閑話 とある少女の
子供の頃の自分は、貧しい生活をしていた。家はボロボロで、すきま風が酷く、お母さんと二人で身を寄せ合って眠らなければならなかった。
お母さんの収入だけでは生活することができず、私も働いていた。だってそうしないとご飯も出てこなかったから。昼間は大通りで野花を売り、日が暮れてからはお母さんのいない家で刺繍をやっていた。
普通に考えれば。その辺で摘んできた野花が売れるはずがない。なのに売れるのは私が可愛いからだ。と、気づくのにさほどの時間は掛からなかった。
普通に喋るよりは猫なで声の方が受けが良く。真面目な顔より笑顔の方が喜んでもらえた。
自分の見た目の使い方を実践で獲得していった、ある日。いつものように花を売っていた自分の元を『お貴族様』が尋ねてきた。
彼は自分の父親なのだという。引き取りに来たのだという。
ならば、いつもお母さんが言っていた『あなたは貴族の娘なのよ』、『いつか、立派な伯爵様が迎えに来てくださるのよ』、『今は意地の悪い正妻のせいで伯爵様も動けないけど、きっといつか……』という言葉は事実だったことになる。
私たちの家に案内しようとすると、伯爵様は庶民の街を歩くことを嫌い、執事さんを向かわせてお母さんを連れて来させた。
伯爵様の姿を目にしたお母さんは、朝帰りの仕事の疲れを感じさせない元気さで彼に駆け寄った。
「――伯爵様! お待ちしておりました!」
猫なで声。熱を帯びた瞳。あなたがいないと立っていられないわと言わんばかりに身体を預けつつ、あらゆる単語を使っての褒め言葉を並べ立てている。
そんなお母さんの態度に満足なのか伯爵様も嬉しそうな顔をしている。
あぁ、そうか。
私も、ああいう風にすればいいのか。
学びを得た私はそのまま伯爵邸に連れて行かれたのだった。
◇
伯爵邸に到着すると、私より少し年上の少女が出迎えてくれた。
くすんだ茶髪。格好悪いビン底眼鏡。伏せ目がちなせいか顔もよく分からない。
「……ちっ、相変わらず暗い女だ」
伯爵様の冷たい声。冷たい目。
彼は伯爵なのだからとっても偉くて、とっても素晴らしい人物であるはず。
そんな彼から忌み嫌われるこの少女は――きっと、悪い子であるに違いない。
「おい執事。顔見せは終わりだ。さっさと別邸に押し込んでおけ」
「……はっ、承知いたしました。ではお嬢様、こちらへ……」
中年の執事に連れられて、眼鏡の少女はどこかに行ってしまった。
あとで聞いた話によると、あの少女は伯爵の娘でありながら、本邸ではなく別邸に押し込まれているのだという。伯爵様はあの子の話題を出すと不機嫌になるから詳しい話を伺えなかったけど、きっと『悪い子』だから別邸で反省させられているんだ。私はそう判断した。
◇
私の『義姉』であるというあの子は別邸でどんな暮らしをしているんだろう?
お母さん――いや、お母様が毎日『躾』をしているのに、許されて本邸に戻る気配はない。いったい何があればそこまで『悪い子』になれるのだろう? 興味を引かれた私は夜中にこっそりと別邸に足を運んだ。
別邸はとても古い建物だった。壁には蔦が這っているし、窓が割れているところがあった。
貴族の令嬢が住むべき場所ではない。どんな悪いことをすれば、こんな建物に押し込まれてしまうのだろう……?
玄関の鍵はいつも閉めていると聞いていたので、玄関には向かわずに窓辺を目指す。
身長が低い私でも、なんとか窓の外から中を覗き込むことができた。
奇跡か、運命か。窓から見える部屋にはあの子がいた。
くすんだ茶髪。格好悪いビン底眼鏡。自信なさげに曲げられた背中。
――それが、変わった。
リボンを解くと茶色かった髪が銀色に変化した。
眼鏡を取るとその美貌が露わになった。
背中も真っ直ぐに伸び、その姿は自信に溢れているような気さえする。
――美しい人だった。
お母さんより綺麗で、私なんかより綺麗で。きっと、世界で一番綺麗な人だった。
こんなにも美しい人が、可愛がられることもなく、こんな別邸に押し込まれているのだから……やはりとても悪い子に違いない。
もったいない!
あんなにも綺麗な子なのに! 悪い子であるせいで愛されていないのだ!
愛されるようになればあの子と一緒に本邸で暮らせる! あの子と一緒に可愛がってもらえる! なによりあの子が本物の姉になる!
それはきっと、きっと素敵なことだ!
(私も頑張って、お姉様を良い子にしてあげなくちゃ!)
幼い私はそう決意し、お母様の真似をして、お姉様の『躾』をするようになった。
何年かするとお父様とお母様は毎日ケンカするようになった。原因は様々だったけど、お姉様のことで言い争うことも多かった。
二人がケンカをすると、眠れない。
ケンカの原因は、お姉様。
お姉様が良い子になれば、ケンカの数も少なくなるはず。
いいや、お姉様が良い子になれば、またあのときのように幸せな日々がやって来るのだ。
そう確信した私はさらにお姉様への『躾』を増やしていった。もちろん、お姉様は優秀だから、もう躾けることなんてほとんど残っていなかったけれど。
私にはもうできることはなく。
お姉様も私に対して冷たい目を向けてきて。
もう躾けられることもないのに、まるで良い子にならないお姉様を見るのが辛くて、私たちは疎遠になっていった。
……お姉様からしてみれば、そもそも疎遠になるほど親しくもなかったのだろうけど。
◇
お姉様は貴族学園に入学すると同時に家を出た。しかも、下級貴族のために用意された寮で生活するという。
お父様は「我が家の恥だ」と入学させるのを渋っていたけれど、貴族の義務なのだから仕方がなかったらしい。
伝え聞こえてくる学園でのお姉様は『優秀』の一言だった。王太子殿下と一緒に仕事をして。生徒会役員に選ばれて……。お母様は「媚を売っているに違いない」と憎々しげだったけれど、お姉様も媚の売り方を知っていたのだろうか? 私に対してはいつも冷たく、会話の受け答えすらしてくださらないのに。
そんなお姉様が学園を卒業し、アルバート様と婚約した結果。お父様は私にも高位貴族との結婚を望むようになった。詳しいことは分からないけれど、公爵家からかなりの資金援助があったみたい。
お父様とお母様に勧められるまま私は王宮に通うようになり、殿下や側近の方たちに媚を売るようになった。
でも、彼らと結婚をしたいわけではなかった。どうせ結婚をしてもお父様とお母様のように毎日ケンカするのだから、結婚生活に夢なんて持てなかったのだ。
だから、私が王太子殿下やアルバート様に言い寄った目的は――ただ、お茶でも飲みながら学園でのお姉様のお話を聞きたかったのだ。噂からするとお姉様は『良い子』になったみたいだから、どんな風に変わったのか知りたかった。
そう期待していたのに。
お姉様はアルバート様との婚約を破棄されてしまったのだという。
どうせお姉様が悪いんだろうな、と私は確信を抱いた。
顔を合わせればこちらを心底バカにしたような目をして。
気の抜けた返事で言葉すらまともに交わそうとせず。
視線をこちらに向けてはいても、心はこちらに向けてくれなかった。私のことを見ようとはしなかった。
なにより、あのとき以来、私に真の姿を見せてくれていない。家族であれば、本当の家族であれば、隠し事なんてしなくていいはずなのに……。
そんなお姉様だから、どうせ、アルバート様のことも不愉快にさせていたのだろう。あぁ、なんて可哀想なアルバート様! 一緒にお茶飲みながらお姉様の愚痴を話し合いましょう!
しかしアルバート様たちは私を相手にせず。それはまるでお姉様が私に向ける態度のようであり。不愉快になった私は苛つきを抑えながら待たせていた馬車に戻った。
学園時代。クルード様やアルバート様はお姉様と親しく交流していたと聞いているのに、自分に対してはなんて冷たいことだろう。あるいはあの冷たさによって類が友を呼んだのだろうか?
「ねぇチェシャ、どう思う?」
「そうですね、やはりお嬢様の美しさに照れているのではないでしょうか?」
「そう? でもお姉様とは学園で親しくしていたのでしょう?」
お姉様の美しさは私を超える。なのに、私相手には照れて、お姉様相手には照れずに親しくできていたなんてことがあるのだろうか? だとしたら見る目がなさ過ぎる。
「シャーロット様は、あの見た目ですから。殿下たちも哀れんで仲良くしてくださっていたのでしょう」
「見た目……。そんなものかしら……?」
お姉様の美しさを理解できない? どうして? チェシャも元々は伯爵家のメイドなのだからお姉様の美しさは知っているはずでしょう? まさか庶民にはあの美しさが理解できないの?
私が首をかしげていると、チェシャが今思い出したかのように両手を叩いた。
「そうでした。とうとうシャーロット様が伯爵家から追放されるそうですよ?」
「ほんと!?」
「えぇ。これで伯爵夫人の寵愛はますますお嬢様に注がれるでしょうね」
チェシャのおべっかなんてどうでもいい。お母様なんて私をお父様のご機嫌取りの道具としか思っておらず、今では高位貴族に嫁入りさせて、金をせびることにしか興味がないのだから。
「わぁ! わぁ! 素敵だわ! お姉様はもう伯爵家に戻らないのね!? お父様やお母様に顔を見せないのね!」
そうすればもうお父様とお母様もケンカしないはずだ。きっと、きっとそうに違いない。静かで穏やかな夜が訪れるのだ。
「素敵! 素敵だわ! これでやっと平穏が訪れるのね!」
二人がケンカをしなくなればぐっすり眠れる。静かに眠れる。もう布団を被って眠りに落ちるまで震える必要もない。お姉様が伯爵邸からいなくなれば……。
あれ? でも、お姉様はもう伯爵邸にはいないはずで……?
いない?
お姉様がいないのにお父様とお母様はケンカをしているの?
いや、まさか。そんなはずはない。お姉様がいるから二人はケンカをしているはずなのだ。最初はお姉様に関連した話題で言い争いをしていたはずなのだ。今はお金とか浮気のことでばかりケンカしているけど、お姉様がいなくなれば原因もなくなるはずなのだ。
あれ、でも、おねえさまは もう はくしゃくけに いないのに……?
…………。
………………。
……………………。
深く考えちゃいけない。
私の頭の中で誰かが囁いた。
お姉様が追放されれば、そのおかげでうちに平穏が訪れるのだ。それは決定事項なのだ。それを希望として今まで耐えてきたんじゃないか。そうでなければ今まで我慢してきた意味がなくなってしまう。
そう、お姉様が追放されれば……。
追放されれば……。
「……あら? でも伯爵家を追放されたらお姉様はどこに行くの? アルバート様からのところも追い出されてしまったのでしょう?」
「大丈夫でしょう。シャーロット様は庶民に混じって花屋を始めたそうですし」
「はなや?」
「えぇ。公爵家から追い出されるときに金をせびったのでしょうね。まったく情けない……」
私のお姉様がそんなことをするはずがない。不愉快なチェシャの発言は手を叩いて中断させる。
「――そうだわ! 伯爵家から追放されたことを、お姉様に教えてさしあげましょう!」
「……いえ、それは。お嬢様が街に行くことを伯爵も許さないでしょうし……錯乱してお嬢様に危害を加える可能性も……」
「こっそりと行けば平気よ。ふふふっ、楽しみだわぁ。お姉様はどんな顔をするかしら? 悔しがってくれるかしら? 睨み付けてくれるかしら? もしかして負け犬みたいに汚い言葉を投げつけてくだっさったり? うふふっ、あのすまし顔が剥がれたら、どんな表情を見せてくださるのかしら? 楽しみだわぁ。とっても楽しみだわぁ」
そうすれば。
お姉様は、私を見てくれる。私だけを見てくれる。あの綺麗な瞳で。面倒くさがることもなく。お姉様の視界を私で占有できるのだ!
「……ご随意に」
その光景を楽しみにする私は、チェシャの呆れたようなため息には気づかなかった。




