4月 沖縄料理店で一触即発?
店内にふわふわと流れる三線の優しい調べ。俺たちのいるカウンター席の後ろには、琉球畳が敷かれた座敷。壁には美しい南国の海の写真が貼られ、飾り棚にはシーサーの置物が置かれている。
俺と鈴木さんは、沖縄料理に特化した居酒屋に来ている。
乾杯のあと、オリオンビールをあおった。からっとした後味が、いかにも南国に合いそうだ。まだ肌寒い日も多い四月だが、早くも夏を先取りだ。
「何か、実家感満載だな」
そう言って鈴木さんは身体をひねって背後の座敷に視線をやった。その仕草を見て、座敷に座れない俺は申し訳なく思う。
「すみません、あっちの方がきっと居心地いいですよね……」
「いやぁ。あっちだと俺、三線聴きながら寝ちゃうわ。飲み会どころじゃない」
嫌味のない鈴木さんの気遣いが嬉しかった。
ぐぐっとオリオンビールを胃に落とし、つき出しの海ぶどうの三杯酢を食べた。まろやかな酢の香りと海ぶどうのぷちぷちの食感がくせになる。
「真也は、沖縄に行ったことある?」
「えぇ。小学生の頃、家族で」
小学一年生か二年生の頃だった。夏休みに家族で沖縄本島に旅行をしたことがあった。あまり記憶には残っていないが、首里城に行ったり海で泳いだりしたのだろう。沖縄料理も食べたかもしれないが、小学校低学年の俺には難易度が高かったような覚えがある。
だが事情があって家族の話題を避けたかった俺は、さりげなく鈴木さん主体の話題に移るようにと願い、話題を振った。
「ってか、鈴木さんは? 沖縄に行ったことあります?」
「俺、新婚旅行が沖縄だったんだ。その時初めて飛行機に乗ったんだけど、ペースメーカーが入っているから金属探知機通れなくて」
鈴木さんが食いついてくれたことが嬉しかったが、割と深刻な回答だった。
「どうしたんですか?」
「端っこに呼ばれてさ、警察官がするみたいに丸い手持ちの探知機で……。何ともいえない気分だった」
「あぁ……。それは確かに何ともいえないですね」
だが、飛行機かぁと思う。車椅子でも搭乗できるらしいが、まだ俺にはハードルが高い。
かりゆしウェアというのか、いかいも南国っぽい花の図案がプリントされた涼しげなワンピースに身を包んだ女性店員が料理を運んできた。彫の深い、エキゾチックな顔立ちの美人だ。
「ぜひ、また沖縄にお越しくださいね」
そう言って店員は料理をカウンターに置いた。ゴーヤチャンプル、にんじんしりしり、ラフテー、もずくの天ぷら。
頬を赤くした鈴木さんが店員に問う。
「お姉さん、沖縄出身ですか?」
「あ、わたし、大阪の大正区ですけど」
「何だ、大阪……」
俺はがっかりとした様子の鈴木さんを慰めた。
「だけど大阪の大正区って、沖縄にルーツを持った人が多いって聞きますよ」
「そうか?」
とたんに顔を上げてにやけ顔を見せた鈴木さんに、またもや俺はくぎを刺す。
「舞さんに言いますね」
「やめて。絶対に」
俺はにんじんのしりしりを食べた。しゃくしゃくとしたにんじんの歯ごたえがいい。そして俺は、気になっていたことを、鈴木さんに質問した。
「そういえば、結婚記念日どうでした?」
ゴーヤチャンプルを食べて「美味いゴーヤは苦くない」と名言めいたことをつぶやいた鈴木さんが、さっきまでの比ではないほどのにやけ顔になる。
「舞さ、すっげぇ喜んでくれてさ。もちろん料理もよかったけど、デザートのメッセージにやられたって感じ」
前回俺が下見につき合ったカジュアルイタリアンの店に、鈴木夫妻は行った。料理のレベルの高さはもちろんのこと、舞さんはドルチェのプレートに書かれたメッセージに感動したとのことだ。
俺は思わず上半身を乗り出してひねり、鈴木さんの顔をのぞき込んだ。
「それで、何て書いてもらったんですか?」
「『いつもありがとう。ずっとずっと舞が大好きです』って、あえて日本語でな。悩みに悩んだ結果、シンプルな方が伝わるかと思って」
陳腐な言葉かもしれない。だが気持ちが込められたシンプルな言葉こそ、大切な人に伝わるのだと思う。
「鈴木さんのプレートには、何か書かれてあったんですか?」
「『結婚記念日おめでとう』ってイタリア語で書いてあった。店からのサービスだった」
プレートに書かれた言葉の意味を、鈴木さんは店員に聞いたのだろう。その瞬間の鈴木さんの表情を想像し、俺も思わず笑みがこぼれた。
「よかったですね」
「うん」
ほころばせた表情のまま、鈴木さんがラフテーを頬張った。沖縄風の豚の角煮だ。
俺もラフテーをがぶりとかじる。泡盛を使った豚の角煮は、さっぱりとした味わいだ。口の中でほろほろとほどけた。
「新婚旅行、沖縄のどこに行ったんですか? 水族館とか?」
「レンタカー借りて、本島一周した」
何でもない道や名前もついていないビーチなどをただ通り抜けたのだという。
「岬とか、橋伝いに行ける離島にも全部行ったんだ」
俺もそんな旅は好きだ。だが、観光地に行きたい人にとってはそんな旅は退屈かもしれないと思い、俺は鈴木さんに質問した。
「舞さんもそんな旅が好きなんですか?」
「いやぁ、あいつ最初はむすっとしてて。成田離婚ならぬ関空離婚かとひやひやした。でも、一時間も助手席にいると、表情が変わってくるんだよね。海の青と空の青しか見えない景色にすっかり魅了されてた。おかげで、滞在中俺がずっと運転する始末」
その時のことを懐かしむような瞳で静かに語る鈴木さん。その横顔はとても穏やかだ。
「その舞さんの横顔に見惚れてた、とか?」
穏やかな表情から一転して、鈴木さんは眉間にしわを寄せた。
「いいや。さすがに俺も景色を見たかったから、『運転変われよ』とか小さな喧嘩はたくさんあった」
もずくの天ぷらに口をつけてみる。もずくといえば小さな容器に入った酸っぱい食べ物という印象しかなかったが、沖縄産のもずくは太い。サクサクとした衣に食べ応えのあるもずくが、俺はなかなか気に入った。
もずくの天ぷらを咀嚼しながら、俺は考える。俺だってそういう旅がしたい。その結果、思わず本音をもらしてしまった。
「けど、いいなあ。そういう旅。うらやましいです」
探るような口調で鈴木さんに聞かれる。
「増井先生は運転するのか?」
そうか、鈴木さんは俺が運転できることを知らないのだ。
俺は自慢げに答えた。
「俺、こう見えて、車の運転できるんですよ」
「えっ? そうなの?」
俺は、障害者仕様の車を運転することを話した。俺みたいに足を動かすことができなくても運転できる車。運転補助装置をつけていて、アクセルもブレーキも全て手で操作する。
「へぇ。そんな車があるんだ」
運送会社勤務の鈴木さんはその操作方法が気になったようで、俺は身振り手振りで説明した。熱心に耳を傾けてくれた鈴木さんにいちいち感心されて、俺もまんざらではなかった。
「最初は慣れなくて大変でしたけど」
「じゃあ、行けるじゃん。沖縄でもどこでも」
さっと熱意が冷める気がした。同時に俺は、初めて鈴木さんに反発を覚えた。運転補助装置を装備した、障害者仕様のレンタカーなんてあるはずもないからだ。それに、鈴木さんもさっきまで熱心に俺の説明を聞いていたのに。それなのに、そんなに簡単に言うなよ。
大人げなく、イライラした気持ちを口調ににじませてしまった。
「……俺が運転できるレンタカーなんて、あるわけないじゃないですか」
そんな俺にひるむことなく、あきれつつも優しい笑顔の鈴木さん。
「あのなぁ、もっと考えろよ。フェリーとかあるだろ」
「あ……」
そんなこと、考えたこともなかった。何もできないと思い込み、自分の周りに勝手に壁を作っていたのは、ほかでもない俺だった。
「な?」
鈴木さんが本心から優しい笑顔で俺をのぞき込んだ。
イライラしていた気持ちが、急速に萎えていく。こんな俺なのに、優しく受け入れてくれる鈴木さん。どうしてこの人は、こんなにも柔軟な思考を持っているのだろう。
「すみません。俺、ついバカみたいにむきになって……」
「別にいいよ。俺もそうだったから」
鈴木さんの顔を見る。鈴木さんは聞き分けの悪い弟に言い聞かせるような感じで言葉を紡ぐ。
「俺の場合は、仕事は何とかできたけど、恋愛の方がさっぱりだめでさ。自分で作った殻の中に閉じこもってたんだな。心臓に爆弾を抱えてる男なんて、誰からも相手にされるはずなんてないって。そんな俺の殻を破ってくれたのが舞だった」
カウンターの上のビールや料理はすっかりなくなっていた。エキゾチック美女の店員が、皿を下げにやってくる。相変わらず、店内には三線のゆるゆるとした響き。
「次の注文、いかがいたしましょう?」
俺と鈴木さんはメニューをのぞき込んだ。だが、俺たちにはよくわからない料理ばかり。
鈴木さんが店員に訊ねる。
「何かおすすめってあります?」
「そうですねぇ……」
店員がページを繰り、食べやすそうなものをいくつかピックアップしてくれた。俺たちはそれに従った。二杯目のアルコールも、おすすめに従うことにした。
俺は、先月鈴木さんから聞いた話を思い出した。
「確か舞さん、『こんなことで離れない』って言ってくれたんですよね」
「うん。ちょっとの勇気で、いざやってみると、何でもなかったんだなぁって思ったよ。だから、真也もさ」
鈴木さんは再び俺の顔をのぞき込んだ。その真剣な表情に、俺も背筋が伸びる。
「さっき、あっちに座れないとか気にしてたけど、もっと堂々としてろよ。『俺はカウンターじゃなきゃだめなんだ』って胸張って言えよ」
「……」
「車が運転できるって言った時の堂々とした顔でさ。実際、車椅子に乗ってて運転できるのってすごいと思うし」
「……はい」
正論だがけっこう厳しいことを言われていると思う。だが鈴木さんに言われると、言葉がするすると胸に入ってくる。
店員が追加の料理とアルコールを持ってきた。
「ふーチャンプル、島豆腐の味噌漬け、シークヮーサーつぶつぶみかんです」
最後にテーブルに置かれたジョッキに、俺も鈴木さんも釘づけになる。シークヮーサーつぶつぶみかん。シークヮーサーのチューハイに缶詰のみかんを加えたものだ。みかんをマドラーでつぶしながら飲むのだと教わる。
俺たちは興味津々で言われたとおりにする。つぶれそうでつぶれないみかんを前に、オッサンふたりがむきになる様子は、笑いどころ満載だろう。
「これくらいでいっか」
早々とあきらめた鈴木さんがジョッキを傾ける。
「真也、これいけるぞ」
俺もジョッキを傾ける。ベースは酸味の強いシークヮーサーのサワーだが、つぶしたみかんの甘さがいい。缶詰のシロップも入っているのだろう。ぐいぐい飲んだ。
「ほんとですね。甘くて美味い」
思わず鈴木さんと顔を見合わせた。
島豆腐の味噌漬けを箸で切り分けて口に入れる。チーズに似た濃厚な味わい。きっと度数の高い酒をちびちびやりながら食べるつまみだ。
「鈴木さん、これきっと泡盛に合いますよね……」
「次あたり、いっとくか?」
「うーん。まだちょっと自信ないなぁ。あっ、けどこれは、さっきの殻に閉じこもるとかそういうんじゃないですからね」
「わかってるよ。アルコールは無理すんな。俺も泡盛はやめとくし」
だが、家で香織さんと一緒ならいけるかもしれない。いきなり泡盛なんか買って帰ったら、香織さんは驚くだろうか。そんなことをぼんやりと考える。
「鈴木さんは、家で舞さんと飲むんですか?」
ふーチャンプルを取り分けていた鈴木さんに聞いてみた。俺も自分の取り皿に取った。
「うん。でも舞はビールと缶チューハイしか飲ませてくれない。鬼嫁だよ」
「いいじゃないですか。それでも」
「真也は飲ませてくれないの?」
「俺も香織さんと飲みますよ。ただし、彼女の休みの前日だけですけど」
ふーチャンプルは車麩を使った炒めものだ。車麩のほかにはスパム、にら、もやし、キャベツが入っていて、かつおだしのきいた優しい味。溶き玉子でコーディングされた車麩がもちもちで、俺はその食感が気に入った。こちらは、シークヮーサーつぶつぶみかんとの相性も抜群だ。
「増井先生に、しゃれたおつまみとか作ってあげるわけ?」
鈴木さんに脇腹をつつかれる。ごく自然なボディタッチに、俺は嬉しくなった。
「いや、ご飯の時にビールを飲むとかですよ。けど、おつまみ作るのもけっこういいかもしれない……」
「ってか、真也。車椅子で料理するのって相当大変じゃね? 真也があまりにも自然な口調で料理してるって言うから、俺初めて気づいたんだけど」
そう鈴木さんに問われて、俺は改めて考えた。
香織さんとの同居を始めるにあたって、助けてもらうばかりでは嫌だと思った俺が、できると確信した唯一のこと。それが料理だった。だから新築で契約したバリアフリーマンションの台所は、一般の規格よりも低く作ってもらった。すなわち、車椅子の俺が料理するには少し高く、健常者の香織さんが料理するには少し低い。
もちろん最初は慣れなかった。車椅子で料理することはもちろんのこと、家庭における日々の食卓にふさわしい料理を作ることも。だから最初の頃は、炊いたご飯と焼いた肉、お湯を注ぐだけの味噌汁に納豆という献立ともいえないような食事ばかりだった。それが今では、訪れた飲食店で食べた料理をどう再現しようかと考えるまでになった。そういったことを俺は鈴木さんに話した。
「ごめん、真也」
俺がたどたどしく話すのをじっと聞いていた鈴木さんが、いきなり頭を下げた。意味がわからず、俺は首をかしげる。
「さっき俺、真也にひどいこと言った。こんなに頑張ってきた人を前に俺、何てひどいこと……」
「いいんです。確かにちょっとイラっとしましたけど、いい加減俺も殻に閉じこもってる自分に嫌気がさしてたんで」
「そうか? ならよかった」
とたんに顔を上げて人懐っこい笑みを浮かべる鈴木さん。やはり俺はこの人が好きだ。
これまで出てきた料理はどれも量が多かったので、けっこう腹が膨れていた。俺たちは締めにすることにし、タコライスとソーキそばを注文する。さっきの会話をさりげなく聞いていたらしい店員が勧めてくれたので、泡盛を使ったカクテルも同時に注文した。
「泡盛を使ったカクテルがあるなんてな」
「飲めてよかったですね」
子どものようにわくわくしながら、料理とカクテルを待つ。
ほどなくして運ばれてきたカクテルに、俺たちは目を奪われた。ゴブレットに入ったカクテルは淡いオレンジ色をしていて、縁にカットされたオレンジがあしらわれている。アイランドブリーズという名前のカクテルだと教わった。
一口飲んでみると、マンゴーとヨーグルトの優しい味わい。だが泡盛が後味をすっきりとしたものにしている。甘くて飲みやすいが、あくまで泡盛が主役。
「美味い……」
ふたりの声がそろった。
したり顔の店員が続けて運んできたタコライスとソーキそばもそれぞれ取り分ける。三線のソロだったBGMはいつの間にかボーカルが加わるようになり、より店内も活気づく。
鈴木さんは先にソーキそばをすすり、俺はタコライスから口をつける。タコライスは俺もたまに作ったりキッチンカーのものをテイクアウトしたりするが、やはりこの雰囲気の中で食べるのは格別だ。
「肉、美味っ」
鈴木さんがソーキそばから肉をつまんで感心している。ソーキそばのソーキは、スペアリブのことだ。
俺もそばをすすり、スープを飲み、ソーキを味わう。とんこつとかつおだしのあっさりとしたスープに、甘辛いソーキのバランスがたまらない。まさに締めにふさわしい逸品だった。
店に常連客と思しき人が増えてきた。一見さんの俺たちは、退散するべきだろう。鈴木さんも何となく居心地が悪そうだ。
「そろそろ帰りますか」
そう言って俺がハンドリムに手をかけて車椅子の向きを変えようとするが、鈴木さんは何か思いついた様子でメニューを広げる。
「まだ何か食べますか?」
「うーん。やっぱ俺、サーターアンダギーが食べたいわ」
子どもかよと思いつつ、俺もメニューをのぞき込んだ。ふと、小さく書かれた文字が目に入った。
「鈴木さん、『お持ち帰りできます』って書いてありますよ。俺、香織さんへの土産にしますから、鈴木さんも舞さんにどうですか?」
「真也、ナイスアイディア。そうしよう」
待つこと数分。俺たちは揚げたてのサーターアンダギーを手に、満たされた思いで店をあとにした。