後日譚④ 誰がために②(終)
歩き出した足はふわふわしていて、重たいのに浮ついているようで、でも止まらない。
通された王城の廊下は冷たくて広くて、ニグラードの屋敷とは違って、まるで空気までもが重厚な雰囲気を纏っていた。
目の前に、重たくて大きな扉が立ちはだかる。案内してくれた騎士が一礼して言った。
「筆頭魔術師様は中におられます。奥方様」
“奥方様”。
その言葉が胸にずしりとのしかかる。誇らしくて、でも申し訳なくて、心がぐちゃぐちゃになりそうだった。
コン、コン。
ノックの音がやけに響いて、返ってきたのは、聞き慣れた低く静かな声。
「入れ」
――マルの声だ。
思わず、喉の奥がきゅっと詰まった。
扉が開いて、わたしは足を踏み入れる。
広い執務室。高い天井と深い色の書棚。魔術式が描かれた机。そして、その向こうにいる彼。
プラチナブロンドの美しい髪は少し乱れていて、藍色の外套の裾が椅子に沿って落ちている。
眉根を寄せた表情で、書類に目を落とすその姿は、どこかいつものマルクトとは違って見えた。
けれど、顔を上げたその瞬間、彼の瞳に宿った驚きを、わたしは見逃さなかった。
「……リーヴェ どうしてここに?」
名前を呼ばれたとき、心がぎゅっと掴まれた。
「……。ごめんね、急に来て」
「何か、あったのか」
思わず、といった様子で立ち上がって、マルは私と向かい合う。
大きな背を少しかがめて、わたしの声をしっかりと聴くように――
ああ、優しい。ほんと……好きだなぁ……。
じんわりとそう思って、それで、余計に申し訳なくなって――。
「ごめんね……」
声が震える。ただ、苦しくて、どうしようもなくて。
「筆頭魔術師になったの、わたしの……ためだったんでしょう?」
「!」
「聞いちゃったの、ごめん」
マルは、黙っていた。
それだけで、全て分かった。
わたしは彼を責めたいんじゃない。ただ――知っていたかった。
わたしは二十年、本当に、何をしていたんだろ。
マルを苦しめて。マルを、こんな場所に縛り付けて――
「知らなかったの……あなたが、わたしの、ために……っ」
気づいたら彼の胸に飛び込んで、いた。すがりつくようにして泣きじゃくる。
「ごめんね、ごめん……なのにわたし、あなたのこと……、こんなの、向いてなさそうなのに、なんで、なのか、なぁ、なんてずっと、のんきに、思って、て……っ」
「いいんですよ。実際向いていませんが」
マルクトの腕が、そっとわたしを抱きしめる。
あたたかくて、広くて、ずっと恋しかったぬくもり。
「権力を振りかざすのも、なかなか楽しいものですからね」
彼はわたしの髪に顔を埋めるようにして、小さくそう呟いた。
「……嘘」
「ホントですよ」
その優しさが、わたしの心を砕く。
「王とて、俺にはおいそれとは逆らえない。――黒でも白でも、どんな魔術師でも、俺には権力でも実力でも敵いません。なかなかの快感ですよ」
「……思ってもないくせに」
「いいんですよ、リーヴェがこうして俺の隣で笑っていてくれるなら」
涙が、また溢れる。
それが彼の答えだった。
とても、マルクトらしい優しさだ。
思い出す。
幼い彼が、まだ少年だったころ。
わたしの服の裾を握って、どこまでもどこまでもついてきたあの姿。
優しくて、魔力をいつも持て余していた。
攻撃の黒魔術より、癒しの白魔術の方を得意としていたのも、わたしは知っている。
……それなのに。
今の彼は誰よりも恐ろしい魔術を使って国の敵を蹴散らす、国家の魔術師様だ。
我慢できなかった。
ぽろぽろと涙が零れ落ちて、ただただその胸に縋りついてしまう。
けれど、そんなわたしをマルクトはずっと抱きしめていてくれた。
彼の腕は、昔よりずっと広くて、ずっと頼もしくて。
「ねえ、マル」
わたしは、彼の胸元に顔を埋めたまま、かすれた声で囁く。
「わたし、あなたが何をしても、どんな風でも……ずっとあなたのことが、大好きよ。
ごめんね、ありがとう。あなたがわたしのために犠牲にしてきたものも、無理して笑っていることも全部……。
ありがとう、ごめんね」
彼の胸が、微かに震えた。
それから、そっとわたしを引き離して、黒い瞳でじっと見つめてくる。
「……リーヴェ」
「何?」
「泣かないで。俺はこの地位に《《今では》》満足してると言ったでしょう?」
「……そう、なの?」
「ええ」
そう言ってニヤリと口の端をあげて笑うマル。
これ、悪いこと考えてるときの顔だ。
「リーヴェがもし、離婚したいと言っても無理ですからね。我が国家の最高権力者は王ですが、その次はこの俺ですから」
「え?」
離婚? 最高権力者?
ちょっとまって、理解が追いつかない。
「まぁ俺だけではありませんが、俺と騎士団長様と聖堂の最高司祭様が同格でナンバー2ですからね。もしなにかあってリーヴェが俺からの離婚を申し出ても、ニグラードの若奥様ごときの地位では俺に逆らえません」
「そ、そんなことって」
ある??? あるのだ、たぶん。この笑顔を見ていると。
「もう……」
わたしは笑った。涙を拭いながら、精一杯、まっすぐに。
するわけなんかないのに。
こう言って、わたしの心を軽くしてくれる。
「ありがとう、マル。あなたの全部に、ありがとう、大好きよ……ごめんね」
マルは、一瞬だけ、表情を崩した。
それは、誰にも見せたことがないような、年相応の、寂しがりで不器用な、少年の顔。
きっとこの二十年、わたしのためにずっと犠牲にしてくれた、彼の優しい心。
でもすぐに彼は微笑んだ。
ゆっくりと、優しく、まるで――わたしだけに咲いてくれるような、愛しい微笑み。
「……俺も」
そう言って彼はわたしの額にそっと口づけを落としてくれる。
窓の外、空はもう朱に染まり始めていた。
夕陽が部屋の中を赤く染め、彼の髪のプラチナが、淡い光を帯びて輝いていた。
愛しい人の愛しい色。ちゃんと覚えておこうと私は心の焼きつけたのだった。




