ご隠居様
「着いたよ」
自己紹介とか簡単な会話なら喋っても大丈夫だと思う、と依は言って足を止めた。
柊月は思わず息を呑んだ。目の前にはまるで時代劇に出てくるような、大きく立派な日本家屋がある。表札には『境』と書いてあった。
「一緒に住んでもらえないか聞いてみるね」
「ありがとう、依…」
まだ事態を把握出来てなどいない。それでも依が自分のために行動をしてくれていることだけは分かった。
その時ガサガサと背後から音が聞こえた。草や葉が揺れ動く音だ。2人は同時に振り返る。庭の草むらの中から人が出てきた。
「え」
柊月が驚きの声をあげると、
「あ、ご隠居様」
と依が言った。ゴインキョサマ?
聞き慣れない言葉に、柊月は頭の中でクエスチョンマークを浮かべた。
「ただいま帰りました、ご隠居様」
「ん…あぁ、お帰りなさい」
現れたのはメガネをかけた白髪の男の老人だった。歳は80代くらいだろうか。服にはところどころ葉っぱが付いていた。
とりあえず挨拶した方がいいかと柊月は軽く頭を下げた。
「こ、こんにちは」
「あぁ、はい、こんにちは。…友達?」
「はい、私の友人の柊月さんです」
「…」
友人から名前にさん付けで呼ばれたことなど一度も無く、柊月は少し恥ずかしくなった。
「そうか、いらっしゃい。どうも境です。中へどうぞ」
老人はガラガラと扉を開けて2人を手招きした。
和室の居間に通される。柊月はどこに座ればいいんだろうと戸惑ったが、依がこっちだと手招きした。
そのまま柊月は座布団に座ると、先ほどご隠居様と呼ばれていた境が2人にお茶を出した。依は膝を少しずつ移動させながら座布団に座った。湯呑みには温かいお茶が入っている。
おじいちゃん、おばあちゃん家のようだなと思いながら柊月は境にありがとうございますと伝え、お茶をゴクっと飲んだ。お茶は今までも飲んだことのある味で美味しく少し安心した。
依は軽くお茶を口に含んですぐ境に話を切り出した。
「ご隠居様、お話があります。柊月さんも一緒にここで暮らせませんか?」
依はそう言って頭を下げる。柊月も湯呑みを置いて同じように頭を下げた。慣れてない正座で足が痺れていく予感がする。
依は正座の体勢を崩すことなくそのまま話を続けた。
「実は柊月さんも私と同じ世界から突然こちらの世界に来てしまったのです」
「同じ世界から?」
境は突拍子もない話を真面目に聞いていた。
「はい、信じられない話かと思われるかもしれませんが、元の世界で私たちは友人だったのです。過去の私と同じ状況にある彼女を私は見捨てられないのです」
依の言葉に柊月は少し泣きそうになる。もっとも足が痺れてきて泣きそうにもなった。
話してはいけないとは言われても友人の優しさに応えたい。そして、喋って痺れをどうにか紛れさせることはできないだろうかと期待も込めて柊月は口を開いた。
「ど、どうかお願いします」
「はぁ…記憶喪失というわけでも無さそうだし、不思議なことがあるもんだ」
境はそう言うものの、大して驚いてなさそうな表情をしていた。
「同じところから来たということは、こっちの生活にはかなり戸惑うことになるかもね」
言葉とか、と境は付け足した。思わず柊月は依を見る。依も柊月に目配せしてコクっと軽く頷いた。驚いて少し足の痺れから意識が逸れた。
境はタバコに火をつけて吸い始めた。
タバコを目の前で吸って欲しくない。ましてや未成年の前でと柊月は思ったが、頼み事をしている手前文句は言えず表情を変えないよう努めた。タバコへの嫌悪感で足の痺れが薄れてきた気がする。
「その…元いた世界へ帰る方法は分からないの?」
「分かっていたら今ここにいません」
「そりゃ、そうだ」
境はフッと軽く笑った。タバコの煙が部屋に漂う。
「まあ、大丈夫なんじゃないかな。伝えとくよ」
境はあっさり答えた。身元の分からない人間を突然家に住まわせてもいいと許可するとは、頼んだ側とはいえ柊月は驚いてしまった。だが受け入れてくれるということにやはり安心した。足の痺れの感覚が無くなっていく。
「本当ですか!ありがとうございます!」
依は嬉しそうにお礼を言い、柊月も驚きながらも
「あ、ありがとうございます」
と再度頭を下げた。足の痺れは完全に収まっていった。
「改めて境と言います。どうもよろしく」
「よ、よろしくお願いします。柊月と言います」
「とりあえず今日は休みな」
疲れたでしょ、と境はまたタバコを吹かしながら言う。
「まあ決めるのは俺じゃなくて娘たちなんだが…」
境はぼそっと呟いた。
部屋に連れてってあげてと言われ、廊下を歩きながら柊月は依に問う。
「ねぇ、ゴインキョサマって…」
「前はこの家のご主人様だった人だよ」
依は大雑把な説明をした。
「ご隠居様はいつも虫とか草とかいじってるんだよね」
「…?」