12月20日(11)屋上の思惑
屋上へ続く階段は、廊下のいちばん奥でひっそりと口を開けていた。
滅多に使われないのだろう。踏面には薄く埃が積もり、靴先で払うと細い筋が残る。
一段ずつ上るたび、空気は次第に乾き、冷たさを帯びていく。
途中で、埃に刻まれた足跡が目に入った。大小ふたつ。
ひとつは見覚えのある、大きな歩幅。椎名さんのものだ。
もうひとつは、華奢で小さい。埃をほとんど踏み抜いていて、ついたばかりなのが分かる。誰のだろう。胸の奥がざわつく。
階段の突き当たりには、鉄の扉。両手で押すと軋むような音を立て、わずかに開いた隙間から乾いた風が吹き込んだ。
曇った白い空が広がり、冬の匂いが頬を刺す。
外は殺風景だった。四角い貯水槽、無造作に伸びた配管、思ったよりも低いフェンス。
屋上の端まで歩み寄り、空を仰ぐ。
——どうして椎名さんは、ここへ。
「誰かに呼び出された……?」
声にした途端、自分の足がすくんだ。
もし背中を押されたら、落ちるのは一瞬だ。
そのとき、わずかな気配が走った。
風とは違う、何か柔らかな動き。
私は息を潜め、貯水槽の影へ身を寄せた。死角になっている。
誰かが隠れたのだとしたら、今この影の延長にいるはずだ。
「……誰か、いるの?」
縁を回り込むと、そこに人影があった。
「明日美さん……ですか?」
麻衣子さんだった。白いブラウスの袖が風に揺れている。
「こんなところで、何をしているのです?」
私だって、研究室から見れば不審者だ。
だが、彼女がここにいる理由もすぐには思いつかない。
私が来た音に驚き、慌てて隠れたように見えた。
「すみません。椎名さんが……どうして飛び降りたのか、調べようと思って」
声が震える。「信じられなかったんです。いつも親切にしてくれた人が、急に……」
麻衣子さんは黙ったまま、じっと私を見つめた。
その視線の奥に、警戒と疑念が交互に揺れる。
カツーン、カツーン。
ヒールの硬い音が階段を上ってくる。
二人で振り向くと、佳織さんがドアの隙間から姿を現した。
「……あら、珍しいわね。こんなところで、何をしているの?」
涼しい声だった。
「佳織さんこそ……どうしてここに?」
麻衣子さんの声は、わずかに硬い。
「誰もいないはずの屋上で、話し声がしたから」
短く答えると、佳織さんは私へ視線を向け、麻衣子さんとは目を合わせなかった。
「ふーん……そう。こんな上まで来るなんて、あなたには珍しいことですね」
空気が一段、きしむように変わった。
二人の間に、見えない刃のような緊張が走る。
「あ、あの……」
割って入ろうとした私の声は、風に溶けて続かなかった。
「……あなたも、気をつけることね」
佳織さんは顎で出口を示した。
「もう戻りなさい」
「は、はい……」
その言葉の向こうに、何かを監視する目があるような気がした。
背中を押されるような圧力に耐えながら、私は貯水槽の影を離れ、低いフェンスから距離を置いて扉へ向かった。
振り返れば、曇天の下で二人は互いに距離を保ったまま立っている。
私は軋む扉を引き、階段の薄暗がりへ身を滑り込ませた。
胸の奥で何かが、ゆっくりと冷えて固まっていく。
「必ず、確かめる。椎名さんに何が起きたのかを」
それは、私が背負ってしまった責任のように思えた。
階段を降りきった踊り場に、微かな気配が残っていた。
端末室の扉が、いま閉まったばかりのように揺れている。
廊下をそっと覗く。
鉄製の扉の横を、人影が滑るように通り、中へ消えた——気がした。
私は息を殺し、端末室のドアを押した。
蛍光灯の白だけが待っていた。
誰もいない。椅子は整然と机の下に収まり、モニターにはログイン画面。
「おかしいな……さっき、誰かが入るのを見た気がしたのに」
椅子に腰を下ろし、端末を起動する。
見覚えのない管理画面を抜け、私のメールアカウントへアクセスしようとした——その瞬間。
「消えてる……? 私のアカウントが、消されてる……!」
胸の奥で、鈍い鐘が鳴った。
椎名さんが送ってくれたメール。
それが“消された”。
つまり——誰かが見つけたということだ。
「おい、何をやっていた?」
背後で声が弾けた。
振り返ると、一ノ瀬さんが立っていた。
「部外者が端末を使うことはできない。どういうつもりだ?」
「わ、わたしは……」
言いかけた言葉は喉でつかえた。
その一瞬を見逃さず、一ノ瀬さんの視線がモニターへ滑る。
「……椎名さんが、新しいアカウントを作った形跡がある。だが、先ほど消されている。これはどういうことだ? 消したのは君か」
「違います。わたしが読もうとした時には、もう……」
「『読もうとした』、か。やはり、椎名さんとやり取りしていたんだな」
胸が締めつけられる。
肯定しても否定しても嘘になる。
「君は何者なんだ? 椎名さんと君がやり取りをして、そして彼は飛び降りた。原因は君ではないのか。君は何をしに、研究室へ来た?」
沈黙が室内の温度をひとつ下げた。
「一ノ瀬さん、さすがに」
柔らかい声が割って入る。
ドアのところに船橋さんが立っていた。
「来たばかりの部外者の方に、そこまで言うことはないでしょう」
「……船橋?」
「それとも、あなたが何かご存知なのですか?」
「馬鹿なことを言うな! 部外者が怪しいのは当然だ」
「そこまで言わなくてもいいでしょう」
船橋さんは淡々としていた。「あなたこそ何かを調べているようですね。椎名さんに代わるサーバの管理者は僕になりました。……調べるなら、僕を通してください」
短い舌打ち。
一ノ瀬さんの顎が硬くなる。
「……君が来てから悪いことが起きている」
「だが、短絡的に結びつけるほど、俺は単純じゃない。どう考えても怪しいのは君のほうだ。君の言う『姉』が本当にいるのなら、俺が知らないのはおかしい」
私は唇を噛んだ。
喉の奥で言葉が崩れ落ちる。
「自分でも、もう分かっているはずだ。必ず、正体を突き止めてやるからな」
ドアが閉まり、蛍光灯の唸りだけが戻った。
「僕は別に……誰の味方もしていませんよ」
船橋さんは椅子の背に指をかけたまま言う。
「サーバを直しに来ただけです」
それ以上は続けず、キーボードへ視線を戻した。
私は静かに立ち上がる。
廊下の空気は冷たく、足音が長く尾を引いた。
消されたアカウント。
断ち切られた手がかり。
でも、真実の端は——この建物のどこかに必ず残っている。
拳を握り、次に向かうべき場所を探した。




