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先輩がいっている「長尾」が兄であることは、すぐにわかった。
「あの日」が、兄が死んだ日だというのも。
わたしはお弁当の包みを開くのをやめて、フェンスに寄りかかる。
うっすら白っぽい青の空が目にはいる。先輩の低めた声が聴こえる。
「あの日、長尾、残って片付けしてたんだけど、俺その手伝いしたんだ」
「……先輩、兄と同じ部だったんですか」
ちらっと見た。先輩は、頭を振る。「いや、俺はバドミントン部。長尾は、サッカー部だろ」
先輩は兄のことをたまに、現在進行形で喋る。わたしはその度に、どきっとする。
箭内先輩の話は、単純だった。
兄はあの時間まで居残る理由はない。それだけだ。
それは、当時サッカー部の監督だった薄田先生もいっていたことだ。わたしは聴き流していたし、両親もなにもいわなかった。反論もしないし、同意も示さなかった。
兄はサッカー部のつかう道具、だからボールだとか、基礎練習でつかうらしい紐だとか、そういうものを倉庫へ仕舞いこんで鍵をかけ、職員室へ鍵を戻す、という仕事を仰せつかっていた。
申し訳ないが、この高校のサッカー部は決して強豪ではないし、部活が厳しいということもない。兄含む当時の一年部員が監督に任されたのは、ひとりでできるような簡単な作業だった。
兄以外のふたりは、それぞれ家の用事があり、兄が請け負ったので先に帰った。兄から、帰れよ、といいだしたことだったそうだ。だから、兄自身も、簡単な作業だと思っていたのだ。
ただ、鍵を何時に職員室へ戻したのかが、はっきりしなかった。
倉庫の鍵は職員室へ戻っていたから、兄が作業を終えて鍵を返したのは確実なのだ。だけれど、それが何時だったかがわからない。誰かがうけとって、鍵をかけておく場所へ戻したけれど、それが誰だったのかがわからない。
箭内先輩はコーヒー牛乳を飲んでいる。
「男子バド部はゆるいんだよ。部員はほとんどユーレイだし。俺もあの日はさぼってた。補習くらいたくなかったから図書室で勉強してて、したら、長尾がボール拾ってるのが見えてさ。そしたら丁度、司書の先生に、もう遅いからって追い出されて」
図書室の窓からは校庭が見える。校舎からかなり離れた位置に、運動部用の倉庫があるので、窓際のテーブルで勉強していたら見えることもあるだろう。
わたしは先輩が買ってくれた、フルーツがのったプリンをつついている。購買にこんなものまで売っているのだろうか。
「長尾、俺がノートかりっぱなのも怒らないで、手伝ってくれてありがとうっていってた」
「……そうですか」
返事を求めているようだったので、そういった。先輩は困った顔になった。
「だからさ。俺が、長尾に、一緒に帰ろうぜっていってたら、長尾、残らなかったかもしれない」
プリンの容器を持つ手を、膝までおろした。
「……それ、いいたくて、ですか?」
「ごめん。俺が長尾ほうって帰ったから、あいつ、あの後……」
箭内先輩が、一緒に帰ろう、といっていたら、兄は一緒に帰っただろうか。
そうしたら、兄は車にはねられなかったんだろうか。
女子の先輩ともめた一件から、わたしはクラスメイトから避けられるようになった。二・三年の女子の先輩には、たまにいやがらせされた。ものがなくなったり、トイレに投げ込まれていたり、ごみに捨てられていたりは、たまに起こった。
体育の授業を終えて、その間に不思議なことに下駄箱のなかで水浸しになった上履きを、用務員さんにかりた雑巾で拭いていると、箭内先輩がやってきた。箭内先輩はすべての学年にも、用務員さんにも友達が居る。すぐに情報がはいるのだ。
「長尾、これつかって」
「あ、すみません」
「いや、謝るの俺」
タオルを渡された。わたしはナチュラルにそれで上履きを拭いてしまってから、苦笑した。「買って返しますね」
「いいって。俺の所為みたいだし」
「だから先輩は関係ないです」
スリッパをぱたぱたいわせながら、近くの手洗い場へ向かう。先輩が追いかけてきた。
「でもさあ」
「先輩は、兄のことを教えてくれただけなんで」
タオルを絞った。水がびちゃびちゃととびちる。
先輩がわたしの手からタオルをとって、しぼってくれた。さすがに男子で、腕力はわたしよりもある。水が更にびちゃびちゃととびちる。
それにしても、こんなに手の込んだことをするなんて、ひまなんだろうか。
溜め息を吐きながらまっすぐ前を見る。
窓の向こうに桜の木が見えた。
ああ、ここにあったんだ。そう思った。兄の話から、運動場にあると思っていたのだ。そうじゃない。中庭だった。体育の時になんとなく目でさがしてもなかったのは、それでか。
あれが、樹齢二十年。
もう花はない。葉だけだ。枝振りはいい。きちんと手入れされているのがよくわかる。途中に、充填剤を詰めているらしい場所があった。病気にでもなったか、雷で枝が折れたか、したのだろう。
実がなっているが、まだ色はあまりついていなかった。熟したら黒っぽくなる、苦くて甘い実だ。
桜らしい、白っぽくて粉っぽい木肌だった。
先輩はタオルをばたばたした。
「なんか、おわびしなくちゃって、思ってるんだ。毎日弁当もらっちゃってるのに、こんなに迷惑かけて」
「先輩」
「うん」
「兄と、最後にした会話、覚えてます?」
先輩を見た。先輩は頷いた。
その日はそのまま、スリッパですごした。上履きは、持って帰った。
校舎の裏にある自転車置き場で聴いたけれど、箭内先輩はわたしとは逆方向に家があるらしい。だからやっぱり、箭内先輩は兄が死んだことにはなんの責任もないと思う。
わたしの自転車を見て、長尾が話していた妹が入学したんだ、と気付いたそうだ。入学式の時の騒ぎを思い出した。兄を知っているほかのひとが騒いだのかもしれない。
わたしが家について、簡単に部屋を掃除して、近所のコンビニでお菓子を買って戻ると、家の前で箭内先輩が所在なげに立っていた。先輩の自転車は、我が家の塀に寄り添うように停められている。「持ってきた」
先輩は見た目に似合わず、日記をつけている。それを持ってきてくれたのだ。




