第17話 愛しのあなた(マルクト視点)
夜は深く静かで、黒の館の一室には柔らかな灯りが揺れている。
ベッドの上、寄り添うように眠るリーヴェの顔に、マルクトはそっと手を伸ばした。
指先が、頬に触れる。あたたかい。
生きている。ちゃんと、ここにいる。
それが、どれほどの奇跡かを、誰よりも知っているのは自分だ。
あの夜から、20年。
この手が触れられなかった温もりが、今こうして指先にある。
わずかに力を込めて、そっと彼女の髪を撫でた。
しっとりと指に絡む黒と茶が混ざる髪。香りは昔と少し違う――でも、変わらないやわらかな手触り。
(坊ちゃん)
そう呼び掛けてくれる声が、抱き上げて頬ずりしてくれるたびにあたるその感触が、懐かしくて、涙が出そうになる。
リーヴェ。
君に初めて会った日のことを、覚えていますか?
俺は、覚えてる。
誰も、触れられなかった俺。
起きたら君の手が、あたたかなものが、頬にあったんだ。
――はじめまして、マルクト様。 わたしはリーヴェ。
覗き込む青みがかった目。そしてこの茶色がかった美しい黒髪。
リーヴェ、と名前を繰り返したのは、決してその名を忘れたくなかったから。
あったかいな、と言った俺を、そっと抱き上げてくれた。
他の誰にもできなかったことを、君はあっさりと成し遂げたんだ。
君は魔力を持たない。だからこそ、俺に触れられた。
黒と白の魔術を両方持つ、世界にひとりの“灰の魔術師”として生まれた俺は、その力ゆえに、誰にも触れられなかった。
そんな俺を、君は当たり前のように抱いて、笑ってくれた。
その日から、リーヴェは俺の全てだった。
リーヴェの言葉に笑い、リーヴェの笑顔に泣いた。
リーヴェ、君に褒められたくて、俺は魔術を学び、研究を重ねた。
周囲が俺の才能を恐れても、君だけは怯えなかった。
むしろ、あの優しい目で「すごいですね、坊ちゃん」と撫でてくれた……それが、どれほど嬉しかったか。
10歳の俺は、君に恋をしていた。
「リーヴェと結婚する」と言ったとき、君は笑っていたね。
でも、俺は本気だった。ずっと、本気だったんです。
君と結婚するために、俺はどんな努力も惜しまないつもりだった。
だけど――
あの日。
君が俺を庇って、刃の前に立ったあの夜。
世界が音を失った。
倒れた君を抱いて、必死で声をかけた――だけど君は目を開けなかった。
その胸が上下していたことに、後で気づいた時の、あの救いと絶望が入り混じった感情を、俺は一生忘れない。
生きている。だけど、目を覚まさない。
どんな魔術師でも治せず、どんな薬も効かなかった。
君は、魔力を持たないただの人間だからこその深い眠り。
誰も、目覚めさせる方法を知らなかった。
あの時、俺は誓った。誰に何を言われても、絶対に君を待ち、君を目覚めさせるためだけに生きると。
他国の皇女との縁談もあった。家の安定のために、政治のために、俺に妻を得よと王家からは何度も勧められた。だが、俺は言い続けた。「俺の妻は、リーヴェだけだ」と。
君のいない世界は、色を失っていた。
でも俺は、君が戻ってきたときにふさわしい男でいるために強くなった。
君を救う術を手に入れるために、王家の禁書に手が届く地位を目指し、国で一番の筆頭国家魔術師になった。誰よりも恐れられ、誰よりも頼られる存在になった。
すべては――君を目覚めさせるため。
君が戻ってきて、あのときと同じように俺の名前を呼んでくれたとき。
本当に、嬉しかった。
けれど、リーヴェ、君は怯えていたね。
俺との時間に、距離を感じていた。
もちろん、そうだろう。
君は「昨日」まで10歳の俺といたのだ。
20年分の差を一晩で埋められるはずもない。
だから、また待つことにした。
少しずつ、少しずつ君に近づいて、ようやく今日。
君は、俺を受け入れてくれた。
震えながらも、俺を好きだと言ってくれた。
抱きしめてくれた。
俺に、触れてくれた。
こんなにもあたたかくてやさしい人を、手放すなんてできるはずがないでしょう。
「リーヴェ」
隣で寝息を立てる君の唇に、そっと口づける。
君が目覚めてくれて、本当によかった。
絶対に、離さない――離すわけがないだろう。
俺の愛しいリーヴェ。
最愛の、我が妻。
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