12月21日(15)老婆と研究
本郷九丁目のいちばん奥。
履歴書に記されていた番地へ着くと、そこだけ時間から切り離されたような屋敷が静かに佇んでいた。
瓦は古び、黒く艶を失っているのに、庭木の刈り込みだけは几帳面に整えられている。
人が住んでいる気配と、長く空いていた家の匂いが、奇妙に同じ場所で呼吸していた。
門柱の表札には、くっきりと「神子塚」の文字。
胸の奥がじくりと熱くなる。
ここが、履歴書にあった“住所”。
偶然などではない。
インターホンを押す。
甲高い電子音が静寂を裂き、その直後に、年老いた女の声が返ってきた。
「どなた様でございましょうか……?」
喉がひくりと鳴る。
私は無難な言葉を選んだ。
「道を……少し、お伺いしたくて」
しかし、受話器の向こうで空気がざわついた。
「また……また来たのですね! 何度来ても同じことです!! どうかお引取りください!」
切り捨てるような叫び。
胸の奥の言い訳が、そこで完全に砕けた。
逃げるのはもうやめる。
私は呼吸を整え、再びボタンを押した。
「上条、明日美です」
わずかな間。
それから、震える声が落ちてきた。
「……今、明日美様と申されましたか?
明日美お嬢様……戻ってこられたのですか……?」
返事をうまく言葉にできず、私はただ静かに肯いた。
「ただ今、玄関をお開けいたします。どうぞお入りになって……」
重い錠が外れる音が、門の向こうから確かに響いた。
私はゆっくり門を押し、石畳の冷たさを足裏に感じながら屋敷の敷地へ踏み入れた。
玄関で出迎えたのは、背の曲がった、くたびれた外見の老婆だった。
けれど眼差しは鋭く、糸のように張り詰めている。
「教えてください……なぜ、私の名前を知っているんですか?」
「明日美様……」
老婆は、私の問いなど届かないふうに手を合わせた。「婆やは、ずっとお待ち申し上げておりましたよ。旦那様は大切な研究で、お国のためにお働きでございます」
(……お手伝いさん? でも、会話が噛み合ってない。記憶か現実か、どこかが混線している)
「私めは、あれ以来、何年も何年も待っておったのですよ。けれど明日美お嬢様は戻ってこられなかった。旦那様も……」
「……“あれ以来”?」
「明日美様、あなたは大切な修士論文をお書きになるんでした。
毎日毎日、地下の実験室に籠もって、研究にお励みで……どうか、よい論文をお書きくださいませ」
「論文……?」
思わず声が漏れる。「私が、論文を書いていた?」
「ええ。地下で」
老婆は蝋燭の炎みたいに揺れながら頷いた。「お懐かしゅうございます……ようやく、お戻りに」
私は言葉を失った。
質問を挟んでも、老婆は“今の私”を見ていない。
彼女の目には、ずっと前の“明日美お嬢様”だけが映っている。
そのとき、老婆の表情がふと崩れた。
遠くを見るように眼が泳ぎ、肩が震え出す。
「ああ……あのことさえなければ……」
同じ言葉を繰り返しながら、「ああ……あすみ……様……。旦那様……今日もお嘆きに……おいたわしや……」
湿った嗚咽が玄関の静けさに落ちていく。
私は一歩踏み出しかけて、足を止めた。
これ以上踏み込めば、戻れない領域が口を開ける気がした。
「……あの、また来ます」
私は静かに会釈して門の方へ下がった。
外気が頬に触れた瞬間、肺がようやく空気を取り戻す。
老婆の言葉を頭の中で並べ直す。
——明日美お嬢様
——旦那様は研究で不在
——私は地下の実験室に籠もり、修士論文を書いていた
留守電に残された「5th Report」。
レポートと論文。
地下という単語。
あまりに符号が多すぎる。
私は門扉を振り返った。
——あの屋敷は、必ずまた来ることになる。
研究室へ戻ると、私は一直線に一ノ瀬さんのデスクに向かった。
周囲の人の気配を確かめ、封筒から例の履歴書を取り出して差し出す。
「ちょっと、見てほしいんです」
一ノ瀬さんは無言で受け取り、じっと紙面を見つめた。
訝しむというより、研究テーマに出会ったときのような、純粋な興味の光。
「……もしこれが君の作り物じゃなくて、本当に教授室にあったなら、相当面白いね」
椅子を引き、顎で“座れ”と示す。
「入る前に聞いたことがある。俺と同学年になるはずだった学生がひとり欠けたって。
学年ごとに履歴書はまとめてある。
君が見た束のもう一枚は、本来そいつのもののはずだ。
なのに名前が——君になってる」
喉の奥が冷たくなる。
あの履歴書は、本来“誰の穴”に差し替えられていたのか。
「もしかしたら、その“元の学生”こそが『5th Report』を書いていた奴かもしれない」
「5th Report……知っているんですか?」
「断片だけ。直接じゃない。教授と事務長の会話を偶然聞いた。
地下に保存されてる“論文”がある、と。
『5th Report』って言葉も出た」
地下——。
神子塚邸の老婆が言った “地下の実験室”“修士論文” が、ここでひとつの線に変わる。
「地下へは、どうやって行くんですか」
「一階に頑丈な鉄扉があるだろ。あそこから下りられる。
ただ、扉を開けられるIDカードは限られてる。
神子塚教授か、灰原助教授」
「もし、そのIDカードを手に入れられたら……一緒に来てくれますか」
一ノ瀬さんは周囲を一瞥し、研究室のざわめきが他へ逸れているのを確認してから、小さく頷いた。
「分かった。約束する」
短いその一言で、胸の奥に残っていた凍りがほろりと溶けた。
鍵さえ手に入れられれば、地下へ行ける。
そこに『5th Report』がある。
私の空白の履歴も、椎名さんが命懸けで残した理由も——。
すべては、鉄扉の向こうに繋がっている。
私は席を立ち、次に誰へ接触すべきか、心の中で素早く並べ替えた。




