その11
最終回。
岡元りなは、焦っていた。言い付けられた通りに出来なかった。彼女は“長海駅の幽霊話”のルールを、遵守出来なかったのだ。契約の不履行。その結果、待つのは何か。
「ひっ!?」
綺麗に飾り立てた爪は、噛みすぎたせいで無残に割れている。いつもはゆるく巻いている髪も、ぼさぼさに乱れていた。
岡元りなは“何か”から逃げるように、夜の街をさ迷っていた。
「せ、世紀様?」
いつの間にか、路地裏に迷い込んでいた。背後に気配を感じて、振り返る。
「見え透いた呪いね」
そこには刃よりも鋭い目をした、篠峰静眞がいた。
「だ、誰よ、あんた」
「お前、瀬里沢世紀の差し金でしょう」
瀬里沢世紀。その名前を聞くだけで、岡元りなは身震いした。彼は自分のことを許しはしないだろう。あの甘い毒のような声は、たった一つの失敗すら認めない。
「それと、武部の腕」
「あれは、あんたが!?」
岡元りなは呪いを施した。それは瀬里沢世紀に命じられ、御櫛己己共の動向を探るためだ。そのために付き人である武部泰治に“歯型を付けて”彼を操ろうとした。
「あんな稚拙なもの、わけない」
それを壊したのだ、目の前の篠峰静眞が。岡元りなは生まれて初めて、恐怖に震えあがった。
「もしかして、あんたがあの瀬里沢――」
「それ以上、言うな」
岡元りなは口をつぐんだ。いや、黙らされたのだ。何か見えない圧によって。
瀬里沢世紀は、ある宗教団体の二代目代表をつとめている。しかし裏の顔は“本物の霊能者による日本救済”を掲げる、狂信的テロリストだ。その瀬里沢世紀が、度々口にする名前があった。
瀬里沢刹那。曰く“本物の霊能者”。今は行方が知れない、彼の姪だ。
「何が目的?」
「し、知らない! りなは何も!」
岡元りなは瀬里沢世紀の命令で、今回の“長海駅の幽霊話”を再現しようとした。彼の目的は分からない。ただ彼女は言われるがまま“一心乱”で“長海駅の幽霊話”を広め、枕崎早苗、勝田亜紀、布井万葉の三人を殺した――本物の“長海駅の幽霊”の力を借りて。
簡単な仕事だった。萩生希子の自殺をきっかけに“長海駅の幽霊話”はより強い現実感を帯びていた。そして設定通り九月一日に枕崎早苗を線路へ突き落としたことで、呪いは完成したのだ。あとの勝田亜紀、布井万葉は完成した“長海駅の幽霊”にただ命じればよかった。
元々、枕崎早苗たちとは反りが合わなかった。そんな彼女たちが、恐怖に怯えている様は愉快でもあった。岡元りなにとって、自分以外の目立つ存在は目障りなのだ。それは萩生希子も例外ではなかった。
「まぁ、いい」
圧が消え、岡元りなは安堵した。全身から力が抜け、その場にへたり込む。
「岡元りな。どうして茜子を狙ったの?」
「っ!!」
首もとに文字通り刀を突き付けられるような感覚。岡元りなは、再び声を震わせた。
「それも! 世紀様の命令で! りなは何も知らない、知らないんだってばぁ!」
篠峰静眞は、氷のような目で岡元りなを見下ろしている。
「あの男が何をしようとしているかなんて、興味ない」
岡元りなは喉を押し潰されそうな感覚に陥った。言葉を発することも、指先すら動かすことも出来ない。
「だけど茜子に何かしたら、絶対に許さない」
もう恥も外聞もなく、岡元りなはあらゆる体液を分泌していた。目の前にいるのが、本当に同じ人間だとは思えなかったのだ。
「“眼球をくれてやる”」
篠峰静眞は自らの“目に見えるもの”を信じる。たった独り、血を吐くような思いで。
「じっくり見ればいい、自分が“何を”怒らせたのか」
岡元りなは視界が熱くなるのを感じた。すでに篠峰静眞は背中を向けて歩き始めている。遠くなる背中が陽炎のように揺らめき、やがて雑踏の中に消えた。
「たす、かった……?」
その時、岡元りなの耳に何かが囁いた。
「――こっち見ないでよ」
それは長く波打った黒髪をべったりと頬に張り付け、岡元りなをじぃーっと見ていた。女かもしれないし、男かもしれない。この世ならざるものが、岡元りなには“見えた”。
許しを請うことも出来ず、彼女は引きずり込まれた。深い、闇の中へ。
眼球をくれてやる外伝~“長海駅の幽霊話”編~・完
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