。
扉の先は、さらに濃いホルマリンの匂いで満ちていた。
倒れたままの器具。
電源を落とされたままの記録装置。
天井から垂れたままの配線。
その合間に、やはりガラス瓶が並んでいる。
さっきよりも数は少ないが、その分ひとつひとつが「結果」として扱われているような重さをまとっていた。
「……ひどい」
漏れた言葉が、空虚な実験室に吸い込まれていく。
ここにあるすべてが、誰かの「論文」のための材料だった。
〈5th Report〉——その五番目の報告のために、どれほどの命が数字に置き換えられたのか。
一ノ瀬さんは唇を固く結び、「あとで話す」とだけ言った。
言葉にしてはいけないと、その目が告げている。
私は視線を瓶から逸らし、踵を返した。
***
地下の廊下に戻ると、さっきよりも闇が濃くなって感じられた。
蔵書室は空っぽ。
封じられた部屋には妊婦のミイラ。
実験室には、保存された赤ん坊たち。
——〈5th Report〉は、この連続のどこかにある。
カードはまだ冷たいまま、私の指の中にあった。
廊下は、さらに奥へと続いている。
けれど今日は、ここまでが限界だと本能が告げていた。
「突き当りの扉を開けてみようか」
一ノ瀬が近づこうとした瞬間、胸の奥で何かがざわついた。
「……ごめんなさい。この扉を開けると、何か、怖いことが起きる気がして……」
一ノ瀬さんは私を見つめ、静かに頷いた。
「……僕が前に行こう、必ず君を守るから…ね」
その声は落ち着いていて、とても優しかった。
次に開いた扉は、講義室——輪講室だった。
古い机と椅子が散乱し、蜘蛛の巣と埃で覆われている。
「昔はここで先生が学生を指導していたんだろうな」
「何年も使われてないのね」
「そうだな。少なくとも俺が入ってからは一度も見てない。四年は放置だ」
光に照らされた机の影が壁に伸び、揺れて歪んだ。
「こんな場所で研究なんかしてたら、生きた心地がしなかっただろうな」
冗談めいた声とは裏腹に、一ノ瀬さんの表情は冴えなかった。
---
そのとき、私は気づいた。
——前方の机と椅子だけが、妙に密集して積まれている。
「ねえ、一ノ瀬さん。あの机と椅子……動かしてみたらどう? 何か隠してるみたい」
「……言われてみれば、確かに不自然だな」
一ノ瀬さんが近づいた。
私は慌てて手を伸ばした。
「私も手伝う」
彼は首を振り、懐中電灯を私へ握らせる。
「いや、俺がやる。君は手元を照らしていてくれ」
うなずき、光を当てる。
机と椅子がひとつ、またひとつと動かされるたび、埃がふわりと舞い上がり、光の中で金粉のように踊った。
「……結構、骨が折れるな」
額に汗をにじませながら、彼は息を呑んだ。
「——っ! 君の勘が当たりだ。見てみろ」
埃の向こうに現れたのは、古い金属の扉。
机と椅子は、この扉を隠すために積まれていたのだ。
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一ノ瀬さんは取っ手に手をかけた。
「よし……開けるぞ」
「待って!」
反射的に声が出た。
「何か、怖いの……そこを開けてはいけない気がするの」
一ノ瀬さんは振り向き、静かに微笑むような目で言う。
「大丈夫だよ。怖かったら、ここで待っていてもいい」
胸の奥で、悪寒がざわめく。
この地下に入ってからずっと感じていた違和感が——
いま、この扉の前で最も強く脈打っていた。
——まるで、この扉が “私の運命そのもの” だと言われているみたいに。




