12月21日(14)なぜ生きている?
目を開けた瞬間、体の輪郭がずれるような違和感に襲われた。
ここはどこ——いや、姉のアパートの天井だ。
けれど、なぜ私はここにいるのだろう。
枕元のテレビのリモコンに手を伸ばし、反射的に電源を入れる。
画面の隅に浮かぶ「12月21日」。
昨日が20日で、今日は21日。当たり前の日時の連なりが、私の中だけ継ぎ目から外れていた。
昨日のことを思い出そうとすると、胃の奥がむかついた。
体が記憶を拒んでいる。
それでも逃げられない。順を追うしかない。
私は弓野くんにCD-Rを見せた。
あのメールのデータ——差出人は椎名さん。
胸がきゅっと縮む。屋上から落ちた彼の姿。踊り場に散った赤。
その色温度を、私は一生忘れない。
椎名さんは、私にだけ何かを伝えようとしていた。
姉のことも——きっと知っていた。
その手がかりを追って、私は夜の研究室へ忍び込んだ。
神子塚教授の机の底で見つけた封筒。
入学時の履歴書。
D1の束の中、もう一枚の履歴書——それは、私。
名前も、生年月日も、写真も。
「姉」は私自身だった。
思考がそこに触れた瞬間、心臓が跳ね、体が熱を持った。
教授室のドアが開いた。
香水の匂い。
麻衣子さん。
刃の閃き——そして、乾いた破裂音。
銃声。
床に崩れた白いブラウス。滲む赤。
景色が暗闇へ沈んだ。
……夢だったのかもしれない。
そう思いたくて、私は頬を叩き、首を振る。
床に散らばった荷物が視界に入る。
蹴飛ばした鞄の中から、CD-Rのケースが転がり出て光を返した。
あの光だけが、現実を否応なく連れ戻す。
落ち着け。
順に並べ直す。
もし後ろから麻衣子さんを撃った人がいるなら、誰?
そして私は、どうしてここにいる?
あのあと誰かが、私を運んだ——そうとしか思えない。
弓野くん?
彼なら、私を助けてくれてもおかしくない。
けれど、推測だけでは進めない。
まずは安全確認だ——。
玄関へ駆け、ドアノブをそっとひねる。
がちゃり、と確かな手応え。施錠されている。
ここはオートロックではない。
私が閉めた?
それとも、誰かが鍵を。
急いで鞄をひっくり返す。
内ポケットの奥、指先に金属の冷たさが触れた。
……あった。私の鍵。
手元にある。
なのに玄関は鍵が掛かっていた。
胸の内側で、二つの推理がゆっくり形を取る。
——私をここへ運んだ人間が、まだ部屋の中にいる。
——あるいは、鍵を持つ“もう一人”、姉が来て、私を寝かせ、鍵を掛けて出ていった。
「お姉ちゃん……」
唇の内側で小さくつぶやく。
ここは姉の部屋。あり得ない話ではない。
しかし、もう一つの可能性が喉に刺さったままだ。
確認しなければ、前へ進めない。
息を詰め、足音を殺してバスルームの前へ立つ。
ノブを掴む指先に汗が滲む。
ゆっくり押し開ける。
白いタイル。鏡。静止した空気。
何も——いない。
肺から空気が抜け、肩が落ちる。
無理やり理由をつくる。
——多分、寝ぼけて自分で鍵を掛けたんだ。
散らばった荷物を手早く集め、外套の襟を立てる。
現実は、ひとつずつ確かめればいい。
私は出発の支度を整え、ドアチェーンに触れた指先を握り直した。
本郷八丁目の外れから九丁目へ向かう道は、歩くほどに色を失っていった。
商店の看板が途切れ、風だけが角をまがってくる。
履歴書に記された住所——「本郷九丁目五の二」。
頭の中で何度も反芻しながら、私は歩調を崩さずに進む。
交番の前で巡回中の警官に尋ねた。
「すみません、本郷九丁目って、この先で合っていますか?」
警官は私のいる方向を見て、首を横に振った。
「九丁目なら、こっちじゃないよ。駅とは反対の大通りをずっと行って、左に折れた先だよ」
そして思い出したように言った。
「今日は帝都工大で学会があってね。一般の立ち入りは禁止。元文部大臣の阿久田要蔵さんも来てるらしい。お偉いさんが揃ってるから、うちの巡査もほとんどそっちに回ってる。道が静かなのはそのせいだよ」
礼を言い、私は示された方角へ歩き出す。
舗道の継ぎ目が増え、アスファルトの傷が古い地図のようにひび割れていく。
九丁目へ入るころには本当に家が消え、塀だけが残り、風が空き地を鳴らしていた。
通りすがりの年配の男性に道を確かめる。
「すみません、九丁目の五の二って……」
「五番地ねぇ……あそこはもう、すっかり寂れてて、家なんてほとんど残っちゃいないよ」
男の人は顎で奥を指した。
「おや、その番号なら——奥にぽつんと一軒、古いお屋敷がある。たぶん、そこだ。そういえば、この前も誰かが尋ねていったっけな」
「奥のお屋敷……ありがとうございます」
“前にも誰か”。
胸の奥でその言葉が引っかかった。
誰?
いつ?
私の知っている人だろうか。
答えは——この先にある。
私は息を整え、道の奥へ目を凝らした。
ひっそりと、しかし確かに、輪郭を浮かべる古い屋敷。
そこに、何かが待っている。




