3月 カジュアルイタリアンで下見
ほの暗い店内に流れる朗々としたテノール。落ち着いたからし色のクロスが敷かれたテーブルの上にはキャンドルが置かれていて、雰囲気抜群。周りのテーブルはカップルばかりで、野郎ふたりで来ているのは俺たちだけだ。
緊張気味の俺に、鈴木さんも引きつった笑みを浮かべる。
「カジュアルって聞いてたから、大丈夫だよ……な」
「はい……。俺も事前にネットで検索してみましたけど。大丈夫です……よね」
場違いだろうかと恐れつつも、鈴木さんがビールを注文してくれた。注文を取りに来た店員は笑顔で去る。その姿に、ようやく俺たちはほっとする。
今回鈴木さんが提案してくれた店は、カジュアルイタリアンだ。何でも結婚記念日が近いとかで、下見をしてみたかったとか。舞さんとの思い出作りの下見の連れが俺なんかでいいのかとメッセージアプリで問いかけてみたが、鈴木さんいわく「今の俺にとって、真也はかけがえのない友達なんだ」と。その言葉に偽りは感じられなかった。だが、俺なんかが鈴木さんの大事なポジションにそんなに簡単におさまっていいのかという疑問はなきにしもあらずだったことも、正直な話だ。
さて、今回は下見を兼ねているので、コース料理を予約している。さっき注文したビールは飲み放題の飲みものだ。おしゃれな店内にもかかわらず飲み放題メニューがあったりするところが、きっとカジュアルを名乗るゆえんなのだろう。
ビールとともに前菜が運ばれてきた。
「前菜はスズキのカルパッチョ、スモークサーモンとりんごのサラダ、本日の魚介のマリネでございます」
笑顔の店員が去ったテーブルに残ったのは、ビールとおしゃれなガラスのプレートに盛りつけられた前菜。とても色がきれいだ。
とりあえず俺はグラスを持って鈴木さんのそれと重ねる。
「乾杯!」
ぐいっとアルコールを胃に落とすと、たちまちペースが戻る。
「あぁ、何か俺、やっと落ち着いた、みたいな?」
鈴木さんにとってもそれは同じだったようだった。
「俺も。ようやくまともに息が吸えるわ」
そう笑顔で言った鈴木さんは、だが真剣なまなざしで前菜のスズキにフォークを入れる。俺は「共食いですね」と言おうとして、あまりのくだらなさに言葉を飲み込んだ。
ひととおり前菜を食べて、鈴木さんはようやく笑顔を見せた。
「美味いな。でも、真也の意見も聞かせてほしい」
あぁ、鈴木さんにとって、今日は舞さんとの食事の下見なのだと思い直す。俺は何も考えずに前菜を食べていたが、もう一度盛られている三種を味わいながら食べる。
スズキのカルパッチョはレモンがきいていて淡泊な白身魚のアクセントになっている。スモークサーモンとりんごのサラダは、ドレッシングにもりんごが使われているのか、さわやかな風味がくせのあるサーモンを引き立てている。魚介のマリネはいろいろな魚のバランスがとてもいい。バルサミコ酢が独特の風味だが、決して嫌な感じではない。俺はそれらの印象を、たどたどしくではあるが言葉にしていった。
俺の食レポもどきをじっと聞いていた鈴木さんが、感心したように言う。
「やっぱすごいなぁ、真也は。普段から料理してるヤツはやっぱ違うわ」
「いやぁ、そんなことないですよ」
謙遜しながらも、まんざらではない俺だ。
「そういえば、鈴木さんって舞さんとどこで知り合ったんですか?」
「うーん、職場。いや、そうでもないか。俺の会社の配送先の店にいたのが、舞」
「あ、合コンとかじゃないんだ」
ビールを飲む。せっかくだから次はワインにしようかと思案する。
「うん。真也、知らない? みなとスーパーっていうスーパーマーケット」
知るも何も、俺が普段利用しているスーパーであり、高校時代からの悪友のユージこと富樫雄二が勤めているスーパーだ。ユージは本社勤務で、このあたりのエリアマネージャーをしている。
俺はそのことを鈴木さんに話した。すると、鈴木さんは瞬く間に前のめりになった。
「まじで? 舞はみなとの店員で、俺、みなとに配送してる会社の社員なんだけど」
「えぇー? まじですか?」
今度は俺が驚く番だ。よく聞くと、舞さんは俺が普段利用する店舗にいるわけではなかったが、それでも鈴木夫妻とそんなつながりがあったのと感嘆する。
「いやー、びっくりした。まさか真也がうちのお得意様だったとはな」
「友達割引とかしてくれます?」
「……それは無理」
ふたりとも前菜を食べ終えた絶妙なタイミングで、次の料理が運ばれてきた。パスタだ。
「ウニのクリームソースと、牛肉のラグーソースでございます」
ついでに次のアルコールも注文する。俺も鈴木さんも白ワインにした。
カジュアルなので、取り分けるスタイルだ。トングでパスタをつかみ、取り皿にのせてくるりとひねる。あまり上手にできなかったが、一応それらしくなった。
「さすが真也。盛りつけもばっちりじゃん」
「ありがとうございます」
「普段、凝った盛りつけとかもしてんの?」
俺は白ワインを飲む。すっきりしているがほのかに甘みも感じられ、意外と飲みやすい。
「いや、普段は適当ですよ。香織さん、美味しく腹に入ったら見た目なんて気にしない人なんで」
「そっか。でも大変なんじゃない? 医者だから舌が肥えてたりするんじゃないの?」
「それが、全くで。何ならカレーさえ与えとけば、ほかのものは食べなくてもいいみたいな……」
「何だよ、カレーさえ与えとけばって」
鈴木さんが噴き出す。
「香織さん、カレーが死ぬほど好きなんですよ。で、俺が料理作るようになって、やっとほかの料理に対する興味も出てきたって感じです」
「キャラ濃いな」
フォークでくるくるとうにのパスタを巻いて口に入れる。口いっぱいに広がる濃厚なうにの味わい。磯臭さは全く感じられず、しつこさもない。
一方、鈴木さんは美味しそうに牛肉のパスタを食べている。
「牛肉のやつ、肉ごろごろだな。美味い」
ふと気になることがあったので、鈴木さんに聞いてみた。
「けど、鈴木さんが病気になった時、舞さん心配したでしょう」
「ん?」
顔を上げてきょとんとする鈴木さん。
「だから、鈴木さんが病気を発症した時ですよ。舞さん、めちゃくちゃ心配したんじゃないかって……」
だが俺の言葉は、意外な鈴木さんの言葉でさえぎられた。
「俺が病気になったの、高三の時だよ。舞と出会う、ずっとずっと前」
「え? そ、そうなんですか?」
俺は激しく混乱した。確か鈴木さんはスポーツ万能で、バレーボールをしていたはずだが……。それに彼のがっしりとした外見のイメージから、発症したのはつい最近だと思い込んでいた。
「バレーの試合中に意識失って倒れたんだ。で、救急車で運ばれてそのまま入院」
「じゃあ、バレーは……?」
「もちろん禁止だよ。ペースメーカー入れてても軽い運動ならできるけど、俺の場合は相当激しかったから」
鈴木さんはスポーツ推薦での大学進学を目指すような選手だったという。突然襲ってきた理不尽な出来事によって、それまで打ち込んできたものをあきらめなければならなかったのは、俺も同じだ。当時の鈴木さんの無念や怒り、悲しみや絶望が手に取るようにわかる。
俺はフォークを置いて黙り込んでしまった。そんな俺に、鈴木さんは優しく微笑みかける。
「真也がそんな顔するなよ。ほら、せっかく美味いパスタなんだ。食おうぜ」
「はい」
肉がごろごろ入ったラグーソースのパスタは、よく煮込まれた赤ワイン風味のソースが泣けるほど美味しかった。
「でさ、これは決して強がりとか言い訳じゃないんだけどな」
鈴木さんがごろごろ肉をフォークで刺して口に入れてから言った。
「俺、病気になってよかったと思ってる」
ガツンと後頭部を殴られたような衝撃を、俺は受けた。
「……どうしてですか? だって鈴木さんにとってバレーはかけがえのないものだったんでしょ?」
「確かにそうなんだけどな。でも俺、とっくに自分の限界に気づいていて」
「限界?」
「あぁ。バレーで大学に進学できたとしても、俺はオリンピックに出られるような選手じゃない。つぶれる前に辞めることができてよかったって思ってる」
そう言って鈴木さんは、再び微笑みを浮かべる。それは、理不尽を受け入れて、自らの境遇を許した優しい笑みだった。そしてそれは、俺が今もなお心にくすぶらせている感情を呼び起こすには十分だった。元カメラマンで風景写真家になるという夢を今もなおあきらめ切れない俺は、白ワインをぐいっと飲んだ。
だが、今夜は鈴木さん夫妻の結婚記念日の下見。
何とか気を取り直して、メインの料理だ。牛もも肉のミラノ風カツレツ。きつね色のカツレツにルッコラとプチトマトが添えられた、色彩的にも美しいプレートだ。思わず写真を撮りたくなった俺は、さっきの鈴木さんのカミングアウトと飲み慣れない白ワインで酔ってしまったのだろうか。
店員が去る前に、飲み放題のメニューから肉料理に合わせて赤ワインを注文した。その時には普段の調子に戻っていて、人知れず俺は安心した。
厚みのあるカツレツにナイフを入れる。すると赤身の残る肉が顔をのぞかせた。口に入れると、とたんに香るチーズの風味。俺は夢中で味わった。
「美味いな、真也」
「はい」
間もなく運ばれてきた赤ワインを口に含む。想像していたのとは違って渋みの少ないまろやかな味わい。さっきの白ワインもそうだが、俺が今まで飲んできたワインは何だったのだろうと思う。
そんなことを考えていると、唐突に鈴木さんが切り出した。
「舞にさ」
「はい。舞さんに……?」
「つき合ってしばらく経った頃に、病気のことを話したんだ」
鈴木さんの疾患は見た目ではわからない。ペースメーカーを入れているという手帳は持っているはずだが、ヘルプマーク等は見えるところに携帯していない。そして、つき合い始めたふたりが乗り越えなければならない試練。
これから大事なことを打ち明けようとする鈴木さんの気持ちも、打ち明けられたあとの舞さんの気持ちも想像できて、俺は胸が締めつけられる思いだった。
「あいつ、『こんなことでわたしは離れたりしない』って」
ははは、と鈴木さんは照れ隠しで笑い、カツレツを頬張った。
「俺よりずっと年下だから、何も考えてなかったんだろうなあ……」
「だけど、舞さんはずっと鈴木さんといる……」
そもそも今回は舞さんとの結婚記念日の下見だ。
「うん。恋人時代からもう三回も手術につき添ってもらった」
鈴木さんは、五年ごとにペースメーカーの交換手術を受けていると笑顔で言った。すなわち、ずいぶん前から舞さんと一緒にいることになる。
「だから俺は、バレーを続けられなかった人生もありだと思ってるんだ」
鈴木さんの、バレーを続けられなかった人生。そして俺の、カメラマンを続けられなかった人生。だが俺も、香織さんというかけがえのない存在を手に入れることができた。
「俺も、この身体になってよかったって思える日が、来ますかね……」
飲んでいた赤ワインのグラスを置き、鈴木さんは言う。
「うーん。でも、やっぱり健康な方がいいじゃん。正直、俺も思いっ切り身体を痛めつけていたあの頃が懐かしいって今でも思う時があるし」
「確かに。確かに健康な方がいいです」
「真也も何かをあきらめなければならなかったんだな……」
俺はカツレツの最後の一口を食べ終えた。鈴木さんに過去のことを聞いてほしいと思う一方で、まだ負けたくないと思う俺がいた。
「はい。けど俺、まだあきらめ切れなくて」
「うん。真也からはそんな匂いがぷんぷんする」
そう言って、鈴木さんは最後まで皿に残っていたプチトマトをフォークで刺して口に入れた。
「トマトって甘いんだな」
「そうみたいです。俺も初めて知りました」
「いつか、そのあきらめ切れないことっていうのを、俺に教えてくれるか?」
俺は何も答えられずに黙り込んだ。そんな俺に、鈴木さんは優しく言い聞かせる。
「何を考え込んでるんだよ。それをあきらめるかあきらめないか。どっちの答えを選んだとしても、真也が真剣に悩んで出した答えなんだ。どっちも正解だから恥じることはない」
おそらく鈴木さんの経験に基づく意見だ。鈴木さんは、俺がどんな結論を出したとしても正解だと認めてくれる。そう思うと、こんな俺でもまだ可能性が残されていると解釈できる。
俺はふわっと心が軽くなるのを意識した。
「……今はまだ無理っぽいけど、いつか聞いてください」
「おう」
タイミングよく、ドルチェが運ばれてきた。
「本日のドルチェのティラミス、パンナコッタ、マチェドニアでございます」
目の前に置かれたものを見ると、三種類のドルチェがバランスよく盛りつけられ、プレートの余白にはチョコペンで花のイラストが描かれている。
鈴木さんがプレートに描かれているイラストを指さして、店員に質問した。
「あの、これって、好きなメッセージとかも書いてもらえるんですか?」
「はい。ご予約の際におっしゃっていただけたら、承ります」
「そうなんですね、ありがとうございます」
笑顔の店員に勧められて、白のスパークリングワインも注文した。
「舞さんにメッセージ書いてあげるんだ」
俺がそう冷やかすと、鈴木さんは照れ臭そうに頭をかく。やはり舞さんネタがからむと、鈴木さんはかわいいオッサンになる。
「まぁな。せっかくだし」
「舞さん、惚れ直しますね」
「いや、舞はずっと俺に惚れてる」
真顔になってそう言ったかと思うと急に恥ずかしくなったのか、鈴木さんはさっそく運ばれてきたスパークリングワインに口をつけた。
俺はティラミスを一口食べた。マスカルポーネの濃厚な風味のティラミスは、洋酒がきいていてオトナの味がする。
続いてパンナコッタ。さっきのティラミスとは違い、こちらはさらりとした口当たりだ。
「ん? これ、何か食べたことがある気がする」
ガラスのグラスに入っているマチェドニアをスプーンですくって食べた鈴木さんが、首をかしげる。使われているフルーツはりんご、マンゴー、バナナ、キウイ、いちご。とてもカラフルなドルチェだ。やはり写真が撮りたくなる。衝動を抑えつつ、俺もスプーンですくった。
既視感、というか既食感とでも表現すればいいのだろうか、鈴木さんと同様に俺も食べたことがあると思った
「何だろう。俺も、これ食べたことがあります」
イタリアンのはずなのに、どこか中華っぽい味わい。記憶の中のイメージでは、それは目の前の色とりどりのフルーツではなくて白。思い出した。
「鈴木さん。これ、杏仁豆腐ですよ」
怪訝そうな顔でもう一口食べた鈴木さんも、納得した表情を浮かべる。
「ほんとだ。杏仁豆腐だ」
店員が食後の飲みものであるエスプレッソを持ってきたので、さっそく鈴木さんが質問した。
「あの、これ、何で杏仁豆腐の味がするんですか?」
「アマレットというリキュールを使っているんです。杏の種子の核を使ったリキュールで、杏仁豆腐にも同じものが使われるので、よく似た味わいになります」
ひとつ賢くなった俺と鈴木さんだった。
さて、俺は苦いコーヒーが苦手だ。ブラックコーヒーが飲めないので、家では牛乳を入れて飲むし、缶コーヒーを買う時はいつもカフェオレ。だからエスプレッソなど絶対に飲めないと思っていたが……。
さっきの店員に教わった飲み方を忠実に実践した鈴木さんが、小さなカップをくいっと傾けた。
「エスプレッソってこんなに美味かったんだな」
鈴木さんの言葉に背中を押され、俺も同じようにしてみる。シュガーポットからすくった砂糖を三杯入れてくるくるとかき混ぜる。そして恐る恐る飲んでみた。
「甘い……」
甘さのあとを引く苦み。だが俺の苦手だったあの感じではない。甘みと苦みの絶妙なバランス。
小さなカップの中で甘みと苦みが同居するエスプレッソのように、俺の人生にも絶望と喜びが同居している。エスプレッソを飲み終え、カップの底に溶け残る砂糖をスプーンですくうと、それは優しいほどに甘かった。
カップの底の砂糖のように、俺も人生の終わりに満足感を抱くことができるといいと願った。