第10話 長い夜を抜けて
夜の静けさは、まるで深い海の底にいるようだった。
寝室は、しんと静まりかえっている。
わたしはふと目を覚ました。
夢を見ていたのかもしれない。でも内容は覚えていない。静寂の中で呼吸だけがやけに耳に残る。
――喉、渇いたな。
水でも飲もうかなと、そっと体を起こす。隣で眠っているはずの彼――マルクトに気を遣って、音を立てぬようにそろりと動いた……のはずが。
「リーヴェ。どうしました」
「ふあわ!? 起きてたんですか!?」
思わず変な声が出た。
静かな暗闇。寝台の傍ら、背もたれの高い肘掛け椅子に座り、マルクトがじっとこちらを見ていた。
隣で寝てたんじゃないんですか?! そう言おうとしてわたしは口をつぐんだ。
彼が、泣いていたから。
プラチナブロンドの髪が月明かりを受けて淡く輝いている。その輪郭があまりに幻想的で、一瞬、本当に夢を見ているのかと思う。やっぱり星の王子様だ。キラキラしてる。
「ご、ごめんなさい……もしかしてわたし、起こしちゃいました?」
気まずく声をかけると、彼はゆっくりと小さく首を振る。
「……ううん。ただ、君の寝顔を見てたくなっただけ」
まるでイタズラがバレて叱られた時のような、こっそりと隠していた秘密がバレた照れたような――それでいてどこか切なげな微笑みだった。
寝顔を、見てたくなっただけ?
「……そんな……なんで?」
思わず聞いてしまった。だって、そんなの普通の夫婦だって面と向かっては言えないような歯の浮く言葉だ。だけど彼は、ごく自然に、真っ直ぐに答える。
「まだ信じられないんだ。こうして、君が目を覚まして、俺の隣で息をしてることが」
その言葉の意味を、わたしはすぐには理解できなかった。
でも、マルクトの目に浮かんだ涙がすべてを語っている。
月明かりに照らされて、その美しい黒曜石みたいな瞳がうるんで、静かに光っていた。
「20年――君が目を覚まさないままの時間を、俺はずっと生きてきた。ずっと、ずっと、願ってた、祈ってた。目を覚ましてって。もう一度、声が聞きたいって、笑ってほしいって、君に、俺に、触れてほしいって……」
その低く甘い声は、震えていた。
ああ、この人は本当に、ずっと――わたしを待っていてくれたんだ。
ひとりの少年が、青年へと成長するまでの長い年月。
そのすべての季節に、わたしはいなかったのに。
それでも――ずっと待ち続けて。
それって、本当に……愛なんじゃないんだろうか。
「……マルクト」
わたしは立ち上がり、彼のそばへ歩み寄った。
彼の腕が開き、そっとわたしの身体を迎え入れようとする。
それを制して、わたしはそっと彼を包むようにして抱きしめた。
「!」
「ありがとう、マルクト」
わたしから、抱きしめないといけないと思った。
彼に、あたたかさを与えないと行けないと思った。
あたたかい身体。まだ少年らしくてすんなりした記憶の坊ちゃんの身体とは全く違うけれど、それでもそっとおずおずと背中に手を伸ばして、まるでガラス細工を扱うような手つきで抱きしめ返す、その腕にこもる優しさはちっとも変わってない。
「……怖かったよ。リーヴェはもう二度と、目を開けてくれないんじゃないかって」
低く、かすれた声が耳元でこぼれる。
わたしの胸に顔を埋めた彼の髪が、頬に触れてくすぐったい。
「大丈夫。ほら、こうしてちゃんと生きてますよ。……わたし、ちゃんと、ここにいます」
精一杯の微笑みを浮かべて、明るくそう言った。
彼の体が、微かに震えた。
「……ありがとう、リーヴェ。生きててくれて、ありがとう」
「あなたも――マルクト坊ちゃん。ありがとう、わたしを諦めないでくれて」
涙が落ちる気配がした。
それは、20年という時を超えて、ようやく届いた願いの重さだった。
ぎゅっと強く抱きしめられたわたしは、その腕の中でそっと目を閉じる。
深い夜の中、確かに――わたしたちは同じ時の中にいた。
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