結びの譜
「姉さん何やってるの――」
夜逃げの用意をしていたら見つかった。弟に。笛かえせ。
夜通し見張りが付いて、翌日やつがやって来た。
実雅様はさっきからずっと笑っている。
扇で顔を隠してクスクスと。
「はー。会いに来たら姫君がいなくて大騒ぎなんて――」
(バレてる……)
「人生で初めてでした。紫陽花の夜といい、姫は私の想像の斜め上を行きますね」
「……」
黙っといた方がいい。
何を言っても失敗しそうな予感しかしないもん。
「いや、失礼。でも色々考えさせられましたよ。待ちぼうけを食らう気持ちとかね」
待ちぼうけさせてきたんだぁ……。
引くー。
(だからそういうとこなのよね)
普通そういうの隠すもんじゃないの?どうなってんだ。
御簾越しの対面はもう何度目かになる。
初めのうちは構えてたけど、だいたいいつも父や母が一緒だったので、「こんにちは」だけで終わってた。
のに、この時は珍しく私一人だった。
父が資料を取りに行くとかなんとかで席を外していて。
ハメられたのに気付いたのは、なにもかも終わってからで――。
「そうそう、大切なことを忘れてました」
「はい……?」
「今日は姫にお土産が」
(なに?こわ……)
周囲がさんざん篭絡されていくのを目の当たりにして、はっきり言って恐怖しかない。
実雅様は脇に置いてあった文箱から、そっと紙の束を取り出した。
「間に合わせの紙に書いた、ごく私的なものなんですが――」
「……?」
「姫が音を紙に写してると聞いて」
(なんで知ってるの?父様から?)
この人の情報網ってどこまで張ってあるんだろう。
やっぱこわ……。
「ためしに、先日の紫陽花の宴の管弦をね、譜にさせてみたんです」
え。
どうしよ。見たいんだけど。
管弦ネタで釣るとか反則じゃないか。
ふ、と笑って実雅様は私の前に静かに差し出した。
(楽譜って、どうやって――?)
平安世界の音楽は、私の周りではほとんど口伝えだった。
小さい頃から新しい曲はいつも歌って教わってきたし、転生してから、いわゆる「楽譜」というものを見たことがない。
まるで目の前に幻の秘宝が現れたみたい。
手が震える。
「……触っても?」
「もちろん。そのつもりで持ってきましたから。どうぞ――」
少し御簾を上げ、緊張で冷たくなった手を伸ばした。
コピー用紙のようなありふれた紙に書かれた管弦の楽譜を、食い入るようにじっと見詰める。
(この世界で初めて見る楽譜――)
見たことのない体裁で書かれてる。
でも、あの夜の音と照らし合わせながら眺めると、この譜を書き起こした人の意図がなんとなく読み取れる気がした。
ふと、溶けた音をかき集め、紙に写そうとする誰かの横顔が浮かぶ。
白い紙に乗せられた墨から、音が立ち上るような気がした。
さざなみのように、あの夜の楽の音が押し寄せる――。
庭で小鳥が飛び立つ音がした。
「――」
思わずほぅと、溜息が漏れる。
「どなたがこれを?」
「――秘密です」
小さく笑った実雅様の声が、ほんの少し硬くなる。
(私、聞いてどうしようと思ったんだろう――)
音の底から浮かび上がり切れなくって、彼の声色が違ったことには気付けなかった。
「こんな貴重なものを、ありがとうございます」
興奮で声が上ずった。
気付かれたかな。
そっと顔を上げると、御簾越しに穏やかな気配でこっちを見ている実雅様と目が合った気がした。
(……これ、やらかしてない?)
あんなに嫌がってたのに私、現金すぎない?
急に恥ずかしくなってくる。
ぎくしゃくと紙を揃えて戻そうとした時、手元が狂った。
ひらりと一枚、御簾の向こうの実雅様の方へと滑っていく。
「あ、ごめんなさい」
慌てて隙間から拾い上げようとした瞬間――。
(何が起こってるの、これ……)
御簾を上げた彼の手が伸びてきて、気付いた時にはいい匂いに包まれていた。
いつもの文の香りだけど、いつもよりずっと濃い。
緊急事態で心臓が壊れそうにドクドクしてる。
掴まれた腕は熱いのに指先は冷たい。
乱れた髪が視界に入り、体が震えた。お腹がギュッとなる。
(なんでこんな目に合ってるの)
怖くて暴れようとする心を抑え奥歯を噛みしめた時――。
「ごめんね」
聞こえないほど小さな声で確かに届いた。
「……え?」
見上げると、額の先に柔らかな温もりがある。
もう体は震えない、けど――。
彼の少し茶色い瞳が、いたわるようにじっと私を見つめるから、また動けなくなる。
(こんな乱暴なことして、どうしてそんな顔してるんだろう)
笑みを描いた唇がゆっくり動き、ささやきが低く鼓膜を撫でる。
「――お土産のお礼、もらっていい?」
「――っ!」
背中がぞわぞわした自分に死にたくなるほど腹が立つ。
(ない!ぜったいなし!私のバカ!)
彼の胸を押しのけようともがいていると、ふと人の気配がした。
「あら――」
「かぁさま……」
終わった。
(終了。さよなら私の人生)
牛車の軋み、管弦の音、楽しい思い出が駆け抜けていく。あの私にはもう戻れない。
さっきの「ごめんね」って、こういうことだったんだ。
悔しくって涙が出てくる。
こうまでされなきゃダメだったの?
「うふふ。お邪魔しました」
抑えきれない喜びで裏返った母の声が、わざとらしいにもほどがある。
(めっちゃうれしそう……)
母がそんなに嬉しいなら、これでいいのかもしれない。親孝行ってやつ?
投げやりな思いしか浮かんでこない。
「小霧、あなたのお部屋へ実雅様をお通しして。一度ゆっくりお話なさい」
もう反抗する力は一ミリも残ってなかった。
母に言われた通り、実雅様を自室へ招き入れた。
「ひど……」
うなだれて絶望を舐めながら、私は小さく呟いた。
いつもの自分の空間なのに、違う匂いで落ち着かない。
実雅様がわざとらしく肩をすくめる。
「ほんとひどいよね。俺はこんなに尽くしてるのに」
「は……?」
(『ごめんね』って一瞬まともだと思ったのに……)
たった今私をどん底へ突き落としたって気付いてないのかな。
なぜか被害者の席に座ろうとしてる。
その席、私のだよね?
「あの日は別の男の所へ行ってたんでしょう?」
「っ!そんなんじゃないです!」
「あはは。――知ってる」
(なんなのこの男は。さっきまでと全然違うじゃん)
実雅様はゆったり脇息にもたれて、楽し気にこちらを眺めた。
「邪魔はしないよ。でもまぁ、こうでもしないと捕まえられそうにないからね」
「捕まえ……」
人をなんだと思ってるんだ。これだから遊び人は……。
だいたいなんで私なの。
遊び相手なんていっぱいいるに違いないのに。
「どうしてそんなに私と結婚したいんですか」
「……ほんとに情緒のかけらもないね」
呆れた顔をして私を見る。
「そんなこと聞かれたの初めてだよ。あんなに文も送ってたのに。どうせ笛のとこしか読んでないでしょう」
「……」
「最後の一行、ちゃんと読んでた?」
(読むわけないじゃん)
バツが悪くて目を逸らす。
「読んでたんだ」
「読んでませんっ」
「ふぅん?」
ニヤニヤ笑って私を眺めている。
実は笛レポートの一番最後は決まってベタ甘ワードで締めくくられてた。
眩しいほどのキラキラした言葉で目をくらませて、魂を抜き取るやつだ。
そんなの真面目に読んで、うっかり惚れたら大変だ。
「どうして結婚したいか、俺を好きになったら教えてあげるよ」
は――?
「逆じゃないですか⁉」
「逆じゃないよ」
(何を考えてるか全然わからない……)
あんな手間のかかる文ばっか送ってきて邸中の人間を篭絡して、さらに楽譜まで作らせて。
なんでそうまでして私と結婚しようとしてるのか。
「……」
「なに?」
疑り深い目でじっと見ていると、彼が楽しそうに聞き返した。
「実雅様は私のことが好きなんですか?」
彼はきょとんとして、次の瞬間吹き出した。
空気が揺れて、またいい匂いが届く。
「さぁ。どうだろうね」
彼が頬杖をつき目を細める。
(……むり)
なぜだかクラクラしてきた。
ぷいと知らん顔をしていると、彼が動いて空気が揺れる。
優しい声が耳をくすぐる。
「とりあえず今宵は一緒にいてくれる?小霧ちゃん――」
二人の間のじれったい距離が、さっきの熱を思い出させる。
彼の残り香に包まれたまま、そんなこと、気付かないふりをした。
<第一部完>




