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人形の傷跡  作者: Child-Dream
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12月19日(9)非常階段



 椎名のメールを何度も反芻しながら、私は四階の非常階段へ身を滑り込ませた。手すりは驚くほど冷たく、握るたびに体温が奪われていく。上からは蛍光灯の微かな唸り、下からは風が抜ける乾いた音。

 人の気配は、ない——と思った。


 踊り場を一段飛ばしで降り、最後の段に足をかけた瞬間、小石を蹴ってしまった。

 からん——と乾いた音がコンクリートに跳ね、それに呼応するように建物全体の空気がぴたりと止まる。


 裏口の金具が動いた。

 足音が一歩、また一歩とこちらへ向かってくる。


 息を呑み、私は階段下の影に身を押し込めた。心臓が服の内側で膨れ上がり、喉の奥にぶつかって跳ね返る。


 足音は近づいてきた——そのとき、唐突に猫の鳴き声が聞こえた。

 短く、間の抜けた声。


 足音はそちらへ向きを変え、裏口の金具がもう一度鳴り、静寂が戻る。


 私は影から身を起こし、振り返らずに敷地の外縁へ向かった。裏手の通用門を抜け、建物の視線から消えるように脇道へ迂回する。


 人気のない路地を速足で抜ける。

 曲がり角で小学生くらいの女の子が突然飛び出し、私は反射的に身体をひねった。肩から滑ったバッグが路面に落ち、中身が散らばる。


「はい、これ、落し物です」


 女の子が氷砂糖のように澄んだ声で、メモ帳を差し出してくれた。私は礼を言い、散らばったものを拾い集める。


「ごめんね、ちょっと急いでいるから」


「お姉ちゃん達、なんで急いでいるの?」


 ——達?


 私一人しかいない道で、その言い方は不自然だった。

 顔を上げたときには、女の子は角の向こうへ消えていた。

 語尾だけが耳に残り、現実の輪郭を薄い膜のように曇らせる。


 私は歩調を緩めず、大通りの明るみに出た。銀杏並木には人の流れが戻り、喧騒が、さっきまでの静けさを押し流す。深く息を吸い、胸の奥に残る冷たさ——ポケットのロケットと、CD-Rの薄い円盤を指先で確かめた。


 今日は戻ろう。姉の部屋へ。

 扉を閉め、鍵を回し、落ち着いて今日の出来事を整理しなければ。


 振り返らない。

 椎名の言葉は、足取りそのものを律するリズムになっていた。


 12月19日、夜。

 鍵をかけた音が、一日の終わりを告げた。机に腰を下ろすと、体の芯に蓄積していたざらついた疲労がようやく形を持って迫ってきた。


 午前は地下鉄の飛び込み——身元不明の遺体。しかし、あれは姉ではなかった。

 午後は神子塚研究室。

 四階で拾ったロケットを椎名に返し、そのロケットを図書室で再び見つけて、中に挟まれていた “貴方が人形ならば入ることができる” の紙片を手がかりにし、コンピュータ室では ASUMI / DOLL でログインに成功した。

 そして椎名からのメール。

 “入口から帰れば殺される。四階の非常階段を使え”

 その内容をCD-Rに保存し、誰にも気づかれないように非常階段を降り、どうにか戻ってきたのだ。


 机の端に置かれた、図書室で拾い上げた銀のロケットが目に入る。

 一度は紙片を取り出したきり、きちんと中身を確かめていなかった。

 留め金はやや緩く、蓋の隙間から紙片とは別の何かが覗いている気がした。

 私はためらいながら、もう一度蓋をそっと広げた。


 息が止まる。


 紙片の下に、薄い写真が一枚、丁寧に挟まれていた。

 そこに収められていたのは——私の写真だった。


 いつ撮られたものなのか見当もつかない。

 けれど、不思議と嫌悪は湧かなかった。胸の奥に広がったのは、恐れと安堵のどちらともつかない重さだった。


 どうして椎名さんが、私の写真を……?

 昨日までの短いやり取りの中で、そんな機会があったとは思えないのに。


 思考は自然と、彼の行動の一つひとつへ向かっていく。

 ロケットに忍ばせた紙片。

 図書室という第三の場所。

 誰にも聞かれないように送られたメール。

 そして非常階段の指示。


 ——研究室の内部に、“聞かれてはならない相手” が存在する。

 そう考えれば全てがつながる。

 椎名は、危険と隣り合わせの中で、私にだけ届く合図を重ねていたのだ。


 感づかれれば命取り。

 それでもなお、知らせてくれた。


 私と、そして——姉のために。


 明日、もう一度椎名さんに会おう。

 直接確かめたいことがあまりに多い。

 CD-Rはバッグの内ポケットのさらに深い場所へ。ロケットは柔らかな布に包む。窓の鍵を確かめ、照明を落とすと、冷蔵庫の低い唸りだけが部屋に残った。


 横になると、まぶたの裏に銀の円盤と白い紙片が交互に浮かぶ。非常階段の鉄の手すりの冷たさがまだ掌に残っていた。


 「振り返らないで」


 彼の言葉を胸の奥で反芻しながら、私はゆっくりまどろみに沈んでいった。


 ——どうして私は、まだ「お姉ちゃんがいる」と思い込んでいるのだろう。


 問いは闇の底から泡のように浮かび、消える。


 幼い日の断片が、つぎはぎのスクリーンに映る。

 テレビのチャンネル争い。私はアニメ、お姉ちゃんは難しそうな科学番組。泣き出すのはいつも私で、最後にはきまって譲ってくれた。父は忙しく、家には姉妹だけ。二人で行った盆踊り、おそろいの浴衣、横顔の笑み。

 やがてお祭りは終わり、玄関に立つ男の子を見送りながら、私は戸口の陰で、二人きりの季節が終わる気配を見つめていた。


 クリスマスの夜の悪戯も蘇る。

 父のいないイブ、姉はサンタの代役を買って出て、寝入った私の枕元にそっとプレゼントを置こうとして、盛大に私の体を踏んだ。

 翌朝の言い訳——「だって、明日美がまだサンタを信じてると思ってたんだもん」。

 私はわざとらしく鼻を鳴らしながらも、あのクマのぬいぐるみを今も捨てられずにいる。


 夜の闇は孤独を増幅させる。

 私は一人だ、とようやく気づく。

 怖い。

 眠ればまた怖い夢を見る。

 早く朝が来て、私を照らして——。


 暗がりの奥に、椎名の気配が生まれる。こちらを見ているのか、沈黙しているのか分からない。

 言って、伝えて、と声にならない声が胸の内で響く。

 返事のない対話のすえ、ようやく空想の会話が始まる。


「研究室に閉じこもってばかりで、つらくないの?」

「ああ。でも、好きでやっていることだから」


 彼はほとんど何も語らない。

 だから私は、彼の沈黙を埋めるように問いを重ねる。


「どうして私を助けたの? 誰にも気づかれないように、メールと暗号で、非常階段を——。もし知られたら、あなたは……」


 応えない口元。

 けれど私は確信している。

 彼は姉のことを知っている。

 知っていて、なお言えないでいる。


「私のお姉ちゃんのこと、知ってるんでしょう?」

「ああ……知っているよ。言わなくてはいけない。君のお姉さんは——」


 そこで夢がふいに断ち切れた。

 闇が波のように寄せてくる。


 浅い呼吸のまま目を開ける。

 次の朝が、すぐそこにいた。



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