後日譚①愛称で呼んで!
その日はいつもより早く、マルクトが仕事から帰ってきた。
魔術師団の会合が短く済んだらしく、めずらしく上機嫌だ。
基本的にマルクトはわたしと離れる仕事が好きではないらしく、大体仕事帰りは機嫌があんまりよくない。どんな国家魔術師様だよ! ちゃんとお給料分は仕事してください。
「ただいま、リーヴェ」
黒の館の皆も、ちょっと早いマルクトの帰還にどこかそわそわにこにこしている。
外では唯我独尊、やりたい放題気味のニグラード家の若旦那様だけど、黒の館のみんなはマルクトのことが大好きなのだ。
「おかえりなさい。何かいいことでもあった?」
「……。まあ、あったといえば、あります」
「どんな?」
「いや……。いいこと、というか、気づきを得たんだ」
ソファに腰を下ろした彼は、珍しく妙な間を置いてから、もぞもぞとこちらを見る。
「気づき? ……なんのこと?」
「その、リーヴェ。ひとつ、頼みがあります」
「なぁに?」
また何か仕事があるのかも……。あんまり難しいことは頼まないでいてくれると助かるなぁ、なんて思いながら振り返ると、マルクトはやけに真剣な顔でわたしを見てきた。
「……愛称で呼んでくれませんか」
「へっ?」
わたしの口から、完璧な間抜けな声が出た。
だって予想もしてなかったんだもん!
ちょっとまって。愛称って……?
「だから、愛称ですよ。今日の任務は騎士団長殿と一緒だったんですが……騎士団長様が奥方に愛称で呼ばれていて」
「……」
「それで、いいなぁ~って?」
「まぁ、そんなところですよ。ほら、父上だって母上に“エル”と呼ばれているでしょう。あれですよ。あれが、いいなぁって」
「……そう、なんだ」
「仲のいい夫婦はみんな愛称で呼び合っている。いい気づきでしょう?」
いきなり義理の両親のラブラブエピソードを披露されても。
確かにシア様、エルナド様のことエルって呼ぶなぁ。
ドヤしてる目の前の国家魔術師様はおいておいて、わたしはとりあえずそうなんだ、と頷いて見せた。
「で、マルクトは、何て呼ばれたいの?」
「それは、あれですよ。雰囲気が大事でしょう? ”こう呼んでくれ”と指定するのは邪道だと思います」
「えっ???」
謎が謎を呼ぶ展開。
なにその理論。
さすが天下の天才魔術師様は考えることが違う……じゃなくて。
「愛称というのは、自然に生まれるべきものであって……つまり、俺の口からは言いたくないです!」
「は、はぁ……?」
わからなくもない。そう、わからなくもないけど……。
困惑の声しか出なかった。
プラチナブロンドの柔らかな髪を振り乱して漆黒のキリリとした顔を緩ませて、雰囲気でなんとか押し通そうとしているわたしの旦那様。
甘えたいのか、カッコつけたいのか、どっちかにしてほしい。まぁカッコいいけれど。
「それに、呼び名というのは愛情と信頼の証であり、長きに渡って築かれる絆の――」
「マルでいい?」
ふっと、言葉が止まった。
マルクトがこちらを見つめている。口を半開きにして。
「……マル?」
「うん。マルクトって、呼びやすいようで言いにくいし、でも"マルク"だとトだけ省略してもって感じだし。“マル”って呼ぶとちょっと可愛い。マル?どう?」
「……」
「気に入らなかった?」
「……いや」
真っ赤になって、目を逸らすマルクト。
「……気に入りました」
そう呟く声は小さくて、でも確かに嬉しそう。
私はその様子にくすっと笑って、もう一度言ってみる。
「はいはい、マルは今日もお仕事頑張ったねぇ」
「もしかしてバカにしてます?」
「ううん。褒めてるんだよ? マル、えらいねぇ」
ひとしきりわたしにからかわれたあと、マルクトは唇を尖らせながらも、どこか満足そうに目を細めていた。
まったく。
ほんと、にもう! 可愛いんだから。
昔の世界の感覚で、(マルってちょっと猫っぽい愛称だよね)と思ったことは内緒だ。




