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7月 ビアガーデンで誕生日会

 梅雨真っただ中の夕方。貴重な晴れ間を惜しむかのようにビルの屋上に集う人々。目の前には小さな卓上グリル。そしてビールとともに運ばれてくる肉。

 ジョッキを手に持ち、普段なら「乾杯」と発声するところだ。だが今夜は違った。

「誕生日おめでとう!」

 カチンとジョッキをぶつけて、ぐっとビールをあおる。屋外で飲むビールはまた格別だ。

「今日晴れたのは、真也のおかげだな」

 鈴木さんが笑う。

「はい、俺のおかげです」

 俺も冗談交じりに笑う。

 前述の通り、梅雨真っただ中だ。一応この日に会う約束はしていたものの、実現するか否かは神のみぞ知るところだった。というのも車椅子生活の俺は、雨の日の外出が困難だからだ。だから、雨が降ったら中止にする予定だった。どのみち雨なら中止ということで、俺たちは屋外のビアガーデンに行こうと話していたのだ。

 朝、目が覚めたら見事な晴れ。天気予報でも、日づけが変わるくらいまではこの晴れ間は続くと言っていた。結果、俺たちはビアガーデンに来ることができた。

「でも真也と俺、二日違いの誕生日だったなんてな」

「俺もびっくりですよ」

 俺は七月七日、鈴木さんは七月五日が誕生日だ。そして今日は七月七日、七夕。さっき鈴木さんが俺のおかげだと言ったのは、そういったことに由来している。俺は空を見上げた。まだ星は見えないが、織姫と彦星に向かってよかったなと胸のうちでつぶやいた。

 ビアガーデンの入り口には笹が飾られていて、今夜の客には短冊が配られた。俺たちオッサンふたり組にも平等に配られたので、早々と書いて最初の注文の時にスタッフに渡した。渡す前に鈴木さんと見せ合ったら、ふたりとも「これからも健康で夫婦仲よく過ごせますように」と書いていて、自分たちらしいと笑った。

 さっそくグリルに豚肉をのせる。俺たちは食べ放題のコースから、豚肉がメインの韓国風焼肉をチョイスした。

「鈴木さんは、誕生日の当日は舞さんとお祝いしたんですか?」

「うん。俺たち毎年お互いの誕生日は、ちょっといいとこで食事するんだ。今年は結婚記念日に行ったとこに、もう一度行ってきた」

 鈴木さんが結婚記念日に行った店というのは、俺とともに下見に行ったカジュアルイタリアンの店だ。俺もよく覚えているが、とにかく料理が絶品で、俺も香織さんとの記念日に利用しようと密かに思っている。

「どうでした? 相変わらず美味かったですか?」

「美味かったぞ。今回はコースじゃなくてあえて予約もせずに行ったんだけど、俺たちのことを覚えていてくれた店員さんがいてな……」

 鈴木さんたちが普通に訪れて普通に注文したら、「確か、結婚記念日で訪れていただきましたよね」と声をかけられたのだという。店員のプロ意識に感激した鈴木夫妻は、すこぶる気持ちのよい時間を過ごすことができた。

「特に舞はスーパーで働いてるじゃん。だから余計に接客に感動したってさ」

「あぁ、何となくわかります。俺もスーパーでなじみの店員さんがいたりして、覚えてくれると嬉しいから」

 俺が普段利用するみなとスーパーには顔なじみになった店員がいて、訪れると気さくに話しかけてくれる。あの事故とともに仕事という社会との関わりを失った俺にとっては、そうした小さな関わりこそが社会との結びつきを紡ぐ細い糸だった。

 鈴木さん自身もみなとスーパーに商品を配送する運送会社の社員だ。顔をほころばせる。

「そっか。なら俺も嬉しい」

 グリルでは豚肉がいい感じに焼けている。俺はトングでつかみ、鈴木さんの取り皿に入れる。次いで、自分の取り皿にも。

 タイミングよく、スタッフが注文していた料理を運んでくる。レタスと韓国海苔のサラダ、キムチ、ナムル盛り合わせ、韓国風冷奴。

「そういう真也は? 今日は増井先生、忙しいの?」

「そうなんです。今日は香織さん、ちょっと大変な手術が入ってるって」

 香織さんは優秀な麻酔科医だ。麻酔科の医師はきっちりと交代制でほとんど残業がないが、今日のような難しい手術が入っている日は帰宅がいつになるかわからない。いや、それは仕事に真摯な香織さんだからだ。香織さんだから、患者の容態が気になって帰宅できないのだ。

「そっか。ちょっと残念だな」

「えぇ。けど、当日じゃないとだめっていう歳じゃないし」

「そりゃそうだ」

 どんどん肉を焼く。サムジャンをのせて食べると美味しい。サムジャンに飽きると、ねぎ塩だれだ。そして合間にキムチやサラダ、ナムルをつまむ。

「来週の休みに、ふたりで焼肉に行こうかって話してるんですよ」

「続くな、焼肉」

「今日鈴木さんとここに来るって言ったら、『ずるい』って」

 韓国風冷奴は豆腐の上に韓国海苔と白髪ねぎがのっていて、ごま油がかかってあった。いいおつまみだ。ビールが進む。俺も鈴木さんも、二杯目のビールを注文した。

「まぁ、たまにはいいじゃんな」

「はい。俺が前みたいに引きこもることもなくなったって、喜んでくれてるし」

「やっぱ身体が変わると、世界も変わるからな」

 鈴木さんは左の鎖骨あたりに触れる。

「俺もペースメーカーを入れてすぐは、外に出るのが怖かったよ」

「鈴木さんもですか?」

「うん、見た目が変わらないからこそ余計にな」

 鈴木さんの場合、他人の視線が気になるのではなく、他人の行動が怖かったという。

「前から歩いてくる人がぶつかってきたらどうしようって、そんなことばかり考えてた」

「なるほど……。その点、俺の場合は向こうから避けてくれますもんね」

「確かに真也にぶつかっていく人はいないわ」

 はははっと鈴木さんは笑ってくれた。俺も笑い飛ばしてくれて嬉しかった。

 ビールを持ってきたスタッフに、料理を注文する。海鮮チヂミ、トッポギ、そして豚肉。

「ってかさー、増井先生って誕生日プレゼント何くれるの?」

 俺は着ているTシャツの胸のあたりの生地をつまんで言った。

「服です。これ、去年のプレゼントです」

「へぇ。けっこういい趣味してんじゃん」

 くすんだオレンジ色のシンプルなTシャツだが、右胸にポケットのついた珍しいデザインだ。俺は外出する時ボディバッグを左肩に斜めがけにするので、右胸にポケットのついたものを探してくれたのだ。

「はい。気に入ってます」

「増井先生って私服の時もきれいめだよな。俺、一度見たけど」

「そうですね。スタンドカラーかスキッパーのシャツに、きれいめパンツ」

「もしかして、持ってる服全部そんな感じ?」

「そうなんですよ。同じ形で色違いのを何枚も持ってて、仕事の時はそれを着回してます」

「期待を裏切らない増井伝説……」

 研修医の頃に親しくなった若い女性の患者さんにそういうのが似合うと言われてから、香織さんはそのスタイルになったらしい。

 ビールを飲んでは焼けた側から豚肉を取って食べながらそんな会話をしていたら、料理が来た。

「来た来た、トッポギ」

 嬉しそうにそう言って、鈴木さんはトッポギを取り分けて頬張った。

「好きなんですか?」

「うん。この甘辛い味がたまんないんだよな」

 俺は海鮮チヂミに手をつける。イカとエビとアサリが入っていて豪華だ。豚肉もグリルにのせた。

「で、家での増井先生は?」

 どうやら鈴木さんは、香織さんの生態に興味津々なようだ。まぁ無理もない。

「普通にジーンズとかも穿きますし、Tシャツとかも……。あ、けど冬になると俺の服を着たりとか」

「寒い頃に真也が着てたパーカーとか?」

「えぇ。俺の匂いがついてるし、あったかくていいって……」

「匂い!」

 鈴木さんが大いにのけぞった。俺はトッポギを少し分けてもらう。なるほど、甘辛いタレが癖になる。

「大きなパーカーがいいんなら、メンズのを買ったらいいじゃんって言ったんですよ。だけど、それじゃだめなんだって。俺が一度着たやつがいいんだって」

「じゃあ、枕とかもうざがられない……?」

「はい。俺が肺炎で入院すると、俺の枕で寝てるみたいで……」

「いいなぁ。俺なんか、加齢臭がするって、この前舞に言われて……」

「けど、舞さんのことだから、何だかんだ言ってこの匂いも好き、とか言われたんじゃないですか?」

 俺は「好き」のあとにハートマークを意識して言った。

「うん、ちょっと言われた」

 かわいいオッサンに変身した鈴木さんが肉を頬張る。

「ってか、鈴木さんは? 鈴木さんは、この前の誕生日、何をもらったんですか?」

「財布がくたびれてたんだ。だから新しいのを買ってもらった」

 そう言って、鈴木さんは片尻を浮かせてポケットから財布を取り出して見せてくれた。真新しいこげ茶色の財布が誇らしげに存在感をアピールしている。

「そういうのって、一緒に買いに行くんですか?」

「うん。俺たちはだいたいお互いのプレゼントも一緒に買うなぁ」

「へぇ。俺んとこはサプライズです」

 グリルから肉を取る。だが、そろそろ豚肉にも飽きてきた。

「鈴木さん、豚肉飽きません?」

「確かにな。鶏にするか」

 メニューにチーズダッカルビがあったので、それを注文した。つまみはチャプチェで、ドリンクはまたしてもビール。ドリンクのメニューが豊富ではなかったため、俺も鈴木さんもビールでいいやということになっていた。

 いつの間にか太陽は沈み、空全体に占めるオレンジ色の領域は徐々に狭くなって藍色が幅を利かせていた。こんな街中では天の川は見えそうにないが、今夜は織姫と彦星も逢瀬を楽しむことができるだろう。

 俺につられて鈴木さんも空を見上げる。

「見事な空だな。この時期にしては珍しい」

「俺のおかげです」

「そうだったな」

「俺、この時間帯の写真を撮るのが好きだったんですよ」

 気づいたら、言葉が勝手に口をついて出ていた。そんな自分に一瞬戸惑うが、目の前にいるのが鈴木さんだから、俺は大丈夫。

「へぇ~。真也、写真とか撮るんだな」

「はい。俺、写真が趣味なんです」

 笑ってそう言ったが、本当は趣味なんかじゃない。写真は本業だった。

 事故に遭う前、俺はカメラマンだった。小さな写真事務所に所属していた俺は、主に衣料品も扱うスーパーマーケットのチラシに掲載する写真を撮っていた。

三流モデルを撮影する三流カメラマンの俺。だが俺のしたい仕事はそんなものではなかった。俺は風景写真家になりたかった。だから俺は本業のかたわら、時間をひねり出しては各地へ赴いて風景写真を撮り続けていた。事故に遭ったのは、風景写真を撮りに行った帰りのことだった。

 そんな事情を知らない鈴木さんは無邪気に言う。

「じゃあ、目の前の料理を映えるように撮ってみてよ」

 俺はボディバッグからスマホを取り出して、料理ではなく、ビアガーデンに灯るランタンの光と藍色の空を撮った。日没後の世界を暖かく照らす優しいオレンジ色のあかり。適度に人物を入れて、夜の始まりを表現した。

 鈴木さんにスマホを手渡す。その画面をじっと見つめる鈴木さん。そして、落ち着きなくビールを飲む俺。テーブルの上には、いつの間にか運ばれていたらしいチーズダッカルビとチャプチェ、新しいビール。

 チーズダッカルビは調理済みで来るのかと思っていたが、違っていた。味つけされている鶏肉とアルミの器に入ったチーズで提供された。鶏肉とアルミの器をそれぞれグリルにのせて、焼けた鶏肉を溶けたチーズにつけて食べるものだった。

 俺がグリルに鶏肉を並べていると、鈴木さんがスマホを手渡してきた。それを受け取る。

「何か俺、心を揺さぶられた」

「適当に撮った写真ですよ」

 俺はへらへら笑う。それなりにアングルを意識してはみたものの、あくまでお遊びのつもりだった。

 だが鈴木さんは俺の目をしっかりとのぞき込んで言う。

「真也、才能あるよ。俺、全然詳しくないけど、この写真見て、泣きそうになったもん。何だろうな、よくわかんないけど、切なくて胸が締めつけられるみたいな……」

「そう……ですか」

「うんうん。プロが撮った写真みたいだ」

 そう言ってまだ焼けていない鶏肉を箸でつかもうとする鈴木さんを、慌てて制する。

「ちょっと、今置いたばかりですって!」

「えっ。そうなの?」

 俺はさっきの鈴木さんの言葉を反芻する。心を揺さぶられた、泣きそうになった、切なくて胸が締めつけられる……。

 同時に、カメラマン時代、撮った風景写真を見てもらった時の、事務所の所長の言葉が脳裏によみがえる。テクニックとしては優れているがいまいち響くものがない、お前の写真には何かが足りないんだよな……。

 プロとして活動していた頃にはなかったが、一線を離れた今だからこそ込められるもの。それがもし、テクニックではなくてもっと大切なものだとしたら。俺に欠けていたものが少しわかったような気がした。

「そろそろいいかなぁ……」

 鈴木さんが俺の顔色をうかがうようにして尋ねた。鶏か、と俺は我に返る。しっかりと焼けているかトングでひっくり返したり押さえつけてみたりして確認した。アルミの器のチーズもいい具合に溶けている。

「はい、焼けてます」

 鶏を箸でつかみ、チーズにつけてから取り皿に取る。そして、熱そうなので慎重にかじる。甘辛い味つけとからまるチーズがたまらない。舌の上ではふはふと転がしながら味わった。

 唐突に鈴木さんが言った。

「でさ、増井先生の誕生日には、何をプレゼントするの? ってか、増井先生が喜ぶものって何?」

 さっきの話題が思ったよりも早く終わったことに、安堵半分落胆半分。だが、さらっとしている鈴木さんだからこそ、俺は思いがけない本音を打ち明けることができるのだ。

「俺も服です。きれいめ以外の、休みの日に着てほしい服」

 香織さんが休日に着ているジーンズやTシャツなどは、俺がプレゼントしたものだ。つき合い始めた当初は、きれいめの服しか持っていなかった香織さんだ。

「何年もかけて、少しずつ真也好みの増井先生にしていくわけか……」

「そんな大げさなもんじゃないですけど。だけど、香織さんに似合うだろうなっていう服を探すのが好きなんですよ」

 スーパーマーケットの衣料品ではあるが、一応服飾関係の撮影をしていた俺。多少は洋服の知識があるし、洋服を探すことが好きなのだ。

「ダメージ加工のジーンズを贈ったりとか。それが意外と似合うんですよねぇ……」

「にやけてるぞ、真也」

 えへへ、と笑い、俺はチャプチェを食べる。野菜がたっぷり入った韓国風春雨炒めだ。チャプチェの素は買い物の時に目にするが買ったことはなかったので、今度買って作ってみよう。

「でも、俺も増井先生のロックっぽい姿を見てみたいかも……」

「俺だけの香織さんなんで」

 鈴木さんは、苦笑したかと思うと腹をさすって言う。

「もう俺、肉はいいや。腹いっぱい」

「俺もです。ご飯もの、いきますか」

 ピビンパか冷麺で迷ったが、やはり両方注文して取り分けることにした。最後のビールとともに注文する。

「調子に乗って二種類も頼んだけど、食えるかな……」

「大丈夫です。俺、まだいけます」

「さすが若いな」

 そんな会話をしていたら、最後の料理が届いた。心配そうにしていた鈴木さんも、美味しそうなピビンパと冷麺を見て瞳が輝いた。

 またビールで乾杯し、取り分けた締めの料理を食べる。

 俺は、ピビンパから口をつけた。肉そぼろ、大根とにんじんのなます、ほうれん草のナムル、山菜のナムルがのったピビンパは、スタッフが混ぜてくれた。いろいろな味と食感が楽しめるピビンパなので、あっという間に食べ終える。

 続いて冷麺。牛骨ベースのスープに、牛肉を甘辛く煮たものと茹で玉子、キュウリやキムチがのっている。こちらはあっさりとしていて、まさしく締めにふさわしい一品だった。

 ビールも飲み干し、俺たちは帰宅することにした。

 ボディバッグからスマホを取り出して確認をする。メッセージアプリに通知があり、俺は思わず安堵のため息をもらした。

「どうした? 増井先生からか?」

「はい。患者さんの容態も落ち着いて、帰ってこられそうって」

「そっか。よかったな」

 この分だと、俺と香織さんの帰宅は同じような時間になりそうだ。最寄りの駅で鉢合ったらおもしろいかもな……。

 そんなことを考えつつ空を見上げる。ランタンの明るさで星は見えなかったが、逢瀬を楽しむ織姫と彦星の姿が俺には確かに見えた。

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