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入学して、何日たっていたか、正確なところは覚えていない。でも、入学してからまだはやい時期だ。
昼休みになり、早速できたグループがお喋りしながら出ていこうとしていると、廊下側の窓から先輩が顔を覗かせた。制服の上着の、胸ポケットにはいっているラインの色で、何年に入学したかわかるようになっているのだ。
「なあ」
そのひとは胸ポケットに黄色いラインがはいっていて、それは三年生、つまり兄と同学年だというしるしだった。
「長尾って居る?」
数人がわたしを見た。鞄からお弁当包みをとりだしていたわたしは、軽く手をあげた。
「わたし、長尾です」
「ああそう」先輩は頷く。「じゃ、長尾、一緒に飯くおう」
別に、断ったってよかったし、普通だったら断っていた。相手は男子だ。
でも、兄と同じ学年だったひとだ。
それがわたしをためらわせた。
自分の在籍しているクラス以外にはたちいってはいけないというのが、校則で定められている。それは初日に、担任の治田先生から聴いた。治田先生もここの卒業生で、その当時から校則はかわっていないといっていた。
なのだけれど、先輩は教室にはいってきて、わたしのお弁当の包みを奪った。「あ」
「俺、弁当持ってきてないから、パン買ってくる。屋上集合な」
先輩はそれだけいうと、走っていなくなった。
わたしはクラスメイトのひそひそ声をせなかに聴きながら、箸箱を持って教室を出た。
先輩はカレーパンとコロッケパン、コーヒー牛乳二本を入手していて、屋上のフェンスに寄りかかって座っていた。
「おう、長尾、コーヒー牛乳おごってやるよ」
「はあ」
「こっち、はい」
先輩はくしゃくしゃになったハンカチを自分の隣にひろげ、わたしはそこに座った。
先輩は、はい、と、わたしの膝に弁当箱をのせる。コーヒー牛乳はわたしの足に触れる距離に置かれた。
「ごめんな、弁当誘拐して」
「はあ……」
「話したかったからさ、長尾と」
先輩はカレーパンの包みを破いて、わたしを見た。
瞳が普通よりも色が濃いというか、黒い。肌は浅黒かった。日に焼けているのか、もとからその肌色なのか、わからない。髪は黒くて、さっきのハンカチみたいにくしゃっとしている。
先輩も、わたしを観察していたらしい。「長尾って、長尾の妹? 長尾照の」
お弁当のおかずは冷凍のハンバーグだった。先輩にひとつあげたら、長尾と一緒で優しいのな、と喜ばれた。
先輩は、箭内将史となのった。わたしが考えた通り、兄の同級生だったそうだ。
「長尾、勉強教えてくれたんだ」
箭内先輩はパンをすぐに食べてしまって、コーヒー牛乳のパックを左手に持っている。でも、まだ開けない。
「ノート、かりっぱだったから、返したかったんだけど、治田先生に相談したら、自分が渡すって、とられた」
「あ……」
お葬式の前の日に、そんなことがあった、気がする。当時兄の担任だった治田先生が来てくれて、学校に残っていたと、ノートを二冊渡されたのだ。兄が死んでしまった翌日に、父がすべてひきとった筈なのにと、不思議に思った。
そういえば、わたしは兄が一年の時と、同じ担任なのだった。
「あれ、箭内先輩だったんですね」
「うん?」
「あ、いえ、なんでも」
頭を振る。
箭内先輩がわたしのお弁当箱を覗いているので、フライドポテトを箸でつまんでさしだした。先輩はぺこぺこしながらそれをうけとる。
「……ケチャップもらっていい?」
「どうぞ」
笑ってしまった。先輩はフライドポテトにケチャップをつけて、おいしそうに食べた。
お弁当の半分くらいは先輩に食べられてしまった。
先輩は変なところが紳士的で、戻るまでになんかあるかもだからと、教室まで送ってくれる。「ありがとうございます」
「ううん。ごめん、俺いっぱい食べちゃって」
「大丈夫です」
「じゃあまた、長尾」
先輩はわたしの頭をぐしゃぐしゃっとして、走っていなくなった。
髪の毛にケチャップの匂いがついてしまった。
結局、先輩はどうしてわたしと喋りたかったのか、よくわからなかった。
でも、次の日も先輩は、昼休みになるとやってきて、屋上集合な、といった。わたしはお弁当をふたつ持って、屋上へ行った。予感がしていたのだ。
「どうぞ」
「え?」
「食べてください」
先輩にお弁当箱と割り箸を渡すと、きょとんとされた。
わたしは自分のお弁当箱を開ける。
「昨日のコーヒー牛乳のお礼です」
「あ……え、いいの」
「兄のお弁当箱ですけど、いやじゃなければ」
先輩はにこっとした。
たいした手間じゃない。冷凍食品と、レンチンしたご飯と、余りものをつめただけ。お弁当は自分でつくっているし、兄がつかっていたお弁当箱がまだあった。
箭内先輩は嬉しそうにお弁当を食べた。先輩が買ってきた焼きそばパンとメロンパンは、半分こして食べた。
「ありがと。長尾、料理うまいのな」
「冷凍食品がほとんどですよ」
「そうなの?」
頷く。「先輩、どうしてわたしと話したかったんですか」
先輩が急に黙った。
どうしてわたしと話したいのか、先輩はその日、話してくれなかった。
お弁当は毎日ふたつ持っていったし、先輩は毎日昼休みになるとやってきた。たまに、購買で買ったというお菓子や、スイーツをくれた。
ご飯の減りがはやいと母にいわれて、兄の友達だと先輩のことを話すと、ちょっと笑っていた。
兄を思い出してつらいとか、いやだとか、そんなことはない。兄にあんな友達が居たんだと、わたしは不思議に安心した。
「長尾さんってさ、箭内先輩の何?」
五月の中頃、クラスの女子につれられて、体育館の傍まで行った。そこには二年の女子生徒が三人居て、わたしは突然問い詰められた。クラスの女子は離れたところで項垂れている。あの子は、バドミントン部だっけ。このひと達もそうだったと思う。
女子バドミントンは、この高校では活動が盛んなクラブのひとつで、全国大会にも出たことがある筈だ。兄の所属していたサッカー部とは違う。体育会系の雰囲気が強く、上下関係が厳しいというのは小耳にはさんでいる。
箭内先輩とのことは、兄に関わりがある、あまり触れられたくない事柄だった。わたしは反抗的にも、女子の先輩になにも答えなかった。
わたしが黙ってじっとしていると、先輩達は距離を詰めてきた。
「箭内先輩って、女子に優しいからさ。勘違いしないほうがいいよ」
「バド部の女子とも仲いいし、あんただけのことじゃないんだから」
「先輩の友達の妹だか知らないけど」
「ほんと」
「死んだ兄貴のこと利用して近付くなんて最低だよね」
わたしは踵を返し、走って職員室へ逃げた。
わたしはあんまり、性格がいいほうじゃない。身の危険を感じたから、ポケットのなかでケータイを操作して、会話を録音していた。
先生にそれを聴かせると、女子生徒達は注意されたらしい。その親にもなにかしらの通達があったそうだ。おかげでクラス中のひんしゅくを買ったけれど、兄のことで余計なことをいったのはあちらだ。
箭内先輩は次の日、屋上でわたしに謝ってきた。
「いいですよ」
「でも」
「失礼なこといってたのは、箭内先輩じゃないので」
先輩は困った顔になって、フェンスへ寄りかかった。
「あのさ」
「はい」
「俺、長尾とあの日、話したんだよ」