第5話 大切なあなた
その日は、ひときわ静かな午後だった。
昼の庭遊びを終え、マルクトとわたしは館の廊下をゆっくり歩いていた。
廊下の先から、差し込む夕日が赤く床を染めている。
もう手を繋ぐには大きすぎる掌――けれど、マルクトはしっかりとわたしの手を握っていた。
「ねぇ、リーヴェ。今日の夕食は一緒に食べられる?」
「もちろんです。今日は厨房にお願いして、デザートも用意してもらいました!」
「ほんとに!? やった!」
ぱっと笑う顔に、また胸が温かくなる。この笑顔を見るたびに、わたしはこの仕事を選んでよかったと思うのだ。
けれど、その穏やかさはほんの一瞬で打ち砕かれた。
「!」
風もないのに、窓のカーテンが揺れた。
「! 下がってください、坊ちゃんッ!」
反射的にマルクトを後ろへ押しやり、わたしは前に出た。
次の瞬間、何かがわたしたちの間を風のように駆け抜け――白い壁が裂け、床に深い傷が走る。
「!!」
魔力の気配だ。
目を見開く。
廊下の先、影の中に一人の人影が現れた。
黒いフード、長身、手には鋭く光る双剣。
魔力がない分、わたしは気配を探るのが結構うまいと思う。相手の殺意が、まるで濁流のように空気を染めていた。
「リーヴェ、危ないよっ!」
マルクトが手を伸ばす。その小さな身体が震えていたけれど、彼はわたしを庇おうとしていた。
刺客が動く。影のように低く跳び、マルクトめがけて刃から魔法の弾がはじけて飛ぶ。
(坊ちゃんが、危ない……!)
「坊ちゃん!!!」
「リーヴェッ!」
その叫びと同時、わたしはただ本能のままに――マルクトの前に立った。
その身体を抱きしめて、ぐるっと背中でかばう。
飛び出した刃の魔力が、肩を裂く感覚。焼けるような痛みと、血の匂いが広がる。
でも、わたしは倒れなかった。
(大丈夫……坊ちゃんを、守らなきゃ……)
絶対に、倒れられなかった。
坊ちゃんだけは、傷つけさせない。
そのまま胸の中にマルクトを抱きしめ、その顔を腕で覆う。
「リーヴェ!!」
「……この子には、一筋だって傷はつけさせない!!」
背中が熱い。足元がぐらりと揺れるけれど、意識だけははっきりしていた。
この子を庇う――絶対に。
刺客がニヤリとわらって、今度は違うナイフを振りかぶった。
違う魔力の弾道。よけきれない。
「リーヴェッ……!」
腕のなかから、泣きそうな声がした。
「坊ちゃん、いいですか、ちゃんと、伏せていてくださいね――」
「リーヴェェエエエッ!!!???」
マルクトの声が、涙で震えていた。
焦燥と怒り、恐怖――そして、そんな彼を見て、わたしは気づいてしまった。
ああ、わたし、この子が好きなんだ、って。
大切とか、守りたいとか、そんな曖昧な言葉じゃなくて。
この子の涙を、笑顔に変えてあげたい。
どんな運命でも、この子の隣で生きていたい。
そんな想いが、胸の奥から溢れて止まらなかった。
どんなに傷ついても痛くない――マルクトが、坊ちゃんが、無事なら。
「マルクト坊ちゃん、泣かないで。わたしは……大丈夫だから」
届かない声かもしれない。けれど、言わずにはいられなかった。
その瞬間、意識がふっと浮き上がるような感覚に包まれた。
傷の痛みが、遠くなっていく。
(あ……これ、死ぬ、やつだ)
視界の端が白く霞み、足元から力が抜けていく――寒気がして腕が震えて、立っていられない。
「こっちだ!」
「マルクト様!! リーヴェ様!!」
駆けつけてくる足音が聞こえる。
「……ああ……よかった……。間に合いました、ね、坊ちゃん」
わたしの口から、安堵の吐息がこぼれる。
――守れた。腕の中のふわふわのそのプラチナブロンドをそっと、最後の力を振り絞って撫でる。
坊ちゃんが、無事だ。
それだけで、わたしのすべては満たされた気がした。
だんだんと、音が遠くなる。世界が白くぼやけて、思考がうまく回らない。
「リーヴェ、しっかりして! お願いだ、目を開けて!」
マルクトの声がすぐそばで響く。
気づけば、わたしはさっきの姿とは逆に、彼の腕に抱き留められていた。
その漆黒の目には涙が滲んでいて――いつもの勝ち気で可愛らしい顔じゃない、必死で、切実な表情だった。
「嫌だ。嫌だ、俺、絶対にリーヴェを失いたくない……!」
小さな指が、わたしの頬に触れた。
「ねぇ、リーヴェ。結婚するって、言っただろ……! だから、俺が大きくなったらって、ずっとずっと思って……思って、て……! 今も、これからも、俺は……俺は、リーヴェが好きなんだ!」
――そうだ。わたし、言ったんだっけ。
「じゃあ、大きくなったら迎えに来てくださいね」って。
あのときは、ただのおまじないのような気持ちだったのに。
だけど。
「坊ちゃん……」
もう、身体が冷たい。声も、かすれる。
でも、最後くらい……わたしだって、夢を見てもいい。
「そうですね……。じゃあ坊ちゃん……結婚、しましょう?」
その瞬間、マルクトの顔が崩れた。
泣きながら、それでも嬉しそうに、わたしの手をぎゅっと握りしめてくる。
「うん……!」
ああ、この子が大人になって、わたしを迎えに来てくれたら――そのときは、また笑って隣に立ちたいな。そう、思っていたんだよね。
ありがとう。
わたしはすっと目を閉じた。
世界は、音も光もなくなり、静かな眠りに包まれていった―――
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