何が正しく、何が悪なのか。
「最初に殺したのは、俺を虐待していた親だった。」
男は、タバコをひとつ手に持って心地よさそうに吸う。無精髭、ボサボサの髪、顔の至る所にあるできもの。その身なりだけで、彼がどういった人間であるかがわかる。
男は淡々と語り始めた。
男「俺の両親はいわゆるできちゃった婚とかいう奴だった。学生の頃にゴムなしでセックスして俺を産んだんだと。当時18歳の高校生。」
男「当然子供を産むのなんて学校が許すはずもない。父母ともども退学になったらしい。」
男の視線はどこか遠くを見つめている。彼が見つめている先は、ただの空。かあかあとなく、2匹の鴉の姿が印象的だった。
男「まあそんな学生同士が、親もいねえような奴らが子育てを上手くできるはずもなく。子育てに関して喧嘩が絶えなくなったのは俺が2歳の頃だった。」
「その時にすでに虐待をされていたのか?」
男「いいや。ただ、母と父が毎晩畳の奥で、声を荒げて喧嘩してるその怒号は記憶に残ってるな。」
男は相変わらず視線を上に向けている。
男「4歳か5歳になったくらいか。俺はその頃から、父に暴力を受けるようになってた。毎晩蹴られて、殴られて、怒鳴られる。」
男「永遠と終わらないようなその虐待を毎晩毎晩受けていた。ごめんなさいと懇願する、母の声は啜り泣くようなもので、頼りなかった。それが俺の脳に今でも染み付いて離れない。」
男「あざなんて幾つできたかわからない。自分の、あるいは母の赤い血を見たことなんてなかった。満足に眠れた日なんて、ありやしなかったな。」
「なんでその頃から、いきなり暴力を受けるようになった?2歳の頃はなかったんだろ?」
男「父はクソみてーな人間だったが、それでも最低限、俺たちを育てるために働いていたことはあったそうだ。」
男「当然、高校を中退するような奴に、世間は仕事を与えてくれない。父が大抵働いていたのは、工事現場とか、土木作業の肉体労働だった。父は、仕事ができない人間だったらしい。」
男「知識豊富になった今ならわかるが、あれは多分ADHDだな。人よりもいろんなことができない。当たり前が、当たり前じゃない。」
男「よくある発達障害だ。まあそんな病気でももってなけりゃ、高校で子供なんて産まねえだろうな。」
「なるほど。発達障害か。それで仕事が続かなかったのか。」
男「察しがいいな。仕事のできない父は、何度も上司に叱られて、同僚にうざがられ、あるいは笑われた。父はそいつらが気に入らなかったらしい。同じ仕事現場の同僚や上司を、怒りのあまりぶん殴る。そんなことをしては、仕事場をクビになってた。」
男「普通、いくら馬鹿なやつでも1回自分がやらかしたことは気をつける…少なくとも、別の仕事現場で暴力沙汰を起こしてはいけない、なんて思うだろうし、二度とそんなことしないとするだろう。」
男「でもさ、父はそうではなかった。発達障害が原因なんだろうな。何度も別の現場で、何度も暴力沙汰を起こした。」
男は手に持っていたタバコをまた口につける、大きく吸った後、ぷはぁ。と気持ちよさそうに吐き出した。
男「お前もいっぱい吸うか?簡単に飛べるぞ。」
「…ヤク入りか。」
男「ご名答。これをしないとやっていけない。お前もどうだ?」
「いや。いい。」
男「釣れないやつだな。」
「俺は犯罪者になるつもりはない。…話の続きを聞かせてくれ。」
「はいはい。」
男は少しめんどくさそうに応じた。
男「どこまで話したっけか…。ああ、父の仕事のことか。工事現場って案外、業者同士のセキュリティーがしっかりしてるんだよ。こいつはよく働くやつだ、こいつはよくサボるやつだ。こいつは危険なやつだって。」
男「業者同士は敵でもあるが、日雇い労働者が多い工事現場では、働く奴の情報共有もしっかりしてる。お互いの会社に不利益が講じないように、そこら辺の繋がりは強いところが多い。」
男「んでまあ父は当然、いろんなところで事件を起こしていた。だからさ、すぐに働く場所が無くなったらしい。」
男「俺が社会に出て、高層ビルの土台を作っていたおっさんに聞いたのはここまでだ。」
「…それで、お前の父はどうしたんだ。」
男「結末分かってて聞いてるよな?お前も意地悪なもんだ。」
「そんなつもりではない。」
男「はは。どうだか。…まあいい、続きを話そうか。」
男「俺の父は、働けなくなってからは毎日家にいるようになった。酒とタバコに明け暮れて、毎日毎日、ずっと飲み散らかしてる。たまに出かけたと思ったら、大体はパチンコ。」
男「ギャンブルなんてもんは大抵、負けるのが普通だ。そうしないと経営側に利益が出ないからな。父はほとんど毎日負けてきて、ずっとイライラしていたよ。」
男「母は当然、家の金を勝手に持って行っては溶かしてくる父を注意して、んで、父が母を殴りつける。」
男「まるでカラクリ人形のように、あまりにもつまらない、変わり映えのしないような風景が毎日毎日家にはあった。」
「…お前の言い方だと、毎日パチンコに負けてたわけではなさそうだが?」
男「ご名答。いくら負けの日が多いからって、ずっと負けてるわけじゃない。ギャンブルにハマっている中毒者は、勝てた時の快感を忘れられないから泥沼にハマってる。ギャンブルは時々勝てるものなんだよ。」
「…お前の父も、ギャンブルに勝ってた日はあったんだな。」
男「ああ。一週間か二週間に一度、父がえらく上機嫌な時があった。大抵は手元に分厚い万札を抱えて、ガハハと笑ってる。反対の手には惣菜の寿司なんて買ってきてさ。今日は食べていいぞ。なんて言うんだよ。」
男「多分気分が良かったんだろうな。ギャンブルに勝った日は母や俺を殴ることもなく。ただ酒をがぶ飲みして、気づいたら寝落ちしてた。」
男「そうして父は、前日手に入れた万札を持ってまた外に出かけていき、金を全て無くして帰ってくる。母が悪い、お前が悪いと、暴力に走った。」
男はこちらに向けていた視線を、今度は下に向けた。
男「父は酒をよく飲むやつだった。毎日毎日、一升瓶の酒が2本、3本と簡単に無くなっていく。いわゆるアル中だったんだろうな。」
男「部屋中には酒の瓶が散乱していてな、めちゃくちゃ汚かった。でもな、その瓶は、夜になると凶器に大がわり。」
男「俺や母を傷みつける道具としてはちょうど握りやすく、振りやすい。父は酒瓶を有効活用していた。これはSDGsってやつか?」
「そんなものではない。」
男「生真面目だな。ジョークだよジョーク。…数日に一度、父がパチンコに出かけて行った後、母が傷だらけの顔で酒瓶を丁寧に分別していたのは今でも何故か覚えている。」
男「俺の母は、どうしようもないろくでなしだったが、俺に対して、暴力を振るうような人間ではなかった。」
男「おれの母は、あまりにも馬鹿で弱かった。まあ腐れ野郎の父と結婚するようなやつだ。元々どうしようもない奴ではあったんだろう。」
男「それでも、母は、俺に対して一度たりとも殴ることはなかった。」
「…母には虐待されていなかったのか。」
男「ああ。言っただろう?母は弱かったと。父が毎日、俺と母を殴りつける日が始まった頃だ。母はずっと、俺を庇っていた。」
男「父の酒瓶を振るうスイングから、俺を守るように覆い被さって、その暴力を受け止めていた。」
男「でも父は腐っても男だ。体は女のそれより普通に強い。母が必死に抵抗するのを押し除けて、俺に殴りかかってきた。母は俺を守ろうとしたが、守れてはいなかった。」
「お前を守ろうとした母を、お前は弱いと表現したのか。」
男「ああ。だって事実だろう?もし母が強ければ、俺を守ることができたかもしれない。あるいは、父を説得してそもそもDVを辞めさせてたかもしれない。」
男「でも、母はできなかった。しようとしてたとは思うがな。弱肉強食なんて言葉があるように、結局、弱ければ何もできず呑まれるのがどんな世の中のつれだ。母は、弱かった。」
男の言葉はどこか遠くに呟くようで。その言葉は誰かに届けようとしているようにも、あるいは誰にも届かないような言葉にも、聞こえた。
男「暴力が強ければ上に立てる、なんてのは今の時代じゃ通用しない。とか言うだろ?実際、それは正しい。」
男「暴力が強いだけで、この世界で覇権を取ることはまず無理だ。でもな、それってあくまで、社会全体で見渡した時だけなんだよ。家庭という、あまりにも狭い閉鎖空間ではそんなもん関係ない。」
男「ただ力が強かった父が全てを征服し、俺と母を痛めつけた。狭い世界では、少なくとも社会的制裁が届かないような場所では、力が強い奴が一番上に立つんだ。」
「少なくとも、お前の幼少期の世界では、暴力が全てだったと。」
男「その通り。俺はガキだったから力が弱いし、母はそもそも体が弱かった。俺を産む際にかなり苦労したらしい。妊娠してからはずっと、体がボロボロだったってさ。」
男「よく母が薬を飲んでたのも、体の弱さを補うためだったんだろうな。母は、父に抗えなかった。父が暴力に満足して、あるいは朝になってパチンコに出かけた時には、いつも寝室で俺と母が二人残されていた。母は、いつも俺を抱きしめた。」
男「『弱くてごめんね。守れなくてごめんね。』その涙の混じった声は、いつもか弱くて、消えてしまいそうで。それでも母の啜り泣きと、抱きしめられた時の温もりは時々思い出しちまう。」
男の顔は、ほんの少し寂しそうに見えた。この男男が、こんな表情をするのが、意外であった。
男「まあそんな生活が数年続いた頃だったか。俺が8歳くらいの時だ。俺は小学校に通うこともなく、昼頃には、父がいないその時間帯は、大抵外をぶらぶらしてることが多くなったんだ。」
男「いつも通り近所の公園とか、近くの商店街とかを散歩した帰りだった。ドアを開けた瞬間、違和感を感じたよ。根拠なんてない、ただ本能的に、何かが違う。って。」
男「恐る恐るドアを開けると、母が椅子に座って、頭を机の上に載せてぐったりとしていたんだ。母は死んでいた。机の上には、大量の錠剤を入れていた男であろう銀色のケースと、ぶちまけられた粒状の薬。薬物中毒だった。」
男「机の上には、ごめんね、とだけ書かれた。いや、『め』も、『ね』も、元の形を止めていない、不気味な紙が残されていた。」
「…自殺か。」
男「ああ。母は辛かったんだろう。父の暴力も、毎日の生活も、あるいは俺を守れなかった己自身の弱さを。」
コンコンと、金属がぶつかる音がする。男が足元のブリキの缶を踵で蹴っていた。
男「ところでお前、人の死体は見たことあるか?」
「…見たことはある。ただ、それは丁寧に埋葬された、棺桶の中の死体だ。お前が言いたいのはそう言うことじゃないんだろ?」
男「ああ。そうだ。死んだばかりの死体だ。」
「それはないな。」
男「やっぱりな。そう言った死体を見たことのある人間はだいぶ少数派だろう。少なくとも、自殺したやつの死体はな。」
男「本物の死体は、とにかく汚いんだよ。人が生きてる間、無意識に保っているさまざまな神経が死んだ瞬間に全て機能しなくなる。だから、体の中にあった糞尿が垂れ流しになって、とにかく臭いがひどい。しかも、死体は時間が少しでも経つと、だんだんと腐敗していく。」
男「体から膿が出てきて、蠅がたかる。数時間も経てば、そんじょそこらに捨ててあるゴミと何ら変わらなくなるんだよ。」
男「俺を守ろうとして、毎日泣いていた母も、ただの屍になっていた。母自身よりも、母が数日に一度捨てに行っていた一升瓶の方が、よっぽど綺麗なんて皮肉だよな。」
「…人が死ねば、警察が来るんじゃないか。」
男「ああ。普通はな。でも俺のところには来なかった。理由は単純明快だ。父が隠蔽したから。」
男「父は母の死体をビニール袋の中に入れて、押入れに包んでいた。匂いがとにかくきつくて、とても息していられなかった。」
男「でも、数日たったある日、その匂いが消えていた。」
「なぜだ?」
男「父がどこかに捨てたんだよ。まあ多分埋めてるな。父は運転免許を持っていなかったはずだから、多分アパートの下とかに埋めたんじゃないか?」
「お前は母がどこにあるか知らないのか?」
「ああ。今も。探そうと言う気にもならない。俺は母を弔う気にもなれないし、母を探す意味もないからな。」
「…そうか。」
男「おいおいどうした。そんな暗い顔して。」
男は初めて笑った。いや、笑みを浮かべたという方が正しいか。あまりにも不気味で、汚いそのアシンメトリーな表情は、笑いなどではなく、むしろ何かを憎んでいるようにすら見える。
男「…匂いが消えたその日、父は大きなスコップを持っていたから、埋めていたことは多分間違いない。」
男「父は、警察が来れば普段のことがバレると思ったんだろうな。死んだ母にも、俺にもあざや傷がたくさんあったし、家には血のついた一升瓶がいくつか転がっていたから。」
「お前は通報しなかったのか?」
男「警察にか?しなかったよ。というより、家に電話がなかったからできなかったな。」
「警察に伝えるだけなら、交番へ駆け込むこともできたはずだ。なぜしなかった?」
男「…俺にはできなかったんだよ。」
「それは何故?」
男「聞くばかりじゃつまらないだろう。たまにはお前自身が考えてみたらどうだ?」
「…なんだ?挑発でもしているのか?」
男「いいや。本心だよ。さっきからお前は俺に対して質問しかしていないだろう?俺は、それに少し飽きたんだよ。少し趣向を変えようと思って。」
「…だからクイズか。」
男「ご名答。さて、なんで俺は警察に通報できなかった?」
男が通報できない理由なんて、限られている。男は毎日家から出ることができなかったわけではない。散歩している時、近くに交番がないから?いや、商店街があるような街なら大抵、少し歩けば交番くらいある。だとすれば…
「父に脅されていて、通報できなかった?」
男「違うね。不正解だ。」
男はまた、笑った。それはさっきとは全く違う印象を与える。嘲り、あるいは馬鹿にするような表情か。
「…だったら、正解はなんだ。」
男「簡単な話だ。俺は通報できなかった。」
「は?どういうことだ?」
男「だからそのままだ。」
「…意味がわからない。」
男「簡単なことだよ。俺は通報することが不可能だった。正確に言えば、通報するための言葉を知らなかった。」
「…どうなってる?」
男「俺の生い立ちはさっき軽く話しただろ?俺は生まれてこの方、学校に行ったこともなければほとんど家に引きこもっていた。俺にとって世界とは、家の中と時々外に出る程度のものだった。」
男「環境が人の性格を形成するなんていうが、それは言葉に対しても同じことが言える。俺の周囲にいる人間は、言っちゃ悪いが知能が低い奴らだ。」
男「しかも、毎日DVが繰り返し行われていた。毎日、毎日、何も変わることがない日常だ。」
男「俺は、あまりにも言葉を知る機会が少なかった。俺の周りにあった言葉は、父の怒声と、母の『ごめんなさい』という言葉がほとんどだった。」
男「だから、俺は警察に説明する術を持たなかった。それが一つ目の理由だ。」
「一つ目…?ということはまだあるのか?」
男は小さく鼻息を鳴らすと、視線をこちらにまた向けてきた。
男「ああ。もう一つ。俺はこれが警察に通報するべきことだと知らなかった。」
男「母が何故死んだのかはなんとなく理解していた。毎日辛そうにしていたし、涙を流していた。人生から逃げたんだろうな、とはなんとなく思っていた。」
男「でもな、俺は警察という組織をそもそも知らなかった。そして、父がしていたことは、当たり前のことだと思っていたんだ。」
男「何が善で、何が悪かなんてわからない。警察が必ずしも正義ではない。なんで民衆の奴らは叫ぶが、この状況においては絶対的に警察が正義で、父が悪だ。」
男「しかし、俺はそもそもそれを知らなかった。だから、父が奮っていた暴力はこの世界では日常茶飯事のことだと思っていたし、それで母が死ぬのも仕方がない、なんて思っていたんだ。」
男「今考えれば、当時から心が腐っていた。」
「お前のそれまでの人生において、その価値観を与える人物と出会うことはなかったのか?」
男「ああ。というより、俺はその当時あまりにも無知だった。知っている人間は母と父だけ。」
男「散歩の時に出会う犬を連れた婆さんは、俺と同じ種類の生き物であることを知らなかったし、あるいはその犬が犬という名前であることすら知らなかった。」
男「だから、そんな人間に出会う、というより、人間という存在がいることをそもそも知らなかった、という方が正しい。」
男は手に持っていたタバコをまた吸うとクシャりとそれを潰し、どこかに投げ捨てた。
地面には、すでに吸い終わったタバコの残骸がおおよそ5本。男は今日1日で、すでに一箱のタバコを吸い切っていた。
男はまた箱から新しいタバコを手に取り、口に加える。
男「ちっ。ライターに火がつかねえ。」
男は手に持った100円のライターをカチッ、カチッ、と起動させるが、それはぴたりとも炎を見せない。
男「タバコの火、持ってないか?」
「…これ使え」
ポケットからライターを取り出すと、男はそれを片手で受け止める。銀色のライターを開き、男はタバコに火をつけた。
男「ありがとう。」
銀色のライターを、男はすぐ返してくる。鏡に反射した自分の姿は、ほんの少し歪んで見えた。
ぷはぁ。と、男はまたタバコを大きく吐いた。
男「まあ、母が死んだ後の話でもするか。」
男はそう、切り出した。
男「母が死んだあと、父は家に帰ることが少なくなった。大体3日に一度程度だったはずだ。」
男「たまに帰ってくる父は大抵ベロベロで、ずっと何かに怒っていた。」
男「俺は虐待を受ける頻度自体は減っていたものの、傷の多さは変わらなかった。以前にもまして、父の虐待がひどくなっていた。」
男「頻度が減った代わりに、虐待が強くなった。その結果、何も変わらなかった。」
「…母がいなくなったことによる影響は?」
男「また質問かよ。懲りねえな。…母が死んでからは、とにかく部屋が汚くなった。」
男「いつもは毎日母が掃除していたリビングも、片付けてあった一升瓶も、毎日毎日捨てていたゴミ袋も、全部家にずっと置きっぱなしになった。」
男「世間のことを何も知らない俺は当然ゴミの捨て方すら知らなかったし、父は当然ゴミを捨てるなんてことはしない。」
男同士「当然、部屋はどんどんもので溢れて汚くなっていった。母の死体が置いてあった時と、そう臭いのひどさが変わらなくなるくらいには。」
男はまた、上を見上げた。さっきよりもほんの少し暗くなった空には、鴉が3羽、飛んでいる。
かあかあかあ、と泣くその声はどこかへと消えていく。
男「俺はその時には、感情というものを失ってた。毎日毎日、最低限生きるために飯を食い、用を足し、寝て、たまに暴力を受ける。そんな生活がしばらく続いた。」
男「いつも腹が減っていたし、いつも体が傷んでいたが、俺はそれに何も感じなくなっていた。」
男「心が死んでいた。なんていえば厨二病感溢れるか?でもな、本当に何も感じなかった。」
「今と比べては、どうだ?」
男「微妙なところだが、今の方が感情が豊かかもしれねえな。当時は本当に、何もなかった。」
「今よりも酷かったのか。」
男「ああ。」
男はそう呟くと、またタバコを口に咥え、また吐き出す。そうして、まだ半分ほどあるタバコの火を消して、それを地面へと投げ捨てた。
男「そんな生活が1年続いた時くらいか。あの日がやってきたんだ。」
男「俺はいつも通り寝室の隅で何もせずに、体操座りで過ごしていた。外はとっくに真っ暗で、何も見えない。そんな夜のことだった。」
男「帰ってきた父の様子が変だった。元々狂ってはいた父だったが、その日はいつもよりもさらにおかしかった。」
男「目に覇気がなく、瞳が虚で、死んだ魚のようだった。体がフラフラとしていて、まっすぐ歩けていない。それなのに、何故か怒っているような気がして、とにかくおかしかった。」
男「父は手に持った酒瓶入りのビニール袋をそこら辺に投げ捨てると、何故か一目散に俺の方へと、向かってきた。」
男「何も変わらない表情で、少し怒り、フラフラとしながら。俺は動かなかった。父がおかしかったことは分かっていたが、分かっていただけだったからだ。それ以上もそれ以下もない。」
「…薬物か?」
男「さあな。俺も知らない。狂った父は、俺の元へと向かってくると、突然俺の首を絞めた。」
男「最初はちょっとの力で、だんだん強くなっていった。今にして覚えば、父には幻覚でも見えていたんだろうか。」
男「俺の姿が正確に認識できずに、なんかの化け物にでも見えていたのかもしれねえ。」
男「ただ表情を変えずに、俺の首を絞めていた。」
男「あの時のことは今でも忘れない。苦しくて、息ができない感覚。段々と、前が見えなくなって、意識は朦朧としてくる。」
男「本能的に、俺はやばいと察知したようだった。気づけば、近くにあった酒瓶を手に取っていた。初めはちょっとの力で、段々と、力を込めて。」
男「無心で、何度も何度も、殴っていた。10分ほど、無心で殴り続けていたと思う。」
男「気づけば、息の苦しさは無くなり、首が絞められていた感覚も無くなっていた。」
男「俺の足元には、覇気がなくガリガリになっていた父が寝っ転がっていた。とっくに、死んでいた。頭から大量の血を流して、地面に倒れ込んでいた。それが俺の最初の殺しだ。」
「…」
何も、言葉が出なかった。
男「当時は何も思わなかったな。いや、何も感じなかった。父という人間が死んだ。その事実だけは理解していたが、感情に揺らぎが生まれなかった。」
男「元々母も、父のせいで死んだ。弱いものが強いものに飲まれて死ぬことは、俺の世界では常識だった。」
男「今回は、俺が父より強かっただけだ、と認識していたな。だが、この家にもう俺以外の人はいない。なら俺はどうなるんだ?という疑問を持ったことを覚えている。」
男は、あまりにも無機質な表情で、またどこか遠くを眺める。
男「人とは脆いものだと、あるいは、父と母は死んでしまったと。初めて行った殺しで、俺が理解したのはせいぜいそれくらいだったな。」
男が見つめる先に、何があるのか、俺には少なくとも見えない。
男「これが初めて俺が殺しを行った時の全貌だ。」
男はそういうと、また懐からタバコを取り出し、ライターを勝手に奪って、吸い始めた。




