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先輩は結局、進学した。
わたしも同じ大学へ進んだ。
あれから何年か経つ。
わたしと先輩は、今、結婚して、桜の木があるわたしの実家に住んでいる。先輩は休みの日には草むしりをする。わたしは先輩の好きなハンバーグをよくつくる。野草茶も、母に教わって、つくるようになった。たまに、夫婦で先輩のお母さん、だからわたしのお姑さんのお見舞に行く。
わたしに一目惚れしたのだと、高校を卒業する前に先輩は教えてくれた。
事件のことは、その一年半後に、物好きなひとが本にして出版した。わたし達も取材をうけたし、本は読んだ。
治田先生の生い立ちはそこで知った。治田先生は、実の母と義理の父に育てられ、両親の離婚に際して義理の父にひきとられた。それから一度も、実の母に会ったことがない。
更に生育環境の悪さが、本のなかではとりあげられていた。ニュース番組で盛んに、当時治田先生をうけもっていた担任のインタヴューが流れたけれど、その時もたしかに、家庭環境が悪かったといっていた。
治田先生は、兄のようななんの力もない高校生に怯える必要がないくらいに、過酷な環境で育ったらしかった。
あの、箭内先輩が怪我をした年、わたしが兄の秘密を読んでしまったあの年の、次の年。学校の桜の木はつぼみをほとんどつけず、徐々に徐々に樹勢を落とし、最後には立ち枯れてしまった。
充填剤の付近をけずったのが、あの桜の木には相当な負担だったのだ。
学校にとって、ずっと昔の殺人事件、それにわたしの兄の事故、更に先輩の怪我にも関わっているあの桜の木は、なくなってもいいものだった。けれど、事件が大きく報道されていたからか、まだ生きていた桜の木の伐採を請け負ってくれる業者は居なかった。縁起が悪い、と。
あの桜の木が枯れたのは、学校にとっては嬉しいことだった。
治田先生も、あの桜の木のような存在だった。無理に植え替えられ、枝を矯められ、余分に見えるものを摘みとられて、すっかり弱くなってしまった。弱くなったから、自分をまもるのに必死になるしかなかった。
兄も、どこかでひとつ、なにかが間違っていたら、そうなっていたかもしれない。
昨日、ひとづてに、学校の桜の木のことを聴いた。先輩のお母さんが入院している病棟の、看護師さんからだ。そのひとも別のひとから聴いたといっていた。あの高校の卒業生は、この辺りには多い。
枯れた桜の木は切られて、根もとりのぞいた筈なのに、その部分に桜のような木が生えてきているのだそうだ。
あの桜はうちの桜と同じで、実がなるものだった。もしかしたら、上履きを水浸しにされたあの日、目にした桜の実が、地に落ちて芽吹いたのかもしれない。
もしそうなのならば、今度は無理に矯められることのないように願う。