12月20日(10)第二の事件
12月20日、薄闇の早朝。最低限の身支度だけを整え、私は外に出た。
胸のざわめきが消えない。昨夜の夢のなかで、椎名さんの沈黙がずっと私の行く先を握っていたような気がする。
銀杏並木の上空では、黒い影が渦を巻いていた。鴉の鳴き声が低く響き、まだ日が昇りきらない研究棟を縁取る。
ただの不吉、では片づけられない気配があった。
研究室に入ると、椎名さんは机に向かっていた。
その姿を見た瞬間、胸がほっと緩む。
「今、忙しいんだ……後にしてくれないか」
穏やかな声。
だが、返事を待たずにもう一度呼びかけると、彼はまったく同じ角度で、同じ調子で、同じ言葉を繰り返した。
「今、忙しいんだ……後にしてくれないか」
ゆっくり。寸分違わぬ動き。
おかしい。
私は区画に入り、そっと肩に触れようと手を伸ばす。
その瞬間、掌が空気のように沈んだ。
——すり抜けた。
叫び声が喉からこぼれる。
一ノ瀬さんが駆け寄り、私の腕と椅子の位置を見比べた。
「……椎名さんの研究だ。三次元ホログラフィーだよ」
声が終わるより早く、空気が裂ける音が落ちてきた。
風を切る重い落下音。
続いて——ぐしゃ、と濁った音。
窓ガラスが花のように赤く染まる。
二階の踊り場。人の形をかろうじて保ったまま、折れた躯体が横たわっていた。
椎名さんだった。
「し……椎名さん……!」
一ノ瀬さんが壁に手をついて後退する。
研究室が一瞬、気温ごと凍りつく。
机の横では、まだ淡い光をまとった像が同じ言葉を繰り返している。
「今、忙しいんだ……後にしてくれないか」
ホログラムは、彼の不在を覆い隠すために置かれていた。
非常階段の指示。昨夜のメール。落ちた体。
その全部が、嫌なかたちで繋がった。
談話室に移動すると、空気は淀んでいた。
避難所としての場所なのに、誰の声も落ち着かない。
コーヒーの匂いだけが薄く漂う。
「いったい……なぜ……椎名さんが自殺を?」
弓野くんの声は揺れていた。
一ノ瀬さんが、どこか宥めるような声で言う。
「研究で行き詰まっていたのかもしれない」
けれど弓野くんは続けた。
「ここ数日、様子がいつもと違った」
——数日。
12月18日。
私が初めて研究室を訪れた日から。
胸がきゅっと縮む。
「自殺なのですか?」
船橋さんの問いに、事務長の声が棘を含んで跳ねた。
「何を言っているんですか! 自殺でなければ一体何だというのです!」
空気がひとつ、きしむ。
佳織さんが静かに言った。
「……それにしても、どうして直前にホログラムを? 研究の産物だとしても、わざわざ喋る仕掛けを置いて自分の不在を隠す必要があったのかしら」
誰も答えなかった。
湯飲みが棚の中で触れ合う音だけが、小さく響いた。
「ご家族には?」
一ノ瀬さんが淡々と言う。
「いないよ。両親も兄弟も。連絡する親族はいない」
それは当然のように聞こえたが、私は思わず顔を上げてしまう。
佳織さんの一言が、さらに空気を変えた。
「ここ、そういう人、多いですよね」
一瞬の静止。
誰かが踏んではいけない線を踏んだような、微妙な沈黙が走る。
家族のいない研究室。
偶然にしては、整いすぎている。
警察の到着で解散になり、私が立ち上がろうとしたとき、一ノ瀬さんが私を見た。
「君はいったい何者なんだ。姉を探してると言ってこの研究室を嗅ぎ回っているけど、他の目的があるのか?」
事務長の冷たい声が重なる。
「ここにいない人物を、いると言い張られては困ります」
私は抑えきれなかった。
「あなた方のほうこそ、私の姉をどうしたんですか」
沈黙。
誰かが浅く息を飲んだ。
私は視線に耐えきれず、談話室を出る。
廊下の蛍光灯の白は冷たく、空気は乾いていた。
ポケットに手を入れる。
CD-R の縁が指に触れる。
——今日、入口から帰れば、君は殺される。
——四階の非常階段を使え。
椎名さんは危険を冒してまで、それを私に伝えた。
その理由を、私はまだ知らない。
姉は見つからない。
頼れると思った人も、もういない。
でも——ひとつだけ残っている。
椎名さんが遺したメール。
あの中に“第二の暗号”がある。
ログインの「DOLL」、ロケット、非常階段。
すべて暗示だった。
ならば、あのメールにも必ず仕掛けがある。
研究室の外で、データを見る目を持った人間。
警察でも、研究室の人間でもない誰か。
私はCD-Rをポケットの奥に押し込み、階段へ向かった。
——まだ終わらない。
姉を見つける。
椎名さんの「なぜ」に辿り着く。
そのために、生きてここを離れなければならない。
私は踵を返し、静かに歩き出した。




