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あの桜の木は、二十年前に植えられたものではない。二十年前に植え替えられたものだった。もともとは別の場所に植えられていたものを持ってきた木だったのだ。それがいつの間にか、二十年前に植えられたという話になった。
植え替えをしたひとの腕がよければ、なんの問題もなかっただろう。でも、そんなふうにはいかなかった。
あの桜の木は、見た目以上に弱っている。植え替えがうまくいかなかったし、その後の処置もよくなかった。だからあの木は、治田先生が通っていたことに、横に張り出していた大きな枝が腐って、落ちてしまった。そこには小さなうろができたそうだ。
治田先生は当時、荒れていた。家庭に問題があるが模範的な生徒だったと、当時から高校に勤めている先生達はTVのインタビヴューに答えていたけれど、実際はそうではなかった。仲間達と、万引きや、カツアゲ、喧嘩など、そういうものをしていた。でも、治田少年はそれをうまく隠していた。
ある時クラスメイトが、治田先生が見た目ばかりで中身は悪くなっていると知った。万引きを目撃したのだ。
その場で治田先生を問い詰めた少年は、治田先生が喧嘩やカツアゲをしていることも、その為のナイフを持っていることも知らなかったのだろう。
それでその少年は、治田先生に刺されてしまった。治田先生はその場から逃げ、少年は翌日、死んでいるのが発見された。
治田先生は、学校に逃げていた。
桜の木のうろに、洗って綺麗にしたナイフを隠した。とにかく自分や、自分の家からナイフが出たら、いいのがれできなくなる。だから一時的にそこへ置くつもりだった。後で仲間に渡すなり、海へ捨てに行くなりしようと考えていた。
治田先生は次の日、少年が死体で見付かったと知って、安心したらしい。少なくとも、彼が自分を告発することはない。そう思ったからだ。
たまたま、ひとりで万引きをした。やっぱり仲間達と一緒にやるのが安全だ。そう思いながら学校へ行って、治田先生は呆然とした。桜の木のうろに、充填剤が詰められていたから。
なかにあったナイフはどうなっただろう?
血は洗い流したけれど、素手で作業していたから指紋は残ってしまっている。
ナイフの形状を調べれば、死体の傷痕と一致する。
治田先生は途端に、こわくなった。
治田先生はそこから、悪いことをやめた。仲間達とも縁を切った。同じクラスの少年が刺殺されたからこわくなったのだというと、仲間達は治田先生を臆病者と呼んだけれど、仲間にとどめておこうとはしなかった。
治田先生は心配だった。ナイフが見付かることが。そこから自分の指紋が出ることが。
治田先生は教師になって、高校へ戻った。桜の木を見張る為に。
桜の木は弱っている。いつ枯れても、倒れても、おかしくない。
桜の木がだめになる瞬間に、その場に居たかった。
その場に居て、ナイフをこっそり盗みたかった。
兄がどうして、桜の木に治田先生がなにかを隠していると知ったのかは、わたしも箭内先輩も、わからなかった。
ただ、兄が桜の木のことを、学校の年鑑で調べていたのは間違いないようだ。図書室に記録が残っていた。あの桜が植え替えられたものであるというのは、だから兄は、死ぬ前には知っていた。
「長尾、どうしてひとりで、先生に近付いたんだろう」
わたしは頭を振る。それについては、わたしにはひとつだけ、心当たりがある。でも、誰にもいわない。そう決めている。
点滴がなくなりそうなので、看護師を呼んだ。わたしは、また来ますねと行って、病室をあとにした。
警察が、桜の幹に隠されたナイフをとりだすと決めて、学校がそれを承諾したから、充填剤の近辺が切られた。
けれど、幹のなかには、充填剤以外なにもなかった。
なにもだ。ナイフなんて、影も形もない。
わたしと、退院した箭内先輩は、やっと改修が終わった屋上に出て、お弁当を食べている。先輩が食べたがるから、おかずはハンバーグにした。
「まあ、あたりまえの話だよな」
先輩は脚を投げ出して、コーヒー牛乳を飲んでいる。「余計なもんがあったら、とりだすよ、そりゃあ」
わたしは頷いた。
ナイフが見付からないことが新聞で報道されると、それを読んだひとが警察に情報を提供した。かつて、桜の木の世話をしていたひと達だ。示し合わせた訳ではないけれど、ほとんど同じタイミングで情報提供があった。
そのひと達は、充填剤を詰めた現場にも立ち会っていた。
ナイフみたいな金属は目立って当然だ。だから、現場の人間が気付いて、とりのぞいていた。
生徒がいたずらでいれたか、ゴミ捨て場になってしまったのだろうと、そのひと達は判断した。ほかにもごみがはいっていたらしい。パンの包装とか、くしゃくしゃにまるめた答案用紙とか。
だから、ナイフはもう、この世にはない。その業者がまとめてごみとして捨てたからだ。
治田先生は、ありもしないものを見張り続けていたのだ。
それから、兄がどうして桜の木のことを知ったかも、わかった。
兄は、たまにあの桜を眺めていた。桜が植え替えられたものだと知ったあとも、そうしていた。そして、その時に、桜を世話している庭師と、会話したのだ。
そのひとりに、当時まだあの桜の世話を続けていた、充填剤を詰める現場に立ち会ったひとが居た。
そのひとは兄に、充填剤を詰める時に、ごみが沢山あったのだという話をした。お菓子の包み紙や、答案などにまざって、場違いにもナイフがあったことを、兄に話した。
そのひとに罪はない。ものが、本来あるべきでないところにある。その違和感を、そのひとが覚えていて当然だし、あの桜の木に興味を持っている兄に話したのだっておかしなことではない。
その前から、兄は治田先生を調べていた。今になって、兄のことも調べなおされ、当時の職員のひとりが、兄が治田先生の経歴を知りたがっていたと話しているらしい。特に、何年卒業か、を。
そこから兄は、治田先生が在校中に、この学校の生徒が刺殺されていることに、図書館かどこかで調べて気付いたのではないだろうか。
治田先生が、隠したナイフを見張る為に戻ってきたのだと、そう気付いた。
いや、多分、逆だ。
桜を調べていて、治田先生に辿りついたんじゃない。
治田先生を調べていて、桜を調べることになった。
そういうことだと思う。
兄は、治田先生を好きだったようだから。
兄が死んでしまったあの日、わたしは兄の部屋から小さなクッキー缶を持ちだして、自分の部屋に隠した。
本当は、捨てないといけないものだ。そう約束していた。もし俺が死んだらこれは始末してくれと、そう頼まれていた。
兄は死ぬつもりなんてなかった。ただ、万一自分が死んだ後に家族に見られたくないものを、秘密で処分してほしい。そういう意味でいったにすぎない。現に兄は、小学校の高学年くらいから、そのことをわたしに約束させていた。
でも兄は本当に死んでしまった。
あのクッキー缶は、ずっと、ひきだしのなかにいれてあった。捨てることはできなかったし、開けるのもこわかった。だから見ないふりをしていた。
でも、箭内先輩が大怪我して、治田先生が捕まって、わたしはあのクッキー缶を開く気持ちになった。
中身は、兄の日記らしきものだった。短い詩のようなものや、書きかけの小説も、所々に書いてある、分厚くて小さなノートだ。
小説部分は、自分が同性愛者であることを隠し、嫌悪している少年が、運命的に出会った「帽子屋」の青年を捕まえて飼う、という内容だった。
少年にも帽子屋にも名前はない。だが帽子屋の描写は、治田先生に似ていた。
兄の几帳面な字は、「帽子屋」をいたぶる描写を何度も繰り返し書いていた。
兄が本気でそんなことをしたかったとは思わない。
でも、治田先生の秘密を知った時に、それをもとに先生をゆすれると考えたかもしれない。
秘密を共有することで、先生を心理的に縛ることができると思ったのかもしれない。
先生をまもっている気になったのかもしれない。
箭内先輩が見た監視カメラの映像も、兄はケータイをとりだそうとしたのじゃないと、わたしは思う。
もしそうだとしても、兄は警察に通報しようとしたのではない。ただ、迎えを呼ぼうとしたのだ。父か母を。もしかしたらわたしを。
兄は治田先生を告発する気はなかった。それは間違いない。もし告発するつもりだったなら、治田先生になにもいわずに、警察に届ければいい。
兄の秘密は、もう焼いてしまった。
兄には申し訳ないが、わたしは治田先生をまもれない。まもろうとも思わない。
わたしがわからないのはひとつだけだ。どうして、兄が箭内先輩に、思わせぶりに「帽子屋」なんてことをいったのか。
兄なりに、自分がこれからしようとしていることに、罪悪感があったのだろうか。
それだけはきっと一生わからないだろう。
先輩はお弁当箱をからにして、フェンスに寄りかかった。
わたしもそうする。
桜の木を世話する業者は、兄が死んだ後にかわっていて、前の業者は潰れてしまったそうだ。だから、事件が大きく報道されるまで、ナイフのことで出てくるひとが居なかった。どうして業者がかわったのかというと、その業者につとめていたひとが、兄を車ではねたからだ。
「長尾」
「はい」
「ありがとう。来てくれて」
「いえ。先輩、もう無茶はしないでくださいね」
「ああ」
先輩はこちらを見て、笑顔になる。「それって、俺のこと好きだから、心配してくれてる?」
「はい」
そう答えると、先輩はぽかんとした。