後日譚③ 声と愛と呪いの本③(終)
呪いが解けて、わたしは世界が少し明るくなったような気がしていた。
ほんとうに、声が出るというだけで、こんなにも日々が満ちて感じられるなんて。
黒の館の朝。カーテン越しに入ってくる金色の光。
パンの焼ける香ばしさ、ノルンさんが揃えてくれるハーブティーの穏やかな匂い。
一つひとつが、喉奥からほっと息を吐ける――それだけで、嬉しい!
最高―――!
とわたしのテンションも朝からだだあがりだ。
「はい、リーヴェさん。これ、喉にいいとされる木の実入りのパンですよ」
「わっ、ありがとうございます、ノルンさん!」
「ふふ、リーヴェ様のお声やっぱり素敵ですね」
そう言って笑われて、わたしは照れて笑う。
マルクトはといえば、わたしの隣の席で食事をとりながらも意識はわたしにぴたりとくっついて、まるで「何かあったらすぐ守れる位置です」と言わんばかりの顔をしていた。
「ねえ、もうそんなに気を張らなくても大丈夫だよ?」
「油断は禁物です。再発しないとは限らない」
「本が原因だったって、もうわかってるし、その本はマルが木っ端微塵にしたでしょ」
「だから言ってるんです。“もう何にも触らないでください”」
どこの過保護だ。
呆れて少しだけ睨むと、マルクトはごく真剣な顔をしてわたしを見ていた。
漆黒の瞳に、心配と、不安と、ほんの少しの拗ねたような色が混ざっている。
「それは無理でしょ」と、わたしは肩をすくめて返す。「わたし、古書解読の仕事してるんだし」
「……知ってます。でも」
「でも?」
「じゃあ、これだけはつけてください」
そう言って差し出されたのは、黒革の――手袋だった。
「手袋?」
「そうです」
滑らかで、しっとりとした手触り。見た目はごく普通の装飾のない手袋だけど、手を入れた瞬間、内側からふわりと、あたたかな“気配”が肌に触れた。
「……これ、魔力……? はっきりわからないけど、あったかいよ!」
「俺の魔力を編み込んであります。少しの呪術なら、干渉を弾いてくれる」
「魔力って、そう簡単に“編み込める”ものなの? よくわかんないけど」
「俺だからできるんですよ」
当然のような顔で言って、マルクトはふっと微笑んだ。柔らかなプラチナブロンドの前髪が揺れ、影が頬に落ちる。その目があんまりまっすぐなので、わたしは思わず視線を逸らした。
「こ、……これくらいなら、いいけど。……ありがとね」
ちょっと照れる。でも、嬉しい。
ともかくともかく。
それ以降、わたしは仕事用のかばんにその手袋を入れて持ち歩くようになった。
最初はちょっと重たい愛情の象徴のように思えて、気恥ずかしかったけれど……使ってみると普通に使い心地がいい。やわらかな革はわたしの手にすっかりなじみ、助かる場面も多かった。
しかし――その数日後。
王立図書館での仕事を請け負い、本の整理をしていた時のこと。
わたしは、手袋をした手で慎重に魔術関係の古文書をめくっていた。外装からしてなかなか怪しく、図書館員も「これ、いまだに誰も読めてないんですよ」と遠巻きに言うほどのもの。
(こういうときにこの手袋あってよかったって思えるなぁ……、ん?)
少しの緊張とともにページを開いたその瞬間――
「……!」
空気がぴり、と震えた。おそらく呪術を探知して、手袋のマルの魔力がそれをはじいたんだろう。
その瞬間、図書館の閲覧席にいた数人が、勢いよくこちらを振り返った。
「ちょっ、なにこれ……!!」
「魔力、えぐ……、こ、怖い……なにこれ」
「この部屋だけ、なんか圧あるね?」
ひそひそ声が重なる。ざわざわと空気が騒ぎだした。
わたしは慌てて手袋をはずし、両手で押さえた。
なんでもないです、と身振りで伝えて、そっと目を伏せる。
(……マルクト……! わたしが魔力のこと探知できないと思って)
たぶんめちゃめちゃな量の魔力が、この手袋に詰まっているのだ。
「愛が……重すぎるよ……」
小声でつぶやいて、でもほんの少しだけ、笑ってしまった。
だって、そうやって誰よりも真剣に心配して守ろうとしてくれるマルクトが、大好きだなって実感してしまったから。
■
「――ねえ、マル。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
その日の夜。
わたしはあつあつの紅茶をいれたカップを持ちながらマルクトの隣に腰を下ろした。
長椅子の上、彼の肩に背中を預けるようにして少しだけ顔を傾ける。
「はい。なんですか、愛しのリーヴェ?」
「変な枕詞はよして。――今日、王立図書館で手袋使ったら、周囲の人がざわついたんだけど」
「……」
「“魔力が強すぎる”って。すごくビビられちゃったんだよ?」
カップをそっと置きながら、ちらりとマルクトを見上げる。
彼は、ほんのり困ったような、でもどこか誇らしげな顔でわたしを見返した。
「そうでしょうね。俺の練りに練り上げた魔力ですから」
ドヤ顔だった。
「……いや、誇らないで。仕事場で浮くし力が発動するたびにあの空気になるのはちょっと」
「周囲の魔力がショボいんじゃないんですか?」
「ドヤらないの。なんかね……なんか違うのよ……」
言葉にするのは難しいけど、とにかく「愛が重い」ってそういうことなんだよ、と伝えたくて、わたしは自分のこめかみを押さえる。
マルクトは相変わらずきょとんとしていた。そして、ひとつうなずく。
「……むしろ、足りない気がしてきました」
「え?」
「次はリボンで織っておきましょう。髪に結んでいただければ」
「いやいやいやいや!!」
手をばたばた振るわたしに、マルクトはまじめな顔で問う。
「なにか問題が?」
「その……そのね、ちょっと過保護すぎないかなって……」
頭を抱えたわたしを、マルクトはすこし得意げに抱き寄せた。
「リーヴェがまた声を失うなんて、もう考えたくないんです」
「……っ」
「どれだけ焦ったか。何があっても守るって、改めて心に決めたのに。だから、僕の魔力で包んでおきたい。大袈裟でも、笑われても」
その声は、いつもの不遜さとは違って、静かに、まっすぐだった。
ぬくもりのある声が、耳元に落ちてくる。鼓膜より、心に染みる。
――ずるいよ、そう言われると。
「もう……。しょうがないなぁ」
わたしは彼の胸に額をあずけた。
プラチナブロンドの髪が頬にふれて、彼の心音が少しだけ速くなるのがわかる。
「じゃあ、せめて……あんまり目立たないようにして。みんなは魔力でわかっちゃうんでしょう? 周囲から“恋人に巻かれてる”って思われるの、ちょっと恥ずかしいし」
「巻いてるんじゃないです。守っているんです」
「言い方の問題じゃなくてね……」
もう、ほんとに。
そう思いながら、でもわたしは笑っていた。
彼の愛が重たくても、くすぐったくても、それがわたしだけに向いていることを思えば――悪くない、なんて思ってしまう。
「……リボンは、かわいいのにしてね」
そう言うと、マルクトの目がふっとやわらいで、目尻に微笑みの影が浮かんだ。
「任せてください。俺のセンスを信じて」
「そこはちょっと不安かも」
そんなふうにからかい合って笑いながら、わたしたちは夜の穏やかな闇に包まれていく。
あたたかなランプの光の中、今日も平和な笑い声が重なった。
(完)
ものっすごい勢いで呪いの本を壊すマルクトが書きたかった話です
読んでくださってありがとうございました!