後日譚⑤ わたしに出来ること②
翌朝。
ニグラードの館には、淡い朝陽が差し込んでいた。
磨き込まれた大理石の床には、窓から差し込む光がぼんやりと映り込み、冷たい空気の中にも春の匂いが混じっている。
(……どうしよう)
わたしは、重い心を抱えながら食堂の扉の前で立ちすくんでいた。
こんなに扉が重たく感じたことなんて、今までなかった。
意を決して、そっと扉を押し開ける。
きぃ、と小さな音。
中には、すでにマルクトが座っていた。
陽光を受け、彼のプラチナブロンドの髪がふわりと光を帯びている。
黒のローブの上に白と黒のいつもの意匠をまとった国家魔術師の制服を羽織り、きちんと正装しているけれど――
顔色は、酷く悪かった。
黒い瞳の下には隈。襟はわずかに乱れ、彼の張り詰めた空気を物語っていた。
(……眠れてないんだ)
胸の奥が、きゅうっと痛んだ。
わたしは、躊躇いながらも声をかける。
「おはようございます……」
掠れるような小さな声。マルクトは一瞬だけまつげを震わせたが、「おはよう」と、低く短く答えただけだった。
それきり、沈黙。
温かなスープが湯気を立て、焼きたてのパンの香りが漂っているのに、わたしの胃は石のように重かった。
わたしたちの間に、深い溝ができてしまったみたいだ。
スプーンを取ろうとした手が、かすかに震えた。
向かいのマルクトは、手元のカップを無言でいじっている。その指先さえ、どこか不器用だった。
(謝りたいのに……どうして、こんなふうになっちゃったんだろう)
喉の奥に熱いものがせり上がる。けれど、何も言えない。
何もできないまま、ただ、時間だけが過ぎていった。
■
朝食のあと、わたしは逃げるように記録の間、古書解読の仕事場にしているニグラードの書庫へ向かった。
高い天井。古びた書棚に囲まれた静寂の中で、
わたしは一冊の古書を膝に抱え、ぼんやりと座り込んでいた。
小さな明り取りの窓から、木漏れ日が差し込む。
埃の匂い、本の香り、インクのスンとした匂い。
(なんだろう……この気持ち)
本来なら心落ち着くはずの場所も今日はただ、心細かった。
(マルクト……)
本を開いても、文字はぼやけて何も頭に入ってこない。指先でページをめくるたび、胸の奥が締め付けられる。
「!」
そのとき、足音がした。硬質なブーツの音。
この館で、こんな足音を立てるのは彼しかいない。
顔を上げると、書庫の入り口にはマルクトがいた。
彼もまたじっとわたしを見て――けれど、すぐに視線を逸らし、背を向けた。
「……」
何も言わないまま、彼は本棚の隅で何か立ち読みを始めた。
どうしよう。本を探しに来たのなら、この書庫にある本は大体わかっている、手伝える、と思う。
(でも、声をかけられない)
怖い。自分でもなんでこんなビビリになってしまってるのかわからないけど、怖い。
(――だって、もし無視されたら? そっぽを向かれたら? 冷たい瞳で――見られたら?)
耐えられない。
無理。
むりむりむり!!!
わたしたちの間に、見えない壁がそびえ立っているみたい。
木漏れ日が差す中、わたしたちはただ、互いに背を向けるだけだった。
(わたしが悪いのに)
一言、言い過ぎたよ、ってごめんね、ってあなたの役にたちたかったの、って言えればいいのに。
(続)




