第3話 空白の中
「空白」を見つけたのは、丁度10年前。
家と学校、その2つを繋ぐ道だけが世界の全てだった頃、休みの日に父が辺り一帯の地図を見せてくれた時だった。
見方を教わりながら地図を隅々まで眺めていると、
ある場所が目に留まった。
それは明らかに大きかった。近くにある普通の住居と比べても数倍なんてものでは無く、当時の自分でもただの家では無いことが分かった。しかし、何かしらの施設ならそれを表すマークが描かれていると教わったのに、そこには何も描かれていなかった。
「お父さん。ここにすっごくおっきい家があるよ。」
「大きい家?それならきっとたくさんの人が…」
俺が指している場所を見た父の言葉が途切れた。
普通の家の2倍程度だと思ったのだろうが、実際は工場やごみ処理場のような大きさだ。
「…多分そこは家じゃ無いかな。」
「でもマークはなんにもないよ?」
「そうだけど…そこがどんなとこなのかはお父さんにも分からないな。この地図を持って行っていいから、明日先生に聞いてみたら分かるかもな。」
「ふーん。分かった!」
そこを「空白」と呼び始めたのは、翌日からの出来事が原因だろう。通学鞄をロッカーに仕舞ってすぐに、地図を持って先生のいる机に向かった。
「先生〜ここってどんな所か知ってる?お父さんは家じゃないけど分かんないって。」
「区域の地図?授業はまだなのにすごいわねぇ。これには地図記号ってマークがあって、それを…」
父と同じように言葉が途切れた。しかし、父の時とは何かが違った。
「…どうして、ここが気になったの?」
声色は柔らかかったが、顔は少し強張っていた。
「えっと…他の家よりずっとおっきくて。でも他の所にはマークがあったけど、そこには無かったから。」
「そう…でもそこには何も無いわ。お店とかも無いからマークも無いの。」
「そうなんだ。ありがとうございます。」
「どういたしまして。他にも質問があったら来ていいからね。」
ただそれだけの出来事だった。そういうものだと思いつつも、問題解決と言い切れないような感覚は、当時当時の自分にとって初めてだった。
その後に学んだ「空白」という単語がしっくりきて、空白という単語が頭に浮かぶたび、その場所も同時に浮かび上がってきた。
幼い時だったから「何も無い」があるという単純なことを理解できなかっただけ。そう思うようになっても、その場所はずっと頭から離れなかった。
しかし、今の俺の目の前には堅固な壁とロックの無い扉がある。
十年間頭の片隅に存在し続けていた「空白」。
実際のものは、「何も無い」という言葉で表現するには、明らかに異質過ぎる光景だった。
今まで未知であり続けた「空白」。
目の前の扉を開ければ、その中の全てが明らかになるのだ。
「開けて…いいのか…?」
扉に手を掛けて、ふと、単純な疑問が浮かぶ。
扉の先にあるものは、俺を歓迎するのだろうか?扉のセキュリティは無いに等しいが、高くそびえ立つ壁からは侵入者を拒絶する意思が感じられる。
壁と扉。その2つは矛盾しているが、それは片方の存在を無視する理由にはならない。
「…開ける、だけなら…」
それでも、扉を開けることはあまりにも容易だった。
目の前の未知への恐怖は、好奇心と比べれば微々たるもので、扉の取っ手を握る手は、ただただ力が強まる一方だった。
取っ手を引っ張る。蝶番の存在を疑ってしまうほど、扉は静かに開いた。
その先に見えたのは、残骸だった。
組み上げれば乗り物にでもなりそうな大きさの金属片が、錆と塵を被って重なっていた。
足を踏み入れる。そこは、新しい世界だった。
全ての物が引き裂かれ、砕かれ、錆で覆われて、どこまでも積み重なっていた。それらはいつか存在していた、人類の遺産だった。
心臓の音が激しい。そしてその音さえ遠く思う程に、目の前の景色は騒がしかった。
吹き抜ける風が肺に舞い込む。ただそれだけの事実に、何故か懐かしさを感じていた。
全てを認識したその時でさえ、
その世界は未知だった。
そんな未知の中だからだろうか。視界の隅に見えた、階段が異質に見えたのは。
積み重なって坂のようになった錆色の上に、銀色の足場が固定されている。それは明らかに最近加えられた、人の手だった。
階段を登り始める。ただ最も興味が湧いた場所だったから。
もはや未知への恐怖など無いに等しかった。階段は2階に登るようなものでは無く、山道に近いものだった。
そして、その先に辿り着いた時。
「始めまして。」
思えばここからだったのだろう。
「…こんな言葉を発したのは久しぶりだな。」
俺の人生から退屈が消えたのは。