12月20日(12)焼却炉の協力者
焼却炉のある裏手へ回り込むと、灰色の箱の影から小さな鳴き声がした。
振り返ると、煤で少し黒くなった白い子猫がこちらを見上げている。体を小さく震わせていて、お腹がすいているのがすぐ分かった。
「わあ……かわいい……」
思わず声が漏れる。
飼い主がいるのかすら分からないが、今日はあたりに誰の姿もない。
屋外水道の脇に浅い皿が置かれているのを見つけ、私はコンビニの小さな牛乳パックを開けて注いだ。
「ちょっと待っててね」
子猫はすぐに駆け寄り、ためらいのない舌の動きで牛乳を舐める。
小刻みに揺れる白い背中を撫でると、胸のあたりが少し軽くなる気がした。
そのとき、視界の端を人影がよぎった。
弓野くん——修士一年。こちらを気にしている様子だが、近づくべきか迷っているようだった。
私は焼却炉から少し離れた陰に移動し、他の人には聞こえない距離を取った。
「椎名さんのメール、読んだの」
胸ポケットのCD-Rを示すかわりに、内容を静かに口頭で伝える。
> 姉には、これ以上、関わるな。
> そんな人は、いないんだ。
> 研究室の人間に聞いてはならない。
> この研究室は、特殊な研究室だ。
> 君と、君の姉は、それに巻き込まれた。
弓野くんは一文ごとに意味を確認するように、ゆっくり口元を動かした。
「『姉には関わるな』は……お姉さんが“いる”とも“いない”とも取れるよね。次の『そんな人はいない』は完全否定。なのに『研究室の人間に聞くな』って続く……矛盾してるようで、どこか含みがある」
私はうなずきつつ、彼が触れなかった箇所に言及した。
「『この研究室は特殊だ』……どう思う?」
弓野くんは一瞬だけ私の顔を見、それから周囲に視線をそらした。
風のわずかな音にも耳を澄ましているような、緊張の気配。
「……僕は今年入ったばかりだから、詳しいことは分からないよ」
言葉は丁寧だが、どこか硬い。
私が“研究を盗みに来た”と思っているのかもしれない。
けれど、彼はそれ以上踏み込んではこなかった。
「疑ってるわけじゃない。ただ、分からないことが多すぎて」
「でも、嘘をついてる人はいる」
自分でも驚くほどはっきりした声が出た。「今日、何度も“そんな人はいない”って言われた。椎名さんのメールを見て、確信した。古くからいる人ほど……何かを隠してる」
沈黙が落ちた。
焼却炉の内部で、金属が冷えて縮むようなカン、と小さな音がする。
「もし過去にお姉さんが本当に所属してたなら、どこかに足跡が残ってるはずだよね」
「でも事務室でも教授室でも聞いたんだよね?」
「ええ。だから——夜に忍び込みたいの」
言ってから、自分の声が静かすぎて驚いた。
恐れよりも、先に進まなければという焦りが勝っていた。
「一度帰ったふりをして敷地の外で待つ。人がいなくなったら、事務室や教授室を調べる。学生用IDも鍵も必要だけど……今日は事件で、まだ誰か残ってる可能性が高い」
現実的には無理が多い計画だ。
それでも言い切ると、弓野くんは少し唇を噛み、それから顔を上げた。
「僕も協力するよ」
胸の奥の強ばりがすっとほどける。
「もし事務室に人がいたら、僕が用事を作って呼び出す。君はその隙に調べて。……一時間くらいなら、なんとか稼いでみる」
「弓野くん……」
名前を呼ぶと、彼は気恥ずかしそうに笑った。
「一時間で足りる?」
「足りなくても、やるしかない」
夕方の風が、牛乳の甘い匂いと、焼却炉から立つ焦げた匂いを混ぜて運ぶ。
子猫は皿のそばで丸まり、眠りかけていた。
私はポケットのCD-Rを指先で確かめる。
——夜までに準備できることを全部やる。
ここから先は、私の番だ。
夕刻。弓野くんは事務室と教授室の前をそれとなく歩いて、人の気配を探ってくれた。
事務室には事務長。
教授室には水越麻衣子さんがまだ残っているらしい。
私は事務室を先に当たることにした。
弓野くんが「警察が追加で事情聴取したいそうです」と事務長を呼び出す段取りをつけ、
「外へ出た瞬間に中へ。僕のIDカード、今だけ貸すから」と小声で言った。
数分後、入口の扉が開き、早足の靴音が階段を下っていく。
今だ。
私は彼のIDカードを読み取り機にかざした。
短い解錠音が、夜の静寂に響く。
喉が渇いて、唾を飲む音が自分でもはっきり聞こえた。
廊下は静かだった。
ドアノブをそっと押すと、抵抗もなく開いた。
私は影のように滑り込み、深呼吸を一度だけして、机へ向かった。
残された時間は多くない。
胸の鼓動が秒針のように跳ね、私は事務長の机の引き出しに手を伸ばす。
紙が擦れる乾いた音。
奥に、質の違う紙が一枚だけ混ざっていた。
慎重に取り出す。
そこには短い文章が打ち出されていた。
——「例の娘の背後で糸を引いている存在が確認できるまで、娘は泳がせておけ。
ただし、表面化せずに処理できる機会があれば、こちらで始末しておく。」
息が詰まる。
“娘”——私。
背筋が冷たくなり、内臓のどこかが固く縮む。
急いで次の書類ケースを開ける。
丸められた紙がひとつだけ、ほかと違う質感で挟まっていた。
——「本年度は、12月19日を以って冬期休暇を認める。
一般職員は、19日以降はいかなる事情であっても、出勤をしてはならない。」
いかなる事情であっても。
建物が“空白の箱”のように静まり返っていた理由が、ここにある。
喉の奥がひりつく。
私は残りの棚や花瓶の中まで探したが、何も見つからなかった。
時間をかけすぎている。
鼓動が急かすように跳ねる。
紙二枚を胸ポケットへ滑り込ませ、机の天板に触れた指紋を拭き取る。
足音を立てないようにドアへ向かった。
まだ終わりじゃない。
絶対に、諦めない。
私は静かに事務室を後にした。




