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人形の傷跡  作者: Child-Dream
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12月20日(13)衝撃の「履歴書」〜教授室襲撃


 残り時間はわずかだった。

 教授室の扉を静かに閉め、私は部屋全体を一度に見渡した。壁際の書棚、古い帽子がかけられたハンガー、重厚な机。どこから手をつけるか迷う暇はない。まず机だ。


 引き出しは三つ。

 上段——文房具。几帳面に整えられたテープや替芯、付箋が紙の匂いだけを残す。

 中段——同じ。時間だけが削られていく。


 最下段は鍵がかかっていた。冷たい金具を指でなぞる。無理にこじ開ければ音が響く。鍵を探すしかない。


 机の側面へ指を滑らせた瞬間、ざらついた傷に触れた。ナイフで無理に刻んだような、生々しい線。

 読み取った途端、胃の奥がつき上がる。


 ——あすみ。


 どうして、ここに私の名前が。

 線には勢いと乱れが混じり、憎しみとも悲しみともつかない感情だけが木目に刺さっていた。胸がざわついたまま、私は書棚へ移る。


 一冊ずつ引き抜き、ぱらぱらと捲る。

 二段目まで空振り。三段目の端で、指が小さなくぼみに触れた。

 専門書の裏表紙に隠されるように、小さな鍵が貼りついていた。


 掌に乗せると驚くほど軽い。

 机の引き出しの鍵に間違いない。


 最下段へ戻り、そっと差し込み、息を止めて回す。


 ——ガチャリ。


 錠のほどける音が手首から肩へと伝わる。

 同時に、廊下の空気が微かに揺れた気がして、私は反射的に肩をすくめた。古びた帽子が風に揺れているように見えた。


 私は取っ手を握り、音を殺して引き出した。


 中には、書類が詰め込まれていた。

 上から順に捲り、戻し、また捲る。どれも重要そうだが、姉に繋がるものはない。焦りが背中を湿らせたころ、指先が天井側の違和感に触れた。


 引き出し内側の天板に、封筒がテープで貼りつけられていた。


 慎重にはがす。

 封はまだ閉じられたまま。表には達筆な字で書かれている。


 「大学院生履歴書(入学時提出のもの)」


 喉が鳴った。

 姉が本当に在籍していたなら、ここにあるはずだ。

 目の前の封筒は、隠し場所としては目立たず、しかし確かに“残す意思”を感じさせた。


 封を切り、履歴書を一枚ずつ確かめていく。

 見覚えのない顔、見知らぬ名前。

 だが奇妙な共通点があった。


 ——家族欄が、すべて空白。


 理由を考えそうになる自分を抑え、ページを送る。

 椎名。まだ幼さを残した入学時の笑顔が胸を締めつける。

 柿崎。順番は合っている。


 次はD1。姉の学年——。


 紙をめくる指が震えた。

 もし、ここにも姉がいなかったら。


 弓野の声がよみがえる。

 「うちには、そんな人いないよ」

 「お姉さん、名前なんだっけ?」


 皆が同じ嘘をついている。

 私をだますために。


 そんなはずはない。姉はいる。必ずいる。

 この履歴書が証明する。突きつければ、誰も否定できない。


 私は意を決し、次の一枚をめくった。


 ——そこにあったのは、一ノ瀬の履歴書だった。


 想定内。

 だが、その裏にクリップで一枚、別の履歴書が挟まれているのが目に入った。

 同じ学年にもう一人。ここだ。姉のはず。


 息を呑み、紙をめくる。


 「上条 明日美 197X年12月24日生まれ」


 私の名前。

 私の生年月日。

 写真に映っていたのは——私自身だった。


 胸の奥で、何かが静かに、しかし決定的に破れた。


 ここにあるべき“お姉ちゃん”が、私。

 意味が分からない。

 誰かが仕組んだ? 私が嘘をついてきた?

 世界が半歩ずれて見える。


 紙が指から滑り、かさりと鳴った。視界の端が揺れる。


 「弓野くん……」

 心のどこかで名前を呼んだ。

 「麻衣子さん……教えて……」


 夜の研究棟に、硬い踵の音が落ちた。

 カツーン、カツーン。廊下の向こうから近づいてくる。


 心臓が跳ねる。待つ間すら呼吸ができない。

 足音がドアの向こうで止まり、ノブが軋む。


 扉が静かに開いた。


 冷たい空気と共に、淡い香水の匂いが流れ込んだ。

 入ってきたのは麻衣子さんだった。


 細い手首に光ったものを見た瞬間、思考より先に体がのけぞった。

 光沢を帯びた金属——刃。


 椅子を蹴り、後方へ身を引く。

 机の上の紙束が舞い上がり、私の証明写真や生年月日が空中で散る。


 刃が一直線にこちらへ走る。冷たい線が頬を掠め、痛みが遅れて浮かび上がる。

 世界が狭まり、金属の軌跡だけが妙に鮮やかに残った瞬間——


 金属がはじけるような鋭い音が、室内の空気を切り裂いた。


 銃声としか思えない音だった。


 錯覚ではなかった。


 麻衣子さんの肩が跳ね、体が後方へ傾いた。刃が床に跳ねて転がる。


 硝煙のような匂いが、わずかに鼻先をかすめる。

 誰が、どこから撃ったのか。

 思考は霧散し、戻らない。


 私は机を支えに立ち上がる。

 足が震え、視界が白む。


 麻衣子さんは仰向けに崩れ、白いブラウスに赤が滲む。

 唇がかすかに震え、言葉の欠片がほどけかけては消える。


「どうして……」


 声にならない声が喉を滑り落ちる。


 足元には、私の履歴書が裏返って落ちていた。

 笑っている。何も知らない私が。


 ——お姉ちゃんは、私。


 その事実だけが、遅れて胸の中央に落ち、重く沈む。


 廊下の向こうで複数の靴音が交差した。

 重い靴と軽い靴。その混じり方に聞き覚えがある気がした。


 私は封筒を抱き、肩で息をした。

 撃針のように一定の間隔で心臓が内側を叩く。


 麻衣子さんの指が、私の袖口をつまんだ。

 弱々しく、それでも確かな意志。


 唇が形だけを作った。


 ——「待って」。


 私は息を呑み、身体が先に動いた。

 ドアの陰、暗い廊下、非常灯の緑。

 靴音の気配とは逆方向へ、封筒を抱えて走る。


 一枚の紙が背後で舞い、床に貼りついた。

 私の顔が、こちらを見ていた。


 知らない私。

 知りたくない私。

 けれど——知るしかない。


 背後で誰かが部屋に飛び込んだ。

 短い指示、金属の装填音、無線のざらつき。


 私は階段へ飛び込み、金属の手すりを掴んだ。

 冷たさが掌の汗を奪う。


 ——お姉ちゃんは、私。


 踊り場の窓に映ったのは、私自身の顔だった。

 息が白く、ガラスにかすかな花を描く。


 消える前に、私は小さく自分の名を呟いて、階段を駆け降りた。



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