12月21日(16)一ノ瀬と夜の地下室へ
夕方、私はもう一度神子塚邸を訪ねた。
玄関の奥へ通されると、古い屋敷に染みついた匂いが胸の奥にまで流れ込んできた。
磨き込まれた床板、陽の当たらない壁に残った微かな温度。
婆やは私の顔をまじまじと見つめ、皺のあいだから懐かしさのような笑みをにじませた。
「明日美様……何か御用があって、参られたのでしょう? 婆やは何でも知っておりますよ。何でもおっしゃってくださいまし」
喉がひりつく。
逃げ道を探す言い訳は、もう意味をなさない。
「……論文を書こうと思っているんです。だから、研究室の——地下の実験室に入らないといけなくて」
一瞬、部屋の空気があたたかくほどけた。
婆やの表情は、季節がひとつ戻ったように柔らかく明るんだ。
「明日美様……なのですね。明日美お嬢様、やはり論文の続きをお書きになるのですね。うれしゅうございます……。お待ちくださいませ。いま取って参ります」
廊下に消える足音は驚くほど軽い。
間もなく、掌に乗るほどの薄いカードを両手で捧げ持って戻ってきた。
「これが、旦那様のIDカードでございます。旦那様は、もう決してこの屋敷には戻ってこられないとおっしゃいました。これはもう、明日美様がお持ちくださいませ」
差し出されたカードの冷たさが、掌に吸いつくように強く残った。
その感触だけで、鉄の扉の開く音が耳の奥に蘇る。
「……お預かりします」
嘘と後ろめたさと、真実に触れたい渇きが喉でぶつかる。
婆やは深く会釈し、私の手を包んだ。
「明日美様……あなたが論文を完成される日を、心からお待ち申し上げております」
私はただ頷くしかなかった。
カードの重みが、罪と答えの両方を同じ強さで抱えさせる。
外に出ると冬の光が庭石を白く照らしていた。
ポケットの中のカードの角がふれるたび、地下へ続く階段が遠くで呼吸するように思えた。
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一階の廊下の途中で足が止まる。
そこだけ空気がわずかに重い。
壁と同化するように設えられた扉は、一見ただの設備用の扉に見える。
けれど近づくと——金属の芯が低く唸るような圧があった。
縁をなぞると、冷たさが皮膚に刺さる。
脇には黒いユニット。IDカードのスリット。
——ここだ。地下への入口。
カードの角が太ももに触れた瞬間、背筋に電流が走る。
差し込めば開く。
その確信と、恐怖が同じ速度で脳裏をかすめた。
「何をしているの?」
背後から声が落ち、心臓が跳ねた。
振り返ると、光の少ない廊下で佳織さんが目だけを澄ませていた。
「そこは立入禁止よ。部外者が入ろうとして見つかったら、大変なことになる」
「……ごめんなさい。ちょっと、気になって……」
佳織さんはしばらく表情を動かさないまま私を見つめ、それから音もなく去った。
扉には、再び静寂が戻った。
——今は無理。
——夜なら。
私は階段を下り、ポケットのカードを握り直す。
冷たさが決意に形を与えた。
一ノ瀬さんに知らせなければ。
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彼のデスクに向かい、カードを示すと、一ノ瀬さんは周囲を見て声をひそめた。
「場所を移そう。ここはまずい。西側の花壇の奥——あそこなら人目がない。そこで話そう」
胸の奥の緊張が脈打つ。
カード、扉、夜——すべてが一直線に揃い始めている。
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焼却炉を挟んだ研究棟の西側。
昼は植え込みの影になる細い通路も、夜には風の音だけが行き来する。
私はそこで待った。
靴底が砂利を噛むたび、誰かの視線が背を撫でるように思えた。
——見張られている。
そう感じても、退くことはできなかった。
七時を少し過ぎたころ、一ノ瀬さんが闇の中から姿を現した。
「昨日も、弓野くんと同じように、研究棟の外で夜更けを待ったの。
それから教授室に忍び込んで……」
私は切り出し、あの夜の流れをすべて説明した。
麻衣子さんを呼び出し、その隙に教授室へ忍び込んだこと。
そして見つけた“私自身”の履歴書。
「聞けば聞くほど、おかしな話だな。理解ができない」
「私だって同じ。でも“事実として並べる”ところから始めないと」
「履歴書の件、麻衣子さんに直接聞いたのか?」
「聞く前に——襲われたわ。包丁を持ってて、私に向かってきた。その瞬間、背後から銃声がして、彼女は崩れた」
「まさか」
「私も信じたくない。でも……見たの」
夜の空気が土の匂いを濃くする。
「君の言うことが全部嘘で、何も起きていない方が現実味はある……でも、あの履歴書は偽物には見えなかった。俺が入る前、同学年にいたはずの誰かの噂も、少し聞いたことがある」
一ノ瀬さんは周囲を見渡し、さらに声を落とした。
「地下は学生にも“絶対入るな”と通達されている。見つかったら即退学だ。扉はいつも閉まってる」
ポケットの中でカードの角を押し、私は言った。
「教授のIDカード、手に入れたわ」
一ノ瀬さんの視線が一度だけカードに落ちる。
「なら行ける。ただ……もう一つ。もし麻衣子さんが撃たれたなら、誰が引き金を?」
「わからない。弓野くんかもしれないって、一瞬だけ。でも拳銃なんて……」
「今日は来てないみたいだな」
それ以上は互いに踏み込まなかった。
言葉が増えれば濁る。
沈黙だけが夜の底を深くしていく。
——地下に入れば、分かる。
カードを握り直す。
冷たさが掌を切り、意識を鋭くさせる。
夜更けを待つ。
扉が開く瞬間を待つ。
すべては〈5th Report〉へ到達するために。




