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先生はバランスを崩して、桜の幹で頭を打ち、倒れ込んだ。それで、うんうん唸るけれど、起き上がらなくなった。わたしはケータイを拾い、救急車を呼んだ。説明すると、警察も来てくれた。
箭内先輩も怪我をしていた。額から血が流れて、左頬は腫れていた。服は泥だらけだ。わたしはハンカチで、先輩の額の傷をおさえていた。一緒に救急車にのるまでずっと。
わたしは廊下でずっと、先輩の処置が終わるのを待っていた。入院患者らしいひと達が居たけれど、九時を過ぎると誰も居なくなった。処置には時間がかかっているようだった。
先輩のお父さんと、上のお兄さん、それからわたしの母が来て、いろいろ喋っていた。制服の警察官が来て、わたしは起こったことを話した。すべてが遠く離れた場所の出来事のような、変な感覚が消えなかった。
先輩は入院することになった。頭に怪我をしていたのに、わたしを助けようとして、無理に動いたからだ。
「長尾、いいやつだけど、センスはなかったな」
箭内先輩は、病院のベッドの上で、そんなことをいう。わたしは否定しなかった。
花屋さんで買ったトルコキキョウをいけた花びんを、ベッドサイドの三段ボックスへ置いた。
「治田だから、ハッター、帽子屋、なんて」
先輩はちょっとぼうっとしてから、顔をしかめた。「いや、長尾がいいだしたんじゃないよな。うん……」
わたしは丸椅子に腰掛け、先輩の腕につながる点滴を見る。まだ、中身はたっぷりあった。
先輩は警察に、ここでいろいろ話した。わたしはその内容を、先輩のお兄さんから聴いた。
先輩はあの日、授業が終わると学校から直にあのコンビニへいって、兄がはねられる直前の映像を見たらしい。店長がどうにか、手にいれたのだ。どうやったのかは知らない。その連絡があったので、家に帰ることなく直行した。
さすがに、はねられる瞬間と、はねられた後は見せてくれなかったけれど、先輩には走っている兄が鞄のなかからケータイをとりだそうとしているように見えた。
ケータイで誰かに助けを求めようとしている、と思った。
もしかしたら、なにかから逃げていたのじゃないか。
「帽子屋」から?
先輩はそう思って、学校へ走って戻った。自転車はコンビニにあったのだ。わたしは学校へ行くのに必死で、見てもいなかった。
治田先生も知らなかったんだろう。自転車置き場に自転車がなかったのは、どう思ったのかな。家に帰って、歩きで戻ったと思ったのかも。
とにかく先輩は学校へ戻った。校舎の裏に自転車置き場があるのも、先輩の説の強化材料になる。
兄がなにかから一刻もはやく逃げようとしていたのなら、自転車置き場へ行く気にはならなかったかもしれない。コンビニへ逃げ込んだらいいのにそうしなかったのは、コンビニがある側へ行く横断歩道が赤だったからだろう。
先輩は学校へ戻った時、本当に偶然、聴いてしまった。帰ろうとする生徒達が、治田先生を帽子屋にたとえているのを。
治田先生のいいぶんは、大人達が教えてくれた。
わたしと箭内先輩が、毎日桜の木の傍でお弁当を食べているのが、先生には負担だった。わたしがプレッシャをかけていると考えていたのだ。単に、屋上がつかえないからなのに。
先生は怯えきっていた。
わたし達を桜の木から遠ざけようとした。でもわたし達はそこに行き続けた。それが先生には凄く大きなストレスになった。
そしてあの日、箭内先輩が、先生に詰め寄った。なにを隠してるんですかと。長尾が、帽子屋が隠してるといっていた、と。
治田先生はその「長尾」を、わたしだと思ったそうだ。だからわたしがあらわれ、先輩のことで先生にくってかかったので、口封じするしかないと思った。
箭内先輩は治田先生に、顔を殴られた。倒れたところへ、更に頭を殴られ、気を失った。治田先生は先輩を、椅子で殴っていた。とんでもないことだ。
先生は先輩のケータイを奪い、わたしに返信した。慌てていたから、常日頃の言葉遣いになったのだ。わざわざあんな文言を付け加えたのは、間違っても学校へ来てほしくなかったからだそう。その所為でわたしに、別人が書いたメッセージだとばれたのだから、皮肉なものである。
先生は先輩を、中庭の花壇の隅に運んだ。埋めるつもりだったらしい。
そこへわたしが来て、先生に先輩のことを訊いた。わたしの声で箭内先輩は意識をとりもどし、助けてくれたのだ。
「長尾、先生から逃げて、それで……」
わたしは先輩のベッドの向こう、カーテンの掛かっていない窓を見ている。その向こうには病院の別棟が見えて、景色は決して、よくない。
先輩は続きを口にしなかった。
先輩が殴られて大怪我したあの日から、半月経った。その間に、治田先生はいろんなことを喋った。わたし達は断片的にその情報を得た。大人達から、TVから、新聞から。
兄は、先生は桜の木になにか隠したんじゃないですかと治田先生に訊いた。それで、治田先生は兄を追いかけ、兄は車にはねられた。
先生は兄が落とした倉庫の鍵を、こっそり職員室へ戻した。兄が返しに来て、普通に帰ったように偽装したのだ。
治田先生が桜のなかに隠したのは、小さなナイフだった。