第4話 10歳のプロポーズ
昼下がりの黒の館の中庭は、いつものように穏やかだった。
乳母として働くようになって5年。黒の館での暮らしにも慣れ、この最初はちょっと照れ臭かったメイド服に着慣れてきた。使用人としての後輩もできて、奥様と旦那様との関係も良好だ。前にうっすらきいたことのあった、黒魔術師と白魔術師の結婚、あれはここの当主様で黒魔術師のエルナド様、そして奥様である白魔術師のシア様のことだったんだよね。
(もう5年……か)
あっという間に過ぎた5年間だった。給金は破格すぎて(一度半分でいいです!!と断ったけれど旦那様の無言の圧の前に屈した)両親は今では病も癒え、わたしの仕送りでのんびりと穏やかに暮らしている。運命という言葉なんてあまり信じていないけれど、人生何が起こるかわからない。
空は高く澄み渡り、風は涼やかに草木を揺らしている。わたしは中庭の木陰にあるベンチに座って、風に髪を遊ばせながら本を読んでいた。
貴重な休憩時間だ。さやさやとわたしの黒い前髪が揺れる。でも読んでいると言っても、ほとんど目には入っていなかった。きっと、あの子が来る。そんな予感が胸のどこかにあったから。
――そして案の定、ぱたぱたという明るい靴音が芝生を踏みしめてこちらに駆け寄ってきた。
「リーヴェ!」
少し息を弾ませた声に顔を上げれば、柔らかなプラチナブロンドが陽光にきらきらと輝いていた。
まだ小柄な身体に、品の良い紺のシャツと黒いチェックのズボン。その瞳だけは、幼さを残しつつも大人びた黒を湛えている。
「どうしたんですか、坊ちゃん。そんなに走ったら転んでしまいますよ?」
「ううん、大丈夫。見て見て、今日の勉強、全部終わらせた!」
そう言って、マルクトは一冊の分厚い魔術書をわたしに見せつけるように差し出した。ページの隅々まで書き込まれた文字と、整った魔術陣の模写。明らかに自分でやった痕跡がありありと見て取れる。
「まあ……これは見事ですね。わたしが何も言わなくても、ちゃんとやりきったんですか?」
「うん! リーヴェに褒めてもらいたくて」
誇らしげな笑顔に、思わず口元が綻ぶ。こうして自分から努力して、自信満々に成果を見せてくれるようになったなんて――ほんの数年前までは、考えられなかったことだ。
「それじゃあ、ご褒美をあげないといけませんね」
「うん。ぎゅってして。あと、なでなでして」
まったく、坊ちゃんは甘えん坊ですね――と口にはしながらも、わたしは自然と両腕を広げていた。
だってこんなにかわいい天使を断れる人いる? いないでしょ!
マルクト坊ちゃんはすぐに飛び込んでくる。小さな腕で背中にしがみついて、すり寄ってくるその様子は、本当に犬のようだった。
かわいい。ほんとにもう、かわいい!
「リーヴェのぎゅー、好き……!」
「わたしも、坊ちゃんの抱っこ、好きですよ」
自然に言葉がこぼれた。
嘘じゃない。本当に、好きだった。
だって可愛くていとしくてふかふかで……。それに誰にも触れられない彼が、唯一安心して触れられるわたし。そういう存在であれることが嬉しくて。
誰かに頼られるって、ものすごいパワーがもらえるんだよね。胸の奥がほんのり温かくなる。
でも。
今日は、ほんのり~どころではない衝撃が、その直後に訪れた。
「リーヴェ、俺、大きくなったらリーヴェと結婚するからね!」
「……はい?」
ええええ坊ちゃん!
いまなんていった?
一瞬、頭がついていかなくて、呆けた声が出た。
けれどマルクトの顔は、至って真剣。キラキラとその漆黒の瞳が輝きながらわたしをまっすぐに見つめる。キラキラの宝石。黒曜石みたいだ。
「リーヴェと、ずっと一緒にいたいからね。リーヴェが他の人と結婚したら、絶対に嫌だし。だから、俺がリーヴェと結婚するんだ」
「ぼ、坊ちゃん……?」
「だって父上も、母上のこと放したくないから結婚したって言ってたよ。結婚ってそういうことだよね?」
「おふん……」
やだ、変な声が出た。
たしかに黒と白の垣根を越えて結婚なさったくらいだ、エルナド様とシア様はこれ以上ないくらい仲睦まじいご夫婦だけれど!そういう熱烈な教育はちょっと10歳のお坊ちゃんには早いのでは???
焦ったように彼の顔を覗き込む。けれど、漆黒の瞳はまっすぐこちらを見つめ返してくる。
揺らぎは、まったくない。
10歳のまだ小さな少年の目が、まるで一人前の男のようにわたしの瞳を射抜いていた。
「ふふふ……坊ちゃん……は、可愛いですねぇ」
そう言ってしまったのは、照れ隠しもあったし、冗談めかして済ませたかったからだ。
けれど、わたしの言葉にマルクトはむっと頬を膨らませた。
「かわいい、って言わないで。俺はリーヴェの旦那さんになるんだから。カッコいいでしょ?」
「ふふ、そうでした。そうですね、坊ちゃんは世界一カッコいいです、将来が楽しみですね」
そんなふうに笑って、誤魔化して――けれど、胸の奥では何かがそっと疼いた。
彼にとって、わたしは特別な存在。
強すぎる魔力のせいで誰にも触れられず、孤独の中で生きてきた彼にとって、わたしの存在は救いそのものだったのだと思う。きっとそう。だから――こんな風に錯覚しちゃうんだ。
ちょっとかわいそう。
そして悪いなって思う。
誰だって、ずっと与えられなかったぬくもりをもらったら、その人好きになっちゃうよ。
それがこんな――わたしだったとしてもさ。
「……でもね、坊ちゃん。わたしは乳母です。坊ちゃんのお世話係なんですよ」
「違う。リーヴェは、俺のリーヴェ」
はっきりとした言葉。
まだ声変わりもしていない高いその声には、確かな意志が込められていた。
わたしはそれ以上何も言えなくて、ただその頭を撫でることしかできない。
坊ちゃんは本当に優しくて、まっすぐで、愛されるべき子供だ。
――それなのに、わたしばかりが彼のぬくもりを独り占めしている。
わたしだって、坊ちゃんがかわいい――ほんとうに、かわいい。
でもこの感情に、名前をつけちゃだめだよね。
そう思いながら、わたしはそっと彼を抱きしめた。
「いつか坊ちゃんの魔力も落ち着いて、きっとわたし以外ともしっかり触れ合える日がきますよ。ほら、魔力制御がお上手になって、皆さんとお食事もとれるようになりましたし、学校にだって行けるようになったでしょう?」
「それはリーヴェが褒めてくれるから頑張っただけだ。他の人と触れ合うなんて、そんな日は来なくていい。リーヴェがいてくれれば」
「ダメですよ、坊ちゃんはニグラードの跡取りなんですから」
「リーヴェが一緒に居てくれればいい! 俺のリーヴェ」
ね? と潤んだ瞳で見つめられ、たじろぐ。
か、かわいい……!
こんな上目遣いで見つめられて、首を振れる冷血人間がいたら見て見たいものだ。
ふふ、とついわたしも笑ってしまった。
「……そうですね。わたしも、坊ちゃんのリーヴェでいられるよう頑張ります。じゃあ、大きくなったら迎えに来てくださいね」
そう。わたしは嬉しくてそう囁き返してしまったのだ。
それが彼の心に灯った炎に、油を注ぎつづけてしまうとも知らずに――。
読んでいただけてとっても嬉しいです、ありがとうございます!
よろしければスタンプや★でご反応いただけると、すっごく嬉しいです!
これからも一緒に楽しんでいただけたらいいなと思っています。
よろしくお願いします。