第二章
カイドと最後に会った日から二週間が経っていた。
ルーティエは変わらず布教活動を続けていたが、以前の明るさがなくなり、いつも何か物思いに耽っていた。
そんなルーティエを人間達は心配そうな目で見つめていた。
今日の布教活動が一区切りついたルーティエは木陰で休む。
視線の先には、”恵みの森”からカイドを移動させて欲しいと懇願した村があるが、今のルーティエの目に写し出されてはいなかった。
(カイド、何であんなことしたの?)
あの日からルーティエの思考を独占しているのは、九割九分カイドのことだった。
意図せず無意識に自分の唇をゆっくりと指先でなぞると、ふと我に返り手を放す。
顔が真っ赤に染まり、膝を立てると顔を埋める。
(もう、何なの!)
理解不能なこの想いにルーティエは悶々とする日々だった。
あの時、確かに恐怖を感じたルーティエだが、今振り返ると何故かそれが嫌ではなかったと気づく。そしてそれが何故なのかと戸惑う。
(私、どうしたんだろう?)
カイドとの距離が近くなったと感じたのに、あの時はそんなモノ幻想だったかのように、カイドが一気に遠くなり、存在が感じられなかった。彼があんなふうになってしまったのは、間違いなくクルツィクが原因だと思う。
(一体何があったの?)
出口のない思考を繰り返していると、村から子供達が駆け寄ってくるのが見える。
「こんにちは天使様」
「こんにちはー!」
「こんにちは!」
邪気のない笑顔を向けられ、自然と笑みが零れる。
「こんにちは」
何人かの子供達はルーティエの翼を好奇心一杯に見続け、先頭に立っていた子供が元気な声でルーティエに尋ねる。
「天使様、今ってお休み中ですか?」
「え?うん、そう」
ルーティエの返答に子供達の目が輝くと彼女の腕を引っ張る。無理矢理立たせられ足がもつれそうになる。
「ど、どうしたの?」
既に走り始めていた子供に引っ張られる格好で、ルーティエは村へと連れて行かれる。
「今日は特別な日!」
「そうそう!」
「特別―!!」
「・・・・・特別?」
子供達の言葉に首を傾げながら、彼らの服装に目が留まる。普段彼らが着ている服とは違い、幾分上品な装いに見え、胸元には一輪の花が挿してある。
一人の子供が嬉しさを隠しきれず大声で叫ぶ。
「今日は結婚式があるんだ!」
村に足を踏み入れると、村全体が結婚式の会場となっていた。至る所に花やリボンが彩られ、正装した村人達が皆笑顔で新郎新婦を見守っている。
初めて目にする人間の儀式にルーティエは落ち着きなく辺りを見回す。
「村長さんがね、天使様にも祝福してもらったら、二人がもっと幸せになるかもしれないって言ってたんだ」
「だからぼく達天使様をここに連れてきたー!」
「天使様も一緒にお祝いしよー!」
「しよー!!」
大興奮の子供達に圧倒され言葉が出てこないルーティエだが、視線は司祭の前で誓い合う新郎新婦へと釘付けになっていた。
素朴ながらも暖かみを感じる式。
村人達全員の笑顔。
喜びを皆で分かち合う。
連鎖する幸せに、ひと際大きな歓声が湧き起こる。
新郎新婦が口づけを交わしていた。
瞬間、カイドを思い出しルーティエの顔は子供達が驚くほど真っ赤に染まる。
「天使様どうしたの?顔が真っ赤だよ!」
「気分でも悪いの?」
ルーティエは首が取れそうな勢いで首を横に振ると、子供達に照れ笑いを見せる。
「初めて結婚式を見たから驚いたの」
大人ならこの返答で納得しないかもしれないが、素直な子供達は頷いて笑顔を返してきた。
しばらくすると新郎新婦がバージンロードを歩きながら村人達に祝福される。子供達も二人を近くで見るために、我先にと人混みに向かって走る。
残されたルーティエはその光景を遠目に見ながら、小さな呟きを漏らす。
「・・・・・どうして口づけしたの?」
「そんなの決まってる!」
「!?」
誰もいないと思っていたら、すぐ側に子供が立っていた。
どうやら他の子供達には付いていかなかったようだ。
「・・・・・決まってる?」
恐る恐る小さな女の子に尋ねると、待ってましたと言わんばかりに口角をくっきりと上げる。
そして胸を張って堂々と答える。
「特に好きだからするんだよ!」
「!」
「お父さんやお母さんは頬っぺたにするけど、特別好きな人は口にするってお母さん言ってた!」
天使様にご教示した子供は笑顔で新郎新婦の元へと駆け寄って行く。
ひとり残されたルーティエの思考は完全停止し、村人達の喜びも賑わいも上の空で、子供達が新郎新婦を連れて再び自分の元へと戻ってくるまで動けずにいた。
その夜。村で一夜を過ごしたルーティエ。
そこで初めて女子会を経験した彼女は、人間の女性達に様々な講義を受けた後、カイドに会いに行く決心をした。
いつもと変わらず草むらで起床したカイドは、いつものように大樹には登らず、湖に来ていた。
始まりはこの場所だった。
この場所がカイドにとっての唯一無二の家で、世界だった。
どれだけ渇望してもあの日には戻れない。
約七百年間、苦しみ、もがき、悲嘆の、絶望の日々が続いた。
それでも生き続けていたのは、この場所を守りたいと思ったからだ。
唯一の居場所。少し前までは呪いだと錯覚するほど、自分を縛りつけていた居場所。
でも、覚悟を決めた今は落ち着いている。
(あいつのおかげかな?)
カイドは自嘲気味に笑う。変わらない毎日に突如として現れたルーティエ。
カイドの話しを聞かず、勝手に決断して、勝手に居座って、勝手に話し出す。
神や人間、悪魔のために力の限り行動するとびきり甘い天使。
彼女の内側から発せられる生命力に、満ち溢れた輝きに、目にするだけで元気にしてくれる強さがあり、癒される自分がいた。
感傷に浸っていると、待ち望んだ者が現れた。通常ならば一ヶ月に一回の間隔で森を訪れるのに、今回は短い。ストレスが溜まることでもあったのだろう。
「罪証四六二一五」
振り向くと予想通り、中位天使クルツィクが立っていた。
カイドは彼を真正面から見つめる。
普段の彼とは違う雰囲気にクルツィクは眉根を寄せる。それに不快なモノを感じたクルツィクは、カイドの後ろにある湖へと視線を向ける。
しかし、視線をカイドが遮る。
「お前みたいなクズが見るな」
「!」
「お前が森に入るだけでも吐気がするのに、湖がお前の視線に晒されるなんて許せない」
今まで何をされても動じなかったカイドが怒りを隠さず感情をぶつける姿に驚くクルツィク。それもほんの一瞬で、すぐに笑み取り戻す。
「私にそのような暴言を吐くとは、これは早速調整が必要ですね」
カイドの胸ぐらを掴もうと手を伸ばすが、彼が軽く後ろに跳び拒絶する。
「あんた達天使に何をされようが目を瞑ってきた。あんたが言うように俺は本当に罪証なのかもと知れないと思ったこともあったからな・・・・・・でも、それももうどうでも良い。俺は俺の思う通りにやらせてもらう」
カイドのハッキリとした意思表示にクルツィクは笑みの仮面を捨てる。
「罪証四六二一五。罪深き者の証であり、決して逃れることはできない。唯一の救いは私達天使によって調整されることです」
自信満々に言い放つクルツィクにカイドは鼻で笑う。
「調整?あれは一方的な暴力だ。それに罪証と勝手に決めたのはお前達天使だ。神じゃない。神はそんなことに関与しない。それも忘れたとは、天使の頭は悪魔以下だな」
「!!」
天使であることに誇りを持つ彼らにとって今のは侮辱に他ならなかった。
「罪証四六二一五。貴様に調整の必要はないようですね。即座に悪魔達の元へと送って差し上げましょう」
殺気をカイドに放つ。
(予定通りだな)
クルツィクの挑発に成功したカイドはあまりの単純さに内心ほくそ笑んでいたが、森が傷つくのはなるべく避けたかった。
(しょうがない、か)
一触即発の中、覚悟を決めたカイドに襲いかかろうとするクルツィク。
「何をされているのですか!」
勢いよく空からふたりの間に割り込むルーティエ。
その息は切れ切れで、全速力で森に到着したのが分かる。
「・・・・・・・・ルーティエ」
クルツィクは殺気を収め、ルーティエを一瞥する。
彼女は真っ直ぐにクルツィクの元へと近寄り、カイドに背を向けた。
「クルツィク様。おやめ下さい。彼は私や人間に危害を加えること、何一つしていません。それなのにこのようなこと・・・・・!」
肩で息をし声を荒げるルーティエを目にし、徐々に冷静さを取り戻すクルツィク。事の重大さに今になって気づく。
(危ないところでした・・・・・・このまま戦っていれば・・・・・・・・)
クルツィクの視線がカイドを捉える。彼は声を発さない代わりにクルツィクを嘲笑うような笑みを向ける。
彼の狙いに気づき、クルツィクは内心悪態を吐く。
そして何事もなかったように、ルーティエに微笑む。
「悪魔を教育しようとしましたが、熱が入り過ぎてしまいましたね。止めてくれてありがとうございます、ルーティエ」
「いえ、出過ぎた真似を・・・・・」
「謝罪は不要です。本当に助かりました。さぁ、一緒に天界に戻りましょう。久しく戻っていないのでしょう」
差し出された手を見つめながら、ルーティエは頭を下げた。
「まだ人間達との約束を果たせていませんので、私は人間界に残ります」
一瞬、クルツィクの眉根に皺が寄るのを見逃さなかったルーティエだが、敢えて知らないふりをした。差し出した手を戻すとクルツィクは翼を広げ宙に浮く。
「では、私は先に天界に戻ります。ルーティエ、悪魔には十分気をつけるのですよ」
再び深々と頭を下げるルーティエを見下ろすと、カイドを一瞥することなく天へと飛んで行く。その胸に、憤怒の炎が残されたまま――――――――――。
クルツィクが去ると、ルーティエは後ろを振り返る。
そこにはあの日と違う普段のカイドがいた。
そのことに安堵しつつ、目をこれでもかと見開くと持ち前の明るさで宣言する。
「全部話してもらうわ!」
勢いに任せて突撃したまでは良かったが、いざカイドと対面すると次の言葉が出てこない。
(しっかり、私!何のためにここに来たの!カイドにクルツィク様との関係を・・・・・じゃなくて、カイドに人間のお菓子の感想を・・・・・じゃなくて、カイドにこ、こ、こ、こ、こ・・・・・)
向かい合ったまま、一分、三分、五分、十分と時は過ぎていく。
痺れを切らしたカイドが腰に手を置き溜め息を一つ吐くと、ゆっくりとルーティエに近づき手を握る。
胸が高鳴るのを感じたルーティエだが、カイドは表情を崩すことなく至って冷静だ。
何故かそれが・・・悔しい。
「行くぞ」
「?」
カイドはルーティエの手を引き湖に向かって歩き出したが、速度を変えず進み続けるので、このままだとふたり仲良く湖に落ちてしまうと思った。
「カイド、このままだと・・・・・・・・・・・・・・あれ?」
湖に到達したカイドとルーティエ。
しかし湖に落ちることはなく、湖の上に立っている。
「どうして湖の上に立ってられるの?」
「湖に見えるけど湖じゃない。これは俺の力そのものだ」
「え?カイドの・・・力?」
曖昧な笑みを浮かべると、また前を向いて歩き出す。
そしてルーティエに背を向けたまま、逡巡した後、はっきりと告げる。
「ルーティエ、この間は悪かった」
「!」
不意打ちの謝罪に、湖に目を奪われていたルーティエは、カイドの背中を凝視する。
「あんな真似・・・・・もう二度としない」
どんな表情で言っているのかは分からないが、声には真剣さと誠意が感じられた。
ルーティエはカイドと繋がれた手を見つめながら強く握り返す。
「・・・あの日のカイドすごく怖かった」
「ああ」
「クルツィク様が原因?」
「・・・・・・九割、な」
残りの一割は自分の欲望ですというのは口にせず、胸に秘めた。
「カイドの身体もクルツィク様が?」
「他の天使もあるけど、ほとんどはあいつだ」
「・・・・・・・・・・」
予想はしていたが、カイドの口からはっきりとその事実を聞くと胸の痛みと重みが増し、苦渋に満ちた表情になる。
その顔を、一瞬盗み見るカイド。
(そんな顔、させたくなかった・・・・・)
再び森に姿を現したルーティエ。
再来を望んではいなかったが、いざ姿を目にすると嬉しい気持ちを否定できず、内心苦笑するカイド。
沈黙を貫き相手にせず、無視し続ける選択もあったが、ルーティエは納得せず、断固説明を求め続けるだろう。
酷い仕打ちを受けてもなお、ここに来るのだから。
「ルーティエ、俺が嘘ついていると思わないのか?」
「カイドが嘘つくわけないじゃない!」
悪魔と思っている自分の言い分を素直に受け入れ、間髪入れず真っ直ぐに答えるものだから、カイドは声を上げて笑ってしまう。
「どうして笑うの?」
「ルーティエだな、と思って」
「?」
(ああ・・・・・やっぱり好きだ)
ルーティエを好きになってしまった。
この気持ち、認めてしまおう。
だから、彼女に話す。
いや、違う・・・・・俺が聞いて欲しいのだ。
唯、話すことで、これ以上彼女が傷つかないことを願いながら――――――――――――――。
足を止めたカイド。気づけば湖の中央に来ていた。
「いろいろと話す前に、二つ見てもらいたいモノがある。一つ目はこれだ」
カイドに促され隣に立つと、彼と同じように視線を下に落とす。
「っ!?」
悲鳴を上げそうになったが、寸での所で持ちこたえる。
ルーティエ達の視線の先、湖の底にはたくさんの灰と焼け焦げた木片、そして、一体の人骨と少し離れた所にひとりの天使がいた。
「・・・・カイド・・・・これって・・・・」
唇を震わせながら言葉を紡ごうとするルーティエ。倒れないように無意識にカイドの腕を掴む。
「俺の父さんと母さんだ」
「え?」
反射的にカイドを見る。
泣きたくても泣けない子供のような彼がいた。
ルーティエの手を優しく振り解くと、上着を脱ぎ捨て、傷だらけの背を彼女に向けた。
すると、左側の肩甲骨辺りから、真っ白な片翼が姿を現した。
ルーティエは両目を見開き、カイドと舞い落ちる羽根を交互に見つめるだけで、言葉を失う。
カイドはルーティエへと向き直ると、衝撃で動けない彼女に微笑する。
「これが見せたいモノの二つ目。俺は天使の父親と人間の母親との子供だ」
深い哀しみと切なさを兼ね備えたその微笑に、ルーティエは目を逸らすことができず、唯々、彼を熟視し続けた。