表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人形の傷跡  作者: Child-Dream
17/33

12月21日(16)一ノ瀬と夜の地下室へ


夕方、私はもう一度神子塚邸を訪ねた。

玄関の奥へ通されると、古い屋敷に染みついた匂いが胸の奥にまで流れ込んできた。

磨き込まれた床板、陽の当たらない壁に残った微かな温度。

婆やは私の顔をまじまじと見つめ、皺のあいだから懐かしさのような笑みをにじませた。


「明日美様……何か御用があって、参られたのでしょう? 婆やは何でも知っておりますよ。何でもおっしゃってくださいまし」


喉がひりつく。

逃げ道を探す言い訳は、もう意味をなさない。


「……論文を書こうと思っているんです。だから、研究室の——地下の実験室に入らないといけなくて」


一瞬、部屋の空気があたたかくほどけた。

婆やの表情は、季節がひとつ戻ったように柔らかく明るんだ。


「明日美様……なのですね。明日美お嬢様、やはり論文の続きをお書きになるのですね。うれしゅうございます……。お待ちくださいませ。いま取って参ります」


廊下に消える足音は驚くほど軽い。

間もなく、掌に乗るほどの薄いカードを両手で捧げ持って戻ってきた。


「これが、旦那様のIDカードでございます。旦那様は、もう決してこの屋敷には戻ってこられないとおっしゃいました。これはもう、明日美様がお持ちくださいませ」


差し出されたカードの冷たさが、掌に吸いつくように強く残った。

その感触だけで、鉄の扉の開く音が耳の奥に蘇る。


「……お預かりします」


嘘と後ろめたさと、真実に触れたい渇きが喉でぶつかる。

婆やは深く会釈し、私の手を包んだ。


「明日美様……あなたが論文を完成される日を、心からお待ち申し上げております」


私はただ頷くしかなかった。

カードの重みが、罪と答えの両方を同じ強さで抱えさせる。


外に出ると冬の光が庭石を白く照らしていた。

ポケットの中のカードの角がふれるたび、地下へ続く階段が遠くで呼吸するように思えた。


---


一階の廊下の途中で足が止まる。

そこだけ空気がわずかに重い。

壁と同化するように設えられた扉は、一見ただの設備用の扉に見える。

けれど近づくと——金属の芯が低く唸るような圧があった。


縁をなぞると、冷たさが皮膚に刺さる。

脇には黒いユニット。IDカードのスリット。


——ここだ。地下への入口。


カードの角が太ももに触れた瞬間、背筋に電流が走る。


差し込めば開く。

その確信と、恐怖が同じ速度で脳裏をかすめた。


「何をしているの?」


背後から声が落ち、心臓が跳ねた。

振り返ると、光の少ない廊下で佳織さんが目だけを澄ませていた。


「そこは立入禁止よ。部外者が入ろうとして見つかったら、大変なことになる」


「……ごめんなさい。ちょっと、気になって……」


佳織さんはしばらく表情を動かさないまま私を見つめ、それから音もなく去った。


扉には、再び静寂が戻った。

——今は無理。

——夜なら。


私は階段を下り、ポケットのカードを握り直す。

冷たさが決意に形を与えた。


一ノ瀬さんに知らせなければ。


---


彼のデスクに向かい、カードを示すと、一ノ瀬さんは周囲を見て声をひそめた。


「場所を移そう。ここはまずい。西側の花壇の奥——あそこなら人目がない。そこで話そう」


胸の奥の緊張が脈打つ。

カード、扉、夜——すべてが一直線に揃い始めている。


---


焼却炉を挟んだ研究棟の西側。

昼は植え込みの影になる細い通路も、夜には風の音だけが行き来する。


私はそこで待った。

靴底が砂利を噛むたび、誰かの視線が背を撫でるように思えた。

——見張られている。

そう感じても、退くことはできなかった。


七時を少し過ぎたころ、一ノ瀬さんが闇の中から姿を現した。


「昨日も、弓野くんと同じように、研究棟の外で夜更けを待ったの。

それから教授室に忍び込んで……」

私は切り出し、あの夜の流れをすべて説明した。

麻衣子さんを呼び出し、その隙に教授室へ忍び込んだこと。

そして見つけた“私自身”の履歴書。


「聞けば聞くほど、おかしな話だな。理解ができない」


「私だって同じ。でも“事実として並べる”ところから始めないと」


「履歴書の件、麻衣子さんに直接聞いたのか?」


「聞く前に——襲われたわ。包丁を持ってて、私に向かってきた。その瞬間、背後から銃声がして、彼女は崩れた」


「まさか」


「私も信じたくない。でも……見たの」


夜の空気が土の匂いを濃くする。


「君の言うことが全部嘘で、何も起きていない方が現実味はある……でも、あの履歴書は偽物には見えなかった。俺が入る前、同学年にいたはずの誰かの噂も、少し聞いたことがある」


一ノ瀬さんは周囲を見渡し、さらに声を落とした。


「地下は学生にも“絶対入るな”と通達されている。見つかったら即退学だ。扉はいつも閉まってる」


ポケットの中でカードの角を押し、私は言った。


「教授のIDカード、手に入れたわ」


一ノ瀬さんの視線が一度だけカードに落ちる。


「なら行ける。ただ……もう一つ。もし麻衣子さんが撃たれたなら、誰が引き金を?」


「わからない。弓野くんかもしれないって、一瞬だけ。でも拳銃なんて……」


「今日は来てないみたいだな」


それ以上は互いに踏み込まなかった。

言葉が増えれば濁る。

沈黙だけが夜の底を深くしていく。


——地下に入れば、分かる。


カードを握り直す。

冷たさが掌を切り、意識を鋭くさせる。


夜更けを待つ。

扉が開く瞬間を待つ。

すべては〈5th Report〉へ到達するために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ