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5月 スペインバルで立ち飲み

 これまで店選びは鈴木さんに任せ切りだった俺だが、今回初めて自分で店探しをして自分で予約を取った。

 店を決めて鈴木さんにメッセージアプリで知らせたところ、何だかすごく心配されて、返事が電話で返ってきた。

『真也、本当に大丈夫か?』

「大丈夫ですよ。ちゃんと店にも確認しましたし。そしたら、全然問題ないって」

『それならいいんだけど……』

 鈴木さんが心配するのも無理はない。というのも、俺が自分で選んだ店というのが、立ち飲みの店だからだ。

 先月の沖縄料理店で、俺は鈴木さんに叱られた。できないことをできないと決めつけるなと。そして、今の自分にもっと自信を持てと。

 厳しい言葉に、最初こそ俺は反発した。だが、鈴木さんの言うことはもっともだ。俺は自分で自分の限界を決めていたことに気づかされた。そして何よりも、自らも心臓に爆弾を抱えていてペースメーカーを植え込んでいる鈴木さんの言葉だからこそ、余計にリアリティをともなって俺の胸に刺さったのだ。

 車椅子でしか移動のできない俺が、よりにもよって立ち飲みの店で飲むこと。それは無謀で滑稽かもしれない。だが、俺が俺の殻を破るためには必要なことだった。

 沖縄料理店で鈴木さんは言っていた。「いざやってみると、何でもなかったんだなぁって」と。そして俺は、その言葉が本当のことだと知ることになる。

 いざ予約の問い合わせをした時は、心臓が飛び出るかと思った。車椅子の俺が立ち飲みの店に行きたいと言ったところで、しょせんただのエゴに過ぎないのではないかと。だが、電話を受けてくれた店員は、ごく普通の予約に対応するのと同じ扱いだった。むしろ、そんなことを気にしているのかと逆に恐縮されてしまったほどだ。

 俺には少し高く、鈴木さんには少し低いテーブル。それはまるで我が家の台所の作業台のようだ。店内を見渡してみると、周りのテーブルはもう少し高い。これは明らかに俺のために用意されたテーブルだが、それほど違和感を抱かない。

 はしゃいだ様子で、鈴木さんが言う。

「何か新鮮。俺、立ち飲みって初めてだからさ」

「俺も初めてで……。って、俺座ってますけど」

「ぶっ込んでくるねぇ、真也くん」

 渾身の自虐ネタに突っ込んでくれた鈴木さんに嬉しくなる。

 何はともあれ、とりあえずビールだ。低い位置にいる俺が挙手するのに、いち早く気づいて来てくれた店員に注文する。それと、タパスと呼ばれる小皿料理も数種類。

「でも真也、こんな店よく見つけたな」

 鈴木さんは立っているから、見下ろされるかっこうになる。だが、さほど気にならない。俺はこの高さでいいんだと気づかされたから。それに、俺は確かに見下ろされてはいるが、決して見下されているわけではないから。

「ネットで調べまくったんです。俺も、閉じこもってるばかりじゃだめでしょ?」

「おう。偉いぞ真也」

 立ち飲みの店だからか、料理の提供は早い。小さなテーブルはすぐにビールと料理で埋まった。牡蠣と根菜のアヒージョ、たことじゃがいものから揚げ、サーモンのエスカベッシュ、スペイン風オムレツ。

 乾杯をしてビールをあおる。のどから胃に落ちるアルコールが沁みる。

 鈴木さんが気を遣ってくれた。

「真也、取りにくくないか?」

「大丈夫です。俺んちの台所と同じような高さだから」

 俺はそう言って、手を伸ばして奥にある料理を取る。確かに少し不自由だが、腰をかがめないといけない鈴木さんも同じように不自由なはずだ。

「鈴木さんこそ、腰痛くないですか?」

「確かにちょっと……。でも、帰ってから舞に湿布貼ってもらうからいいや」

 へへっと鈴木さんが笑い、たこのから揚げにキュッとレモンを絞った。そして口に入れる。俺はサーモンを食べた。エスカベッシュとはいわゆる南蛮漬けだが、粒マスタードがきいている。

「相変わらず鈴木家はラブラブだなぁ」

「まぁな。そうだ、前から聞きたかったことがあるんだけど」

「はい。何ですか?」

 ビールをぐいっと飲んだあと、俺は鈴木さんを見上げた。

「増井先生って、休みの日は何してんの?」

 思いもよらない質問に、ふっと笑ってしまう。だが、確かに香織さんの休日は謎かもしれない。

「別に普通ですよ。昼まで寝てる時もあれば、ふたりでどっか行く時もあるし」

「へぇ~。ほんとに普通なんだ。おっ、アヒージョ美味い」

 鈴木さんがそう言うので、俺もアヒージョに箸を伸ばした。牡蠣のうまみもさることながら、にんにくの香りが移ったごぼうやかぶがいい仕事をしている。

「逆に鈴木さんは、どんな想像をしてたんですか?」

「一日中勉強してるイメージ。趣味なんかないっていうか、仕事が趣味を兼ねてるって感じ?」

「確かに暇さえあれば専門書を開いてますけど、ちゃんと人並みに寝るし食べるし出かけますって」

 独身の頃は鈴木さんの想像するような生活をしていたらしい香織さんだが、今は人間らしい生活を送っている。

 オムレツを頬張った。玉子とじゃがいものほかには赤色とオレンジ色と黄色のパプリカが入っている。じっくりと火を通されたパプリカが甘い。行ったことはないが、からっとしたスペインの陽気な空が思い浮かんだ。

「じゃあ、どんなとこに出かけるの?」

 鈴木さんはサーモンを食べてから、俺に質問をする。と思ったら、店員を呼んで追加の料理とアルコールを注文した。アルコールはせっかくスペインバルにいるのだからと、自家製サングリアだ。

 鈴木さんのせわしなさに苦笑しつつ、俺は答えた。

「うーん、たいてい外食と日用品の買い出しですねぇ。俺、あまり重いものとか持てないんで。あっ、そうだ。たまにふらっと車で遠出したりもしますよ」

「へぇ、いいじゃん。でもよかった」

 何がよかったのかいぶかしく思うが、料理とサングリアが運ばれたので会話はいったん中断だ。料理はマッシュルームの肉詰め、エビのガーリック炒め、アボカドのチーズ焼き。サングリアはピッチャーで運ばれた。なかなか壮観だ。

 サングリアをそれぞれのグラスに注いだ。漬け込まれているオレンジやキウイ、りんごも一緒にグラスに入ってくる。ふたたびサングリアで乾杯してから一口飲んだところ、赤ワインにフルーツのうまみが移っていて美味しかった。

 グラスを置き、俺はアボカドの半身を取った。半分に切ったアボカドの種の場所に玉子を割って、チーズをのせて焼いたものだ。二人前でアボカド一個分。

 そうだ、さっきの鈴木さんの言葉が気になる。

「で、何がよかったんです?」

 マッシュルームを口に入れた鈴木さんがきょとんとした顔をした。

「ん? ……あぁ、さっきの話ね。いやぁ、増井先生も人間だったんだなって。頭ん中に、机に向かう増井先生のもとにせっせとカレーを運ぶ真也の画が思い浮かんだから」

「何ですか、それ」

 俺の脳内にもその画が浮かんでしまい、しばらくふたりで笑った。

 ひとしきり笑ったあと、ふいに鈴木さんが真面目な顔になり、しみじみと言った。

「増井先生にとっても、真也と結婚したのがよかったんだな」

「どういうことですか?」

 香織さんは、鈴木さんがペースメーカーの交換手術を受ける際の麻酔科担当医でもある。だから、俺と知り合う前の香織さんを知っていてもおかしくはない。

 鈴木さんはサングリアを飲んでから、微笑みを浮かべた。

「竜崎先生だった頃の増井先生は、ちょっと冷たくてきつい感じだった。でも、去年担当してもらった時は、優しい感じになってた」

 ついにやけてしまった俺は、無言でエビをひとつつまんだ。唐辛子とにんにくのきいたエビは、ぷりぷりの食感だ。

「何にやけてんだよ」

「いやぁ……」

 照れ隠しに、マッシュルームを食べる。小ぶりなマッシュルームに肉だねをのせて焼いたもので、これもにんにくがきいている。

「喧嘩とかすんの?」

 鈴木さんに問われ、俺はマッシュルームを咀嚼してサングリアを飲んでから言った。

「うーん。そう言われてみれば喧嘩はあんまりしないかも。だけど、よく文句は言われますよ」

「文句? 何て?」

「『邪魔』って」

「邪魔?」

 鈴木さんが盛大にのけぞる。その姿を見て、俺は車椅子のひじかけに腕を乗せて笑った。

「俺、幅取るんで」

「それでも、よくそんなこと言うよなー。腹立たないか?」

 飲み終えたグラスに、ふたたびピッチャーのサングリアを注ぐ。そして、また飲む。

「そりゃ、最初はムカつきましたよ。『俺にそんなこと言う?』って」

「だよな」

「だけどね、ある日気づいたんですよ」

 俺はふたたびぷりぷりのエビを食べた。それにしても、今夜はにんにくを使った料理が多い。家に帰ったら「にんにく臭い」と文句を言われるのだろうか。もしそう言われたら、明日の晩ご飯はにんにくをたっぷり使った料理を作って、ふたりでにんにく臭くなろう。

「一緒に暮らしてるんだから、変に気を遣われるよりもずっと楽だなって」

 今度は、鈴木さんがうなった。

「確かになぁ……」

「鈴木さんも、そんなことないですか? ペースメーカーのこと、過剰に心配されたらイラつきません?」

「あっ、確かにそれはあるかも」

 ひとりうなずき、鈴木さんがサングリアを飲んだ。

「俺もそうだ。バランスよく食べろとか夜更かしするなとか舞に言われるけど、全然嫌な気にならないもんなぁ」

 あれ?と俺は思う。俺ならそんなことを言われると、口うるさいと反発してもおかしくないと思うが……。

「鈴木さん。俺ならちょっとうるさいって思っちゃうけど……」

「そうか? 俺は逆に『邪魔』って言われた方が、立ち直れない……」

 価値観の違いというやつか。だがお互いにそれで夫婦仲がよくなるのなら、いいのではないか。

「俺たちふたりとも、奥さんと相性がよかったっていうことですね」

 ここで、料理とアルコールを注文することにした。アリオリポテト、豚肉の串焼き、にんじんのマリネ。ご飯ものを食べていなかったので、ガーリックトーストも追加する。アルコールはシードラと呼ばれるりんごの発泡酒だ。

「で、そういう鈴木家は休日には何をして過ごすんですか?」

「俺たちさ、ふたりともシフト勤務だから、なかなか休みが合わなくて。だから、休みが合う日は張り切っていろいろ計画立てたりするんだ」

 ふと、今日はどうだったのだろうと不安になった。

「今日は、大丈夫だったんですか?」

「うん。今日はあいつ遅番だから、都合よかった」

 俺は、安堵とともに運ばれてきた料理に手をつける。二本の串焼きのうち一本を取って、豚肉を頬張った。想像していた味とは違って、マリネされた豚肉を焼いたものらしい。これは俺にはなかった発想で、とても美味しい。

「よかった。俺が鈴木家の貴重な休みを邪魔するわけにはいきませんからね。それで休みの日、どうやって過ごすんですか?」

「いやぁ、真也んちと同じ感じだよ。車でちょっと遠出したり、美味いものを食べに行ったり。その日のために、ふたりとも仕事頑張ってるって感じでさ」

 幸せそうに目尻を下げて語る鈴木さん。俺まで嬉しくなる。嬉しくて、シードラをあおった。りんごで作ったワインのような味わいだ。

「俺も香織さんと、ずっとそんなふうに過ごしたいな」

 かわいいオッサンになった鈴木さんが串焼きを頬張って、変な顔をする。

「何だこれ?」

「あぁ、マリネした豚肉を焼いたんですね」

「食べただけでわかるのか。さすがだな」

 今度は俺が照れ臭くなる番だ。俺が香織さんとの生活の中で、唯一自信を持つことができるのが料理に関することだから。

「鈴木さんは、舞さんが仕事の日とか、料理はしないんですか?」

 鈴木さんがアリオリポテトを食べてシードラを飲んでから、やや首をかしげて言った。

「別にやらなくていいって言われてるし……。それに俺、料理したことないし。真也的には、俺もやった方がいいと思う?」

「うーん、俺はどっちかと言えば台所をほかの人に触られたくないんですよ。調理器具が勝手に動かされてると、イラっとするし……。だから舞さんもそのタイプなら、やらなくていいんじゃないですか?」

 安心したように鈴木さんが言った。

「だよな。俺、これでも舞が仕事の日は、掃除とかやってるんだ。といっても、夫婦ふたりだからそんなに汚れないけどな」

「なら、バランス取れてるんだと思います。俺もできる範囲で掃除もしますし」

 にんじんのマリネにはカレー粉が使われていた。俺は香織さんが一度だけ作ってくれたカレーの思い出を、鈴木さんに話すことにした。

「一度だけ、香織さんがカレー作ってくれたことがあるんですよ」

「たった一度だけ作ってくれた料理がカレー……。さすが増井先生は期待を裏切らないな」

 脊髄損傷の合併症で、俺は体温調節機能がうまく働かない。だから風邪を引くとこじらせて、すぐに肺炎を起こしてしまう。俺がそんな持病ともいえる肺炎で入院して、退院した日だった。迎えに来るはずの香織さんが一向に病室に現れず、俺は不安な気持ちに押しつぶされそうになっていた。それは料理を全くしない香織さんがカレーを作っていたからだったのだが、俺はそんな話を鈴木さんにする。

 鈴木さんがにんじんのマリネを箸でつまんで観察してから言った。

「ちょっと待った。カレーってそんなに時間かかったか? あっ、カレー好きなだけにこだわりがあるのか……」

 俺は首を左右に振る。

「恐ろしく要領が悪いんですよ。カレー作る前に掃除もやってくれたみたいで」

「あぁ。煮込んでいる間に掃除とかできそうだもんな。で、味の方は?」

 俺はガーリックトーストをがぶりと噛んだ。じゅわっとガーリックバターが滴り落ちて、慌てておしぼりでぬぐう。

「それがね、じゃがいもは溶けかけててにんじんもちっさいのに、玉ねぎだけはやたらでっかくて。しかも水の量が少なすぎて、別の意味で辛かったです。ってか、濃かった」

「でも真也、にやけてるぞ」

 自分でも頬がゆるんでいることを自覚していた。シードラをあおる。あんなにまずくて美味しいカレーは初めてだった。

「これまで食べたカレーの中で、一番美味しかったんで」

「そうかそうか」

 鈴木さんの口調が棒読みっぽかった気もしないではないが、聞き流した。そして質問する。

「舞さんの料理で一番美味しいのって何ですか?」

「えっ。何だろう」

 本気で考え出した鈴木さんを前にして、俺はアリオリポテトを頬張った。アリオリソースとはすなわちにんにくマヨソースのことだから、俺にも作れるかもしれない。

 鈴木さんがぽつりと言う。

「玉子焼き、かな。弁当にいつも入ってるけど、いつも微妙に味が違ってて、それなのにいつも美味しいんだ」

 その言葉を聞き、不覚にも俺は泣きそうになってしまった。何だ、この幸せの象徴のような言葉は。

「真也が作る料理だって、きっとそんな料理なんだろうなぁ。だから増井先生は人間になれたんだよ」

 酔いが回っているのか、ますます泣きそうになる。だが泣くのは嫌だった俺は、天邪鬼な言葉を発した。

「けどね、鈴木さん。俺だってたまにはほかの人が作った料理を食べたいですよ!」

「俺もだよ。たまには舞以外の人が作った料理が食べたい」

 照れ臭くなったのか、はたまた熱いものが込み上げたのか、鈴木さんもそう言ってすぐに視線をそらせる。

 しばらく俺たちはそれぞれの思いに浸っていた。

 沈黙を破ったのは鈴木さんだ。

「……俺たち、いい飲み友達だよな」

「はい。心からそう思います」

 だから俺たちはこうして誘い合わせて飲み会をするのだ。

 俺は、自分にとって最も大切な香織さんに食べさせる料理をより丁寧に作る活力を養うために。そして鈴木さんは、彼にとって最も大切な舞さんが作ってくれた料理をより美味しく味わうために。

「じゃあ、これ飲んだら、帰るか」

「そうですね」

 俺たちはグラスに残ったシードラをぐっとあおった。

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